「2020年」(7.遺された紫水晶<柿沢智(在インド駐在員)>)

【モハンティ三智江のフィクションワールド=2021年1月19日】柿沢智(かきざわ・さとし)は大手広告代理店勤務の34歳、ただし、東京本社でなく、インドの首都デリーの近郊、グルガオンに駐在して1年ちょっとになる。

アメリカへの留学歴で堪能な語学力を買われて、28歳からタイの首都バンコクに派遣され、そこで5年駐在、任務を全(まっと)うして本社に帰還するつもりでいたら、見事、期待を裏切られ、今度は、インドに飛ばされることになった。

正直、インドにはあまりいい印象を抱いていなかったので、面食らった。タイ駐在員時、偶然現地で知り合った6歳年下の日本女性と結婚を前提に付き合っており、本社勤務に戻ったら、身を固めるつもりでいたため、予定が狂って内心困惑した。

彼女は理解を示してくれたが、インド駐在は、そういうこともあって、最初から望まない赴任だった。

しかし、日系企業の集積地であるグルガオンは、インド切っての発展都市で、インフラが整備されており、暮らしていくには不自由なかった。高層マンションの3LDKの生活は、日本のウサギ小屋とはダンチで、現地人の掃除人、料理人、ドライバー付きと優雅だった。

バンコクでも、比較的恵まれた環境だったが、インドは部屋の広さといい、使用人の数といい、バンコク以上だった。カースト制度というのがあって、細かく役割分担されているからだそうで、たとえば、室内掃除も、皿洗い、洗濯・トイレ掃除は最下位のアウトカーストの職分で仕分けされなければならないのだった。

いわゆる階級差別の歴然とした社会で、平等な日本で育った智には面食らうことも多く、たくさんいる使用人を使いこなすのは大変だった。律儀で勤勉な日本人と違って、ルーズで怠惰癖のある現地人ゆえ、時には声を荒げなければならないこともあった。それでも、前任者からの引き継ぎのため、コックは寿司などの日本料理が作れ、重宝した。

仕事面でも、デジタル広告のシェアがトップと業績が目覚ましく、やりがいがあった。現地企業を買収して合弁、パイを増やし続けてきたM&A戦略が功を奏したのである。クライアントと組んでの広告の企画提案・作成が主な仕事だったが、年長ということで5名いる現地スタッフのチーフも任せられていた。

だから、1年以上が過ぎて、やっと現地の環境に慣れて、仕事もスムーズに運び出した3月下旬、コロナ禍によるロックダウンを発令されたときは、うろたえた。日本と比べても、感染者はさして多くなかったし、このタイミングで何故と、部外者としては見くびったのである。

しかし、その後、3月半ばに首都で行われたイスラム集会で大クラスターが発生していたことが発覚、信者の移動で地方にも拡散した。

さらに、大都市に出稼ぎに行っている移民労働者が帰省手段を絶たれ、巷に巨大密集、やがて救済に乗り出した各州が引き上げたことで、全土的に感染爆発、歯止めが効かなくなった。

感染トップ州のひとつとして悪名高かった首都から30キロしか離れていないグルガオンの感染者数も急増、在留邦人にも感染者が出た。

現地スタッフ2名は安全のため本国に退避させ、残り1人と2人だけでリモートワークをシェアしていたが、最後の1人も6月に臨時便で帰還させた。そして、8月に入って智自身にも、本社から退却命令が出た。

彼女も喜んだし、個人的にはほっとする思いもあったが、やり残した仕事を思うと、残念だった。最後に残された責任者として役目を全うしたかったが、果たせず志半ばで去らねばならない。

8月からインド日本商工会がチャーター便を運航、それに乗って戻ってきた先行帰印組2人と入れ替わりに、臨時便で発った。

機内は空いていた。客はほとんど同胞、安定飛行に入り、ベルトを外して洗面所に立ったとき、2つ前の席の年配女性に見覚えがあった。正確に言うと、彼女の付けている紫水晶のペンダント、にだ。

どこで、見たんだっけ。智は首をひねり、考え続けた。席に戻ってひととき後に思い当たった。

アジャンタ・エローラ遺跡でだ。ムンバイ支社に出張中、日本からのお客さんをもてなすため、高名な世界遺産の遺跡に伴ったのだ。まだロックダウン前のことで、有名観光地は外国人で賑わっていた。

日本人も何人かいて、そのうちのひとりがエローラ岩窟寺院群のひとつで、一枚岩から掘り起こされた8世紀の壮大なカイラーサナータ寺院を見学中に、ペンダントを落としたのを、目撃したのだ。

ちょうど、スニーカーの紐がほどけたのを結び直しているところに、目の前に留め金が外れたシルバーの鎖付きの紫色の石が鼻先を掠めて着地したのである。

すぐに拾い上げて、気づかずに歩を進める落し主らしい同胞女性を追いかけて、
「失礼します。もしかしてこれは、あなたのものではありませんか」
と、問い質した。

女性はあっと声をあげ、智の差し出すペンダントに手を伸ばし、大事そうに掌中に包み込んだんだ。
「すみません。何とお礼を言っていいか。この紫水晶のペンダントは母の形見なんです。本当にありがとうございました」
恐縮して何度も礼を言った。

帰り際、また鉢合わせし、丁重に重ねて礼を言われた。
「本当にありがとうございました。亡くなった母も遺跡が好きで、インドでは、タージ・マハルのほかに、アジャンタ・エローラに行きたがっていたんです」

「そうでしたか。お役に立てて何よりでした」

あのときの女性だ。あれから後、ロックダウンに遭遇、国際線も停止して、予定の便がキャンセル、長々と現地にとどまる羽目を余儀なくされたものだろう。話しかけようかと一瞬迷ったが、あのときとあまりに状況が転変しすぎて、互いに顔半分を覆ったマスク姿、非常時で緊張が張り詰めている機内ゆえ、会話を交わすことは躊躇(ため)われた。

インドの累計感染者数は300万人以上、この分でいくと、世界ワースト2位のブラジルを抜くのではないかとの憶測も出ていた頃だったから、機内は緊迫ムードに包まれていて、とても和(なご)やかに会話を交わす雰囲気でなかったのである。

途中、飛行機が乱気流に呑まれ、烈しく揺れた。少ない乗客がざわつく気配があり、男の自分でも、生きた心地はしなかったから、やっと安定飛行に戻ったとき、2つ前の女性はさぞかしほっとしているだろうと、思いを馳せた。昨年亡くなった叔母に何となく雰囲気が似ていて、気にかかるのはそのせいかもしれなかった。

無事、母国の空港に帰着し、アナウンスに従って、会社からの送迎車が出る予定の自分は、先行組として降下する。女性の席を過ぎたとき、本人の姿は見当たらなかった。座席のクッションに埋もれるように渦を巻いた銀鎖と、そこから突出するように、大粒の紫水晶がきらりと、智の目を射るように光った。嫌な胸騒ぎがした。

しかし、後ろに並んだ人に急かされて否応なく、出口に送られた。昨夜の烈しい揺れで気分を悪くして、ゆったりできる前の座席にでも、キャビンアテンダント(CA)の誘導で移されたのかもしれない。いずれにしろ、形見のペンダントは、間違いなく本人の手に戻るといいのだが。

タラップを降りた智は、これから待ち受ける抗原検査に思いが移り、陰性でありますようにと念じた(「2020年」はモハンティ三智江さんがインドで隔離生活を送る中、創作活動にも広げており、「インド発コロナ観戦記」とは別に、短編など小説に限定してひとつのタイトルで掲載します。本人の希望で画像は使いません)。