「2020年」(6.白ガラスの化身<鳥飼晃(翻訳者)の場合>)

【モハンティ三智江のフィクションワールド=2021年1月3日】鳥飼晃(うかい・のぼる)はかつて、新宿御苑にオフィスを構えるフリーの翻訳者だった。53歳でリストラに遭うまでは、米外資系の大手石油会社の支店から、月間広報誌を丸々1冊請け負っていた。アメリカ本社が発行する小冊子を翻訳編集して、日本版として刊行する仕事を委託外注されていたのだ。

これ1本だけでほぼ手一杯だったが、ミステリー文庫の話が舞い込むと、最初の頃は無理してでも引き受けていた。が、労力の割に実入りが少なく、売れる保証がないものだから、印税も微々たるもので、その点、PR誌は大手の外資系企業のため、払いもよく、事務所を維持し、下訳のバイトを雇う余裕もあったのだ。

しかし、2008年のリーマンショックで、外部の人間は真っ先に首を切られる羽目に陥った。仕事に落ち度があったとは思えない。4色刷のコート紙を用いた文化の香り高い邦訳版は、社外識者にも好評を博していたし、意訳の見事さを褒められることもしばしばだったからだ。

20年以上請け負ったメインの仕事を絶たれ、収入の道が途絶えた晃はさすがに途方に暮れた。が、半年の失業保険支給期間中に、何とかコネで英和辞典の編纂スタッフの一人として雇い入れられた。地味で根を詰める作業だったが、事務所を引き払えば、中年夫婦のみの生活なので、贅沢さえしなければ、何とかやっていけた

あれから17年、辞書の仕事もすっかり板について、丸々1冊を請け負うまでのプロに成長した。

元々、辞書には人一倍の愛着を持っており、それというのも、中高時代英単語の暗記で紙を食いちぎるくらい、身を入れた学習体験があったからだ。それだけに、本望、まさに天職と言えないこともなかった。あのとき、暗記に必死になるあまりヤギのように食べた1ページ1ページが今血となり、肉となっているかのようだった。食ってしまえば、もう一度見直すことはできない、頭に徹底して叩き込むしかないと、鬼気迫る学習執念だったのである。

英語狂いの少年だったそんな自分が、晩年辞書のプロとなった身から見ると、愛おしい。古希を超えて、目も衰えてきたし、根を詰める細かい作業に携われるのもあと5年くらいかとみなすと、いっそう身が入る。

自分が編纂した辞書が子どものように可愛くてしかたない。だから、出版社の要望で、ページ数がオーバーしているので、重要性の少ない単語をカットしてくれと言われると、身を切られるように辛い。どれも必要、ぎりぎりに収めてあるから、本心は、多少コスト高でも、はしょらず全部入れてほしいのである。

血と汗の結晶の単語解説が出版社の酷な要望で、あっさり削られてしまうのは、内心憤懣やる方ない思いだ。そんなむらむらするような思いを抑えて、校了に漕ぎ着けた明け方、晃は内心に燻(くすぶ)っている怒りを発散するために、愛用の鞄をひったくって家を出た。

コロナとかいう訳のわからぬウイルスが跋扈(ばっこ)していたが、長いことこもって室内作業に熱中していた自分には関係ないこと、なんの影響も及ぼしていなかった。老妻が外出時はマスクをつけろとうるさいので、しかたなく口元を覆っていたが、その日は勇み足だったため、つけるのを忘れた。早朝で、どうせ人もいないだろう。

ふっと、遠出してみたくなって、始発電車に乗って東京駅に向かった。晃の趣味は野鳥観察である。そのため、数少ない外出の機会を逃さず、めぼしいスポットを巡る。双眼鏡とカメラに、小型のフィールドガイドは必需品だ。思い立って、列車に飛び乗り、東北まで足を伸ばし、老妻を心配させたこともあった。だいたい、校了明けの鬱憤ばらしに衝動で旅立つことが多く、行先も事前まで決めていないのだ。

創造主が創り出した美しい奇跡、天にばらまかれた珠玉の小鳥たちを仰いでいると、胸が透くような爽快感を覚えるのである。赤、青、緑、黄、橙、カラフルな天の生き物、羽があって飛べるというだけで人間より神に近いような気がする。空にはいろんなものが舞って、魑魅魍魎(ちみもうりょう)ひしめく下界と隔絶された豊穣(ほうじょう)さ、まさに美の宝庫だ。

天高く飛ぶ鷲は、地上のウイルスとは無縁に、悠々と旋回しながら、人間どもは何を恐れてうろちょろ駆けずり回っているんだと、嘲笑っているだろう。見苦しい大混乱は、高い天から見れば、蟻の行列にしか見えないはずで、ひねり潰せる豆粒だ。

ルーペを手離せない細かい机仕事をしているので、遠くを見ることは目にもよかった。近目で度の強い眼鏡をかけて、机にくっつくように作業に熱中するから、年を取って衰えた目にはよくない。白内障で視界が霞むが、手術を先延ばしにしていた。

それに、座職の運動不足解消にももってこいだった。ライフワークで、あと2冊どうしても手掛けたい辞書があるのだが、英和鳥用語辞典はその1冊だった。残された時間が少ないと思うと、老体を鞭打たずにはおれない。

そんなハードワークに身をやつしていただけに、たまの余暇に野鳥観察に出かけることは、息抜きになって、机仕事から解放されて伸び伸びするものがあった。

のめり込むきっかけは、米石油会社の広報誌の連載記事に、鳥類図鑑(フィールドガイド)という囲み記事があったことによる。さまざまな鳥の名前の邦訳を専門の辞典で調べるうちに興味を持って、空を見上げることが多くなったのだ。

我が家の猫の額ほどの庭にある金木犀には、秋になると、濃厚な甘い香りに誘われてか、満開に咲き誇ったオレンジの小花の蜜を吸いに舞い群れる緑がかった小鳥がいて、調べてみると、メジロとわかった。目の周りが白いスズメ科の、ふっくらした薄黄緑の可愛い小鳥だ。囀りもチュチュチュと耳に心地よく、そのうち水場を作ってやってしぐさや表情を観察するようになった。

程なくして、双眼鏡を買って近隣の木の多い神社や公園でバードウォッチングの真似事をするようになる。川辺で、水面すれすれに横切るように飛翔する鮮やかなコバルトブルーの尾羽のカワセミを目撃したときは、興奮したものだ。「渓流の宝石」と謳われるように美しいキングフィッシャーを目の当たりにしたことが、本格的にのめり込むきっかけとなった。

辿り着いたところは、北陸の小さな町だった。駅の近くの公園のベンチで、コンビニで買ったおにぎりを頬張った。川沿いの自然公園が野鳥観察で有名なことは人づてに聞いていた。腹ごしらえしたあと、バスで向かうつもりだった。

初秋の空は晴れ渡って青かった。つい空を見る癖がついている晃は、首が痛くなるまで見上げた。そのときだった。何やら白いものが宙を掠めたのは。あ、晃は思わず、声をあげてベンチから立ち上がった。そのまま、空を食い入るように見上げつつ、白いものをふらふらと追っていく。

食べかけのおにぎりが、地に転がるのも構わず、口をぽかんと開けたまま、必死で追跡する。もどかしげに、肩に提げたショルダーから、手探りで双眼鏡を取り出す。

世にも稀な白い渡りガラス、だった。周りに、群れの黒いカラスはいない。孤高の1羽が、カラスとは思えない優雅さで悠々と羽ばたいている。水平に広げた翼は、全長1メートル近い巨大カラスだ。一般に見られるハシブトガラスが50センチくらいだから、ゆうに2倍はある。死肉を漁る留鳥のハシブトガラスは不吉と厭われるが、ワタリガラスは善の象徴なのだ。

まさに太陽神の使いにふさわしい、神聖さだった。神社に祀られた八咫烏(やたがらす)を思い出す。遠目で3本足かどうかはわからなかったが、霊魂を運ぶ鳥とも言われでいるから、去年亡くなったお袋かもしれないと凝視した。老母も白髪、好んで白い衣装ばかり着ていたものだ。

やがて、白ガラスは、雲の中にすーっと吸い込まれるように消えた。あまりに必死に見上げたせいで、痛くなった首を元に戻し、項(うなじ)をさすりながら、もう少し近くまで舞い降りてくれれば、写真が撮れたのにと、今さらながら地団駄踏んで悔しがった。玄人はだしのバーダーたちと違って、望遠レンズの装備がないのだ。

ベンチで休もうと、後戻りすると、先程まで自分のほかは誰もいなかった場所に、1人の老婆が倒れかかるように、後ろのめりにもたれていた。近寄って、覗き込むと、割れた額から血が噴き出ていた。亡くなった母そっくりの真っ白な蓬髪だった。 垂れかかった前髪は、血糊で固まっている。

顔面は蒼白だが、意識のない体全体に不思議なオーラのようなものが漂っている。何かこの世のものではないみたいな神々しさが、粗末な着物の皺だらけの老婆から漂ってきて、晃を畏怖させたる。イタコという言葉が唐突に頭に浮かんだ。声を何度かかけたが、返事がないので、慌てて119番した。サイレンのうなり声がすぐ近くまで迫ってきた。

通りがかりの一通報者にすぎなかったが、無理やりマスクを着けさせられ、病院まで付き添いを強いられた。応急処置が施されたあと、命に別状はないというので、安定剤で眠っている老婆を後に、警察の事情聴取に付き合った。

結局、自然公園での野鳥観察は叶わなかったが、ホワイト・レイヴン、白いワタリガラスを初めて目撃しただけで大収穫、朝方の嫌な気分は吹き飛んでいた。

満たされた気持ちで新幹線に飛び乗って、夜遅く東京駅に着いたが、マスクを外した晃に、周囲から冷たい視線が集中した。渋々装着しながら、晃はふっと、老婆のことを思った。今頃意識を取り戻しているだろうか。そう、まるで、白ガラスの化身のような不思議な雰囲気を発している老女だった。

あの稀なホワイト・レイヴンは、彼女が招き寄せたものかもしれない。見上げる東京の夜空は明るすぎて、星一粒すら見えなかった(「2020年」はモハンティ三智江さんがインドで隔離生活を送る中、創作活動にも広げており、「インド発コロナ観戦記」とは別に、短編など小説に限定してひとつのタイトルで掲載します。本人の希望で画像は使いません)。