丸善丸の内で伊藤恵美子「象眼装飾」展、肥後象眼とダマスキナード融合

【銀座新聞ニュース=2021年1月6日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・丸の内本店(千代田区丸の内1-6-4、丸の内オアゾ内、03-5288-8881)は1月6日から12日まで4階イベントスペースで「DAMASQUINADOR-象眼師 伊藤恵美子展」を開く。

丸善・丸の内本店で1月6日から12日まで開かれる「DAMASQUINADOR(ダマスキナドール)-象眼師 伊藤恵美子展」に出品される作品。

「象眼師(そうがんし)」で、日本の「侘び寂び」の世界に、スペインの華やかな装飾美を融合させた「ダマスキナドール(DAMASQUINADOR、スペイン象眼師)」の伊藤恵美子さんは、刀の鍔(鐔、つば)などに施されていた伝統技法「肥後象眼(ひがぞうがん)」と甲冑やサーベルなどに施されるスペインの装飾技法「ダマスキナード(DAMASQUINAD)」を融合した作品を制作している。

とくに、鉄に24K、18K、シルバーを埋め込み、「命をかけて命を守る道具に装飾されていた技術」を使い装飾品を作っており、それらの作品を展示する。

「工芸ジャパン」によると、「肥後象眼」とは、熊本県熊本市で作られている金工品で、かつては銃身(じゅうしん)や刀鍔(かたなつば)などに施される装飾として発展し、今では装身具やインテリアなどの装飾品としてその技術が受け継がれている。

肥後象眼の特徴は、武家文化を反映した「重厚感」と「上品な美しさ」で、深い黒地に金銀の意匠が映える象眼の美しさは品格を漂わせているという。

肥後象眼には「布目(ぬのめ)象眼」と「彫り込み象眼」などの技法があり、現在行われているのはほとんどが布目象眼としている。

布目象眼は地金として使用する鉄の表面に細い切れ目(布目)を入れ、そうした溝に金銀の金属を打ち込んでいく技法でつくる。

肥後象眼では地金に塗料などを使わず、錆色(さびいろ)だけで深い黒色に仕上げることで地金の美しさを引き出すことや、金銀の厚み、縦・横・斜めの4方向から切る布目の切り方、肥後独自に受け継がれる文様などにより特徴である「重厚感」や「上品な美しさ」を表現している。

肥後象眼の始祖は江戸時代初頭の鉄砲鍛冶(てっぽうかじ)である林又七(はやし・またしち、1613?-1699?)とされ、林又七は元々、加藤清正(かとう・きよまさ、1562-1611)の加藤家に仕えた。1632(寛永9)年に加藤家改易の後、変わって肥後藩主となった細川忠利(ほそかわ・ただとし、1586-1641)に仕職した。

林又七は京都で布目象眼の技術を習得すると銃身に九曜紋や桜紋などの象眼を施すようになりま、その後も林又七によって施された象眼の優れた技術は数々の名品を生み、肥後象眼として受け継がれた。

肥後象眼が発展した背景には細川忠利の父である細川忠興(ほそかわ・ただおき、1563-1646)の存在もあった。風雅を好む細川忠興は鍛冶である平田彦三(ひらた・ひこぞう、?-1626)ら名匠をお抱え工とし、刀剣金具制作などの金工技術を競わせた。

このため肥後象眼は細川家の庇護を受け、武家社会の隆盛と共に洗練された技術として発展した。特に幕末には林又七の再来と呼ばれる名人、神吉楽寿(かみよし・らくじゅ、1817-1884)が出現し、肥後象眼は不動の地位を築いた。

その後、明治維新によって廃刀令(1876年3月の帯刀禁止令)が発布されると、刀剣金具の需要が無くなり、肥後象眼も衰退してしまう。しかしながら、装身具や茶道具などに技術の転用を図ることで再び活路を見出し、その伝統の技術は現在に受け継がれている。

伊藤恵美子さんは1981年熊本県生まれ、2003年に熊本県伝統工芸館にて、伝統工芸後継者育成事業(肥後象眼)で白木光虎(しらき・みつとら)さんに師事し、2007年に「くらしの工芸展」で入賞、熊本伝統工芸協会賞を受賞(2009年に熊本県賞)、2009年に九州電力若手工芸家国内外派遣制度により技術、デザイン習得のためスペイン・トレドに留学した。

同年に日本で個展を開き、12月にスペインに再留学、2011年に「伝統工芸日本金工展」で新人賞、「西部伝統工芸展」で鶴屋百貨店賞、2012年に重要無形文化財「銅鑼」伝承者育成研修会に参加、2014年にニューヨークのアレーズネイルコンペでスポンサー賞、現在、日本工芸会研究会員。

開場時間は9時から21時(最終日は17時)まで。

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