「2020年」(9.ダブルの述懐<真鍋翔子(タロット占い師)>

【モハンティ三智江のフィクションワールド=2021年2月16日】タロット占い師として絶大な人気を誇るクマリこと、真鍋翔子の元に、特異な個人セッションの申し込みがあったのは、11月半ばのことだった。

還暦を超えた翔子は、北陸の小さな町で弟と2人暮らし、父母亡き後の生家を守っていた。
実は7年前の54歳まで、ネパールの首都カトマンズで現地人夫とともにゲストハウスを経営していたのだが、夫が心臓発作で急死したため、子供のいなかった翔子は、宿を畳んで永久帰国する決断に至ったのである。

26歳のとき、初めでインドに渡り、ついでに立ち寄っただけのネパールがひとしお気に入って、以後毎年のように通っていたが、常宿だったホテルのマネージャーと恋に陥り国際結婚、29歳のとき、現地に移住して、半年後、古い洋館を借りてゲストハウスをオープンしたのである。

5年後、新築移転した後は、日本人旅行者御用達のアットホームな宿として繁盛したが、25年間の経営歴に終止符を打って、夫と二人三脚で盛り立ててきたゲストハウスを手放すことにしたのだ。

4半世紀暮らしたカトマンズには、未練もあって、当初は単身で切り盛りしていくことも考えたのだが、当面実務を任せた夫の姉の息子にあたる甥に一時帰国中会計をごまかされ、気持ちが変わった。

外国籍の未亡人の弱みにつけ込む現地親族に業を煮やして、頼れる子供もいないことと、50代半ばという年齢を考慮して、建物を売却し、帰国することを決めたのである。

日本に帰っても、年金のあてもない自分は、実家に出戻って以降の生計手段も心配だったが、6歳下でいまだ独り身の弟に、「親が遺した金もいくらかあるし、姉ちゃん一人の食い扶持くらい何とかなるから、帰ってこいや」と勧められたのである。ぶっきらぼうな中にも姉思いの弟の温かい気持ちが伝わってきて、背中を押してくれたおかげで、迷いが吹っ切れた。

現地の不動産を処分したお金で贅沢しなければ、10年くらいは持ちそうだったし、一旦決断したら、あとは早かった。

実際には、売却代は現地通貨で、外貨の購入額には限度があったから、現地の銀行に預けておいて、年に1度カトマンズに渡り両替したドルを持ち帰らなければならなかった。

が、25年暮らした国だけに、愛着があって亡夫との想い出がいっぱい詰まった地であり、第2の母郷に戻るようで、年1度の渡航は、実家にいても、家事のほかは何もすることがない自分にとって、恰好の気分転換になった。

そんな渡航の一環で、首都のカトマンズから東に12キロ離れた古都バクタプルを再訪したとき、くすんだ淡紅色の煉瓦造りの中世の街並みで、5層の古刹(こさつ)がそびえ立つ広場の一角でカードを広げている占い師、魔法使いの婆のような黒衣に杖付きの老女と遭遇したのである。

風が渡り、首にまとっていたインド更紗の長いショールがふわりと舞い飛び、カードの上に落ちて、そのうちの1枚が地にこぼれた。

謝ってショールを引き上げ、去ろうとすると、しゃがれ声で呼び止められた。
「もしもし、マダム、フール、愚者のカードが出ておりましたぞ」
鷲鼻の老婆は、翔子のショールの裾が払い落とした1枚を持ち上げて見せた。

そこには、手に花を持った道化師が、崖っぷちから今にも飛び出しそうにブーツの片方が宙に踊り出していた。
「どうやら、冒険が始まりそうじゃの」
「冒険?」
「今まで見たことのない世界、マダムは、魔術師へと鮮やかな転身を遂げるだろう」
「ほれ、落ちた1枚の下、ここにマジシャンのカードも出ておる。人生の錬金術師になるお膳立ては整った」

翔子は苦笑して、出任せと信じなかったが、財布の口を開けて、紙幣を2枚しわくちゃの手に渡した。風のいたずらとはいえ、老婆の商売道具を乱した詫びと、謎めいた予知、まるで当たるとは思えなかったが、当たらぬも八卦へのお礼のつもりだった。

「ようく、聞くがいい。おぬしは、タロット占い師になるのじゃよ。ネパールの生き女神・クマリと名乗ってな。よければ、明日からでも指南してやろう」

クマリとは処女という意味で、ネパールの生き女神のことだ。数々の条件を満たした満月生まれの仏教徒の3、4歳の少女が厳選され、初潮を見るまで生き女神として、クマリの館に匿われ、君臨する。国王ですらひざまずかせる絶大なパワーを持ち、国の運命を予言するのだ。病気平癒や、願望を叶える幸運をもたらす女神として、人々の信仰心も篤い。

翔子も、旅行者時代カトマンズ市内のダルバール広場にあるクマリの館を訪れて、額から眉間にかけて赤い化粧を施した黒くつぶらな瞳の勝気そうな少女が窓から顔を覗かせるのを目撃したことがあった。何故、自分がそのクマリを名乗るのだろう。あまりにも、畏れ多いような気がした。

しかし、理由はわからないが、老婆の言葉が呪縛のように鼓膜に名残り、以後予定を変更して1週間、彼女の元に通い詰め、タロットの基本を学ぶことになる。それまで、カードには1度も触ったことがなかったのに、自分でもたまげるほど飲み込みが早く、たった7日間でほぼマスターしていた。まるで、海綿体が水を吸い込むような尋常でない神がかった吸収ぶりだった。

翔子はどうやら、生まれる前から、カードの知識を持っていたようである。多分、前世てマジシャン、タロットデッキを鮮やかに操る魔術師だったにちがいない。

最後に、老婆は「カードリーダー・クマリの誕生じゃ」と告知して、優秀な卒業生を祝うようにに、古来の美しいカードと、英語の指南書をプレゼントしてくれた。

そして、この旅から帰国した後、翔子は、タロット占い師として生まれ変わったのである。ネットで動画ばやりの昨今、ほかのカード占い師が発信している無料占いをいくつかピックアップして研究し、3日後には、自らの占い動画をアップしていた。

ブレークしたのは、ひと月後だった。怖いほどよく当たると大評判になって、視聴回数がうなぎ上りに増えていった。3カ月とたたないうちにミリオン超、登録者数も30万人を超えた。

人気が出るのに並行して、オンラインによる個人セッションも始めたが、クライアントが引きも切らす、押し寄せた。たちまち売れっ子カード占い師にのし上がった翔子こと、クマリは嬉しい悲鳴をあげた。

収入も、うなぎのぼりだった。夫に急死されたときのどん底の落ち込みからジェットコースターが上がるように急激に舞い上がったのである。もう2度とどん底に急落することのない頂点だった。

還暦を超えてこんな華やかな余生が待っていようとは。まさに生き女神・クマリ、神と崇められるほどのタロットクィーンへと華麗な転身を遂げたのだ。

興奮と喜びの一方で、クマリは妙なことに気づいていた。コメントをくれる視聴者の中に、妙に話の噛み合わない人が多々混じっていて、それはクライアントも同じで、ある日、はたと気づいた。

クマリの動画はどうやら、異次元にも流れているらしい。そのパラレルワールドでは、新種の疫病が大流行していて、世界中大混乱しているらしい。

まるで20年前こちらの世界で、一見風邪に似た症状の疫病、が、肺炎を併発するリスクが高く、はるかに危険な新種のウイルスがパンデミック(大流行)として、全世界を震え上がらせたように。ネパールに移住して12年目のこと、世界的に大混乱に陥った大事件、歴史的変事だった。

この2020年、あちらの世界では、こちらが20年前潜り抜けた悪夢を体験させられているらしい。今思い出しても、ぞっとする凶事だった。休業要請を強いられたカトマンズのホテル街は、客が途絶え、がら空きになった。国際線の停止で一時帰国もままならなかった悪夢のような2年間、どう乗り切ったのか、まだ40代だった自分と夫は、互いに励まし合いながら、大危機を乗り越え、ウイルスとの壮絶なバトルに打ち克ったのである。

あれと同じことが今パラレルワールドで起きていて、人々は不安と恐怖に陥(おとしい)れられている。周波数を合わせて、向こうのインターネットにアクセスすると、おびただしいウイルス情報であふれていた。

ああ、何たることだろう、並行世界で20年前の悪夢が繰り返されていようとは。こちらでは2000年に全世界を急襲した疫病が20年遅れて、あちらの世界で再現されているのだ。既に開発された安全の高いワクチンや特効薬を分けてあげたいくらいだ。

物理的にそれが不可能なら、せめて、自分の動画やセッションが、向こうの世界の人達の少しでも、慰めや安らぎになればと、クマリは思う。

そして、その日のセッションの相手は、その向こうの世界の依頼人からだった。行方不明の姉の所在について、占って欲しいというのだ。尋ね人の依頼は珍しくない。単にそれだけなら、ほかにも、これまで異次元のクライアントはいたし、驚くにあたらないことだった。

ディスプレイに映し出されたその男性を目の当たりにしたとき、クマリは驚愕した。弟と生き写しだったからだ。クマリは、いつも画面越しにクライアントに対峙するとき、ベネチアで買った仮面舞踏会用の美しいマスク、紫に金の縁取りのある黒い羽付きの仮面でカモフラージュすることを忘れない。でなかったら、クライアントの方も、卒倒してたろう。

なぜなら、クマリの素顔は、行方不明の姉にそっくりだったはずだから。

「姉はインドに、世界遺産の遺跡見学に行って、パンデミックによる都市封鎖に遭遇し、現地にとどまる羽目を余儀なくされたんですが、5カ月後、臨時便で帰国するとのメールをもらって、心待ちにしていたら、いっこうに戻らず、以降連絡も途絶えてしまったんです」
「私のことは、どこで知られましたか」
「インドのリシケシ在住のタロット占い師さんに教えてもらったんです」
梨沙クマールにちがいない。向こうの世界では、並み居る雑魚と一線を画して、深い読みをする、まともなカードリーダーだ。

まだ未熟だが、ピュアなハートが伝わってくるような、的を外れていない読みをする。いい加減な動画占いが多い中で、女王のクマリも合格点をあげられる能力の持ち主だった。

「お姉さんは、大丈夫ですよ。まもなく戻ってこられます。安心してください」

クマリは、今から3カ月ほど前、もう1人の自分が訪ねてきたことをくっきり思い出しながら、不安そうな姉思いのもう1人の弟に、鼓舞するように力強く告げた。口から出任せではない、カードに、飛ぶ少女と、飛行機が出たからだ。

近々、飛行機に乗って、何らかの衝撃で元の世界に戻っていくにちがいない。

もう1人の弟は、半信半疑だ。
「姉は今、どこにいるんですか」

ちょっとした間違いで、別次元の世界に飛んでしまったと言っても、もう1人の弟は信じないだろう。空間がワープして、裂け目からパラレルワールドにトリップしてしまったのだ。

未来を予知するカードリーダーの自分としたことがなんで、あのとき、気づかなかったのだろう。目の前に生き写しの自分を見たとき、反射的に恐れと嫌悪を抱いて退(しりぞ)けてしまったのだ。自分の存在が脅かされそうで怖かった。この世界の自分は唯一無二、私1人でいて欲しかった。

無意識裏に、パラレルワールドから来たもう1人の私と察知して、自己防衛本能が働いたから退けてしまったのかもしれない。

「お姉さんの名前と職業を教えて頂けませんか」
「真鍋翔子で、フリーの校正者です」
「そうですか。今頃、世界遺産の取材記事を書いておられるかもしれませんね」
「東京の出版社に勤めていた若い頃は、記事も書いていたようです」
「ライターとしても、優れた手腕をお持ちのようで。才能あふれるお方ですね。きっと戻ってらっしゃいますよ。信じて待っていてあげてください」
なじみ深い顔のクライアントは、腑に落ちない顔つきだったが、これ以上引き出すことは不可能と察したのか、黙り込んだ。

もう1人の自分が、還暦を超えても手に職を持ち、活躍していると思うと、誇らしかった。クマリも、若い頃編集者に憧れたことがあった。もう1人の翔子が、パラレルワールドでその果たせなかった願望を遂行してくれたのだ。

とっくに諦めたはずの夢が、並行世界で別の自分によって達成されていたと知ることは、胸が透くような喜びだった。知的職業についているダブル、影武者ともいうべき生き写しの分身を改めて、愛おしく思い、無事元の世界に戻れることを心から祈った。
(「2020年」はモハンティ三智江さんがインドで隔離生活を送る中、創作活動にも広げており、「インド発コロナ観戦記」とは別に、短編など小説に限定してひとつのタイトルで掲載します。本人の希望で画像は使いません)。