丸善日本橋で小林加代子、酒井泉、斎藤昭彦「桃の節句の器」展

【銀座新聞ニュース=2021年2月8日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は2月10日から16日まで3階ギャラリーで「桃の節句展」を開く。

丸善・日本橋店で2月10日から16日まで開かれる「桃の節句展」のフライヤー。

丸善が「春という季節を寿(ことほ)ぎながら、健康で幸せな毎日が末永く続くことを願う日として、「桃の節句」をテーマに3人の作家による作品を展示販売する。

出品するのは、染付けの小鉢作家の小林加代子さん、陶磁器の酒井泉さん、「アーリークラフト」(大田区東六郷1-13-10)を主宰する木工作家の齋藤昭彦さんが「桃の節句」を楽しめる器を出展する。

ウイキペディアなどによると、「節句」とは、中国の陰陽五行説に由来して定着した日本の暦(こよみ)における、伝統的な年中行事を行う季節の節目(ふしめ)となる日をさす。この日には、日本の宮廷において節会(せちえ)と呼ばれる宴会が開かれた。

年間にわたりさまざまな節句があり、そのうちの5つを江戸時代に幕府が公的な行事・祝日として定めた。それが1月7日の「人日(じんじつ)の節句」、3月3日の「上巳(じょうし)の節句」、5月5日の「端午(たんご)の節句」、7月7日の「七夕(たなばた)の節句」、9月9日の「重陽の節句」の5節句(現在では3月3日、5月5日、7月7日は同じ曜日になる)という。

「上巳の節句」が桃の花の季節であることから「桃の節句」と呼ばれる。起源は古来中国の上巳節で、上巳の本来の定義は3月最初の巳の日のことであり、中国において魏(220年から265年)の時代に3月3日に固定化され、中国ではこの日に「はらえ」や「みそぎ」を行う風習がある。

日本でも雑令によってこの日に節会(せちえ、天皇のもとに群臣を集めて行われた公式行事で饗宴を伴う)を開くこととして701(大宝元)年より公式に採用され、内裏(だいり、天皇の私的空間)において曲水の宴(きょくすいのうたげ、庭園で盃が流れてくる間、詩歌を詠む行事)が行われた。

平城天皇(へいぜい・てんのう、774-824)の時代に父・桓武天皇(かんむ・てんのう、737-806)の国忌と近いという理由で廃止されたが、弟の嵯峨天皇(さが・てんのう、786-842)は節会としてではなく、公的な色を薄めた儀式として再開した。

また、曲水の宴は貴族の娯楽としても行われ、民間においては、日本に古来よりあった贖物(あがもの)と呼ばれる人形(ひとがた)に自分の身体をこすり付けて「けがれ」を移し、川などの水辺に流すことで「はらい」を行うという「阿末加津/天児(あまかつ)」などと呼ばれる風習と結びつき、これが後世の流し雛(雛人形)に発展したといわれている。室町時代には「3月3日の儀式」として定着した。

「ひな祭り」ははじまりについては歴史的にはわからず、起源説は複数ある。平安時代の京都で平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていたとする記録がある。当時においても、小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられ、初めは儀式ではなく遊びであり、ひな祭りが「ひなあそび」とも呼ばれた。

一方、平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流しびな」があり、「上巳の節句」としてひな人形は「災厄よけ」の「守りびな」として祀られるようになった。

江戸時代になり、女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき、全国に広まり、飾られるようになった。3月の節句にひな祭りを行うようになったのは、天正(1573年から1593年)年間以降と推測されている。

やがて武家社会でも行われるようになり、江戸時代には庶民の人形遊びと節句が結び付けられ、行事となり発展した。その後、紙製の小さな人の形(形代)を作ってそれにけがれを移し、川や海に流して災厄をはらう祭礼になった。この風習は、現在でも「流しびな」として残っている。

江戸時代、ひな祭りは「五節句」のひとつとして「祝日として存在した」とされる。しかし、1873年の新暦採用が「五節句(=ひな祭り)」の祝日廃止となって、さらに「国民の祝日」より「皇室の祝日」色が濃くなった。

このため、戦後になって新たに祝日を作ろうとする動きが見られた際に、祝日制定にあたり3月3日の案や、新年度の4月1日の案も出たが、最終的には5月5日の端午の節句を祝日(こどもの日)とする案が採用された。北海道・東北をはじめ寒冷で気候の悪い地域の多い時期を避け、全国的に温暖な時期の5月にしたというのが大きな理由のひとつとされている。

小林加代子さんは組み合わせ方によりいろいろな場面で使え、見ても側に置いても楽しめる、シンプルな器を制作しており、技法については磁器土をロクロ成形し、呉須で下絵付をし、還元焼成をしている。染付の文様は野草(主に野いばら)をスケッチし、作り手と使い手の心が「ツナガル」という思いを込めて、重ねて並べて「ツナガル」ようなデザインを採用している。

酒井泉さんは1990年に武蔵野美術大学油絵科を卒業、1998年に愛知県立窯業高等技術専門校を修了、愛知県瀬戸市で修業を重ね、東京で主に瀬戸や信楽の土を使って使用陶器を制作している。化粧土や釉薬(ゆうやく)を薄く塗り重ねて、1240度の高温で焼成している。

齋藤昭彦さんは家造りの大工を7年間、日常の道具から家具づくりを5年間、学んで、2011年に「アーリークラフト」を設立し、2016年に第55回日本クラフト展で入選している。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は17時)まで。