大丸東京で24K大判、小判、丸の内駅舎の図、総額3億円

【銀座新聞ニュース=2021年2月22日】国内百貨店業界第2位の流通グループ、J.フロントリテイリング(中央区八重洲2-1-1)傘下の大丸松坂屋百貨店(江東区木場2-18-11)が運営する大丸東京店(千代田区丸の内1-9-1、03-3212-8011)は2月24日から3月2日まで1階イベントスペースで「金の祭典」を開く。

大丸東京店で2月24日から3月2日まで開かれる「金の祭典」で販売される24Kの大判。

財務省が2019年に新1万円札を2024年に発行することを決め、その際に新しいデザインを公表した。表は肖像に、第一国立銀行や東京商法会議所、東京株式取引所をはじめ、500以上の企業や経済団体の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」といわれた渋沢栄一(しぶさわ・えいいち、1840-1931)を採用、裏に東京駅の丸の内駅舎(1914=大正3=年12月20日開業)をデザインした。

大丸東京店として初めて開く「金の祭典」では、丸の内駅舎をモチーフにした24金の大判と小判を販売し、コロナの終息を願って「アマビエ」の金も登場する。

大丸によると、資産価値が20年で約6倍となっている地金を手に入れる人が増えており、総点数100点、総額3億円の金を一堂に会し、展示即売する。

同じく販売されるフレームに入っているアマビエ金。

24金製の大判は76ミリX126ミリ、100グラムで税込148万円(専用桐箱入り)、小判は43ミリX73ミリ、30グラムで49万8000円(専用桐箱入り)。「アマビエM5号」はフレームサイズが縦178ミリ×横148ミリ×厚さ17ミリ、16グラムで49万5000円。

また、ペットの写真があれば、オリジナルの金メダルも注文を受けて生産する。直径25ミリ、厚さ1ミリ、重さ9グラムで12万円。

ウイキペディアによると、東京駅は、東京において各方面別に分かれていたターミナル駅の中間を結んで中央停車場を設置する構想から始まり、1914(大正3)年12月20日に開業した。設計は辰野金吾(たつの・きんご、1854-1919)、建設工事は大林組が手がけた。

基礎工事の着手から完成まで6年9カ月(1年1カ月あまりの工事中断があり、それを除くと、実質5年7カ月)かかり、工費が「東京停車場建築工事報告」で集計の時点で282万2005円で、工事中であったステーションホテルの費用約16万円を含めると約298万円に達した。また、駅舎や高架線、プラットホーム、通路などを含めた中央停車場の総工費は407万1210円と集計されている。

2024年に発行される新1万円札の裏に描かれている丸の内駅舎。

その後、中央本線の乗り入れや山手線の環状運転の開始などにより利用客は急速に増加していき、昭和初期にはプラットホームなどの増設工事に着手した。

しかし、大東亜戦争(1941年から1945年)により、すべては完成せず、戦争末期には空襲を受けて丸の内駅舎を焼失した。戦後、丸の内駅舎の復旧が行われるとともに、中止されていた増設工事が再開された。1964年10月1日には東海道新幹線が開通し、新幹線のターミナルともなった。

さらに地下鉄丸ノ内線の乗り入れ、総武・横須賀線の地下ホームの開業、京葉線の乗り入れと地下にもホームの増設が進んだ。1991年6月20日に東北新幹線が開通し、東北・上越方面へのターミナルともなった。2012年10月に、戦災で応急復旧したままであった丸の内駅舎の復原工事が完成している。

「大判」は、広義には16世紀以降の日本において生産された延金(のしきん、のべきん:槌やローラで薄く広げた金塊)の内、楕円形で大型のものをいう。小判が単に「金」と呼ばれるのに対し、大判は特に「黄金」と呼ばれ、大判金(おおばんきん)ともいう。

金貨として規格化されたものは、1588(天正16)年、豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし、1537-1598)の命で京金工の後藤四郎兵衛家(ごとう・しろうべえ、)が製造したのが始まりとされる。

以後、時の権力者の命により1862(文久2)年まで後藤家(京都、後に江戸)が製造し続けた。量目(質量)は、万延年間(1860年)以降に製造されたものを除き、京目10両(44匁=もんめ、約165グラム)と一貫していた計数貨幣であったが、その後は品位(純金含有量)が時代により変化したため、秤量(しょうりょう)貨幣の性質を帯びた。

幣価は「金一枚」であり、小判の通貨単位「両」とは異なり、小判との交換比率は純金量を参考に大判相場が決められた(江戸時代の一時期のみは公定価格が存在した)。

この判金の量目は金一枚(44匁)を標準とするもので、高額の代金の支払い、借金の返済の場合は金屋において判金を購入し支払いに当てるのが当時のしきたりであった。戦国時代頃の金一枚はおよそ米40石から50石に相当したという。

また戦さにおいて功績を挙げた者に対する褒美としても用いられ、江戸時代にもこの伝統が受け継がれ、恩賞、贈答用には金一枚を単位とする大判が用いられた。中でも京都の金細工師である後藤四郎兵衛家に対する信頼は厚く、安土桃山時代には主に豊臣家の、江戸時代には必用ある毎に大判座を開設し、徳川家の大判の鋳造を請け負った。

1874(明治7)年、小判や分・朱単位の金銀貨とともに、大判についても天正大判金を除き、それぞれの含有金銀量に基づいて新貨幣(円・銭・厘)との交換レートが定められた。

小判は、江戸時代に流通した金貨の一種で、金座で用いられた公式な呼称は小判であり「三貨図彙」では「小判」と明記されているが、「金銀図録」や「大日本貨幣史」などの古銭書には小判金(こばんきん)という名称で収録されており、貨幣収集界では小判金の名称が広く用いられている。当時の文書には単に金と記されていることが多く、「金百両」などと表記された。

一般的に小判は「金貨」とされ、純金のように見えるものが多いが、実際は金銀合金で、外見上、金色に見えるのは、「色揚げ」と称して表面の銀を薬品と共に加熱して塩化銀として取り去る処理を施した結果である。

江戸幕府を開くに先立ち、徳川家康(とくがわ・いえやす、1543-1616)は大判より小型のものとし、墨書を極印に改め一般流通を想定した通貨を発行する構想を持っており、1601(慶長6)年に徳川家康が後藤家に命じて鋳造させた慶長小判を嚆矢とし、1860(万延元)年発行の万延小判まで10種が発行された。

「アマビエ」は日本に伝わる妖怪で、海中から光をかがやかせるなどの現象を起こし、豊作や疫病などに関する予言をしたとされている。江戸時代後期に作られたとみられる瓦版に類する刷り物に、絵と文が記されており、肥後国(現熊本県)の夜ごとに海に光り物がおこったため、土地の役人がおもむいたところ、「アマビエ」と名乗るものが出現し、役人に対して「当年より6カ年の間は諸国で豊作がつづく。しかし、同時に疫病が流行するから、私の姿を描き写した絵を人々に早々に見せよ」と予言めいたことを告げ、海の中へと帰って行ったとされる。

瓦版に弘化3(1846)年4月中旬という記載があることから、その年に出版されたものであると考えられている。姿形については添えられた挿し絵(アマビエを目撃したとされる役人がその場で姿を写した「アマビエの絵」が江戸に送られて来ており、その「写し」であると文には書かれている)が存在しているが、本文には「図の如く(原文「づの如く」)」とのみ記載されており、具体的な言葉ではどのようなかたちのものであったかについての特徴は書き留められていない。

アマビエについての記録の類は、この1種類の瓦版でしか確認されていない(熊本県にそのような目撃譚や伝説が伝承されて来た事実も確認されていない)が、類似性の高い内容が記載されている「アマビコ」と呼ばれる妖怪の資料群との比較から、アマビコが誤記された例のひとつではないかという説が、1999年に民俗学者の湯本豪一(ゆもと・こういち)さんによって指摘されている。

アマビエは江戸時代に制作された瓦版のひとつとして、1970年代以降に写真図版つきで書籍などでしばしば紹介されており、2000年代以降は、湯本豪一さんによる他の同趣向の妖怪やアマビコを中心とした新たな資料紹介がつづき、2004年に川崎市市民ミュージアムでおこなわれた「日本の幻獣-未確認生物出現録」という資料展の会期中には、アリエ、アマビエなどのフィギュアがグッズ販売された。

2020年2月から3月にかけて、新型コロナウイルス感染症に関連して「アマビエのイラストを描く」という行為が広く創作活動の場で注目され、「新型コロナ退散の願いを込めた作品」としてアマビエがさまざまに創作のうえで作られる行動(アマビエチャレンジ)が見られた。

また、4月7日からは厚労省が新型コロナウイルス感染症のウエブ向け対策啓発の広報アイコンとしてアマビエのイラストを用い、同じイラストが6月19日から厚労省が配信している「COCOA(ココア)」の画面にも同じものが用いられている。

営業時間は10時から20時。

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