丸善日本橋で濱田庄司、島岡達三ら「益子焼」展、川崎萌、横尾聡ら

【銀座新聞ニュース=2021年2月23日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は2月24日から3月2日まで3階ギャラリーで「第2回 丸善・益子焼の世界 濱田庄司・島岡達三 2人の人間国宝と現代作家展」を開く。

丸善・日本橋店で2月24日から3月2日まで開かれる「第2回 丸善・益子焼の世界 濱田庄司・島岡達三 2人の人間国宝と現代作家展」のフライヤー。

重要無形文化財保持者(人間国宝)で、民芸運動を推進した陶芸家、濱田庄司(1894-1978)と独自の「縄文象嵌(ぞうがん)」の世界を築いた陶芸家、島岡達三(1919-2007)を中心に、「浜田窯」を継承する濱田庄司の次男、濱田晋作(1929年生まれ)さんや「島岡製陶所」を継承する島岡達三の孫の島岡桂さんをはじめ、栃木県芳賀郡益子町の「益子焼(ましこやき)」の現代の陶芸家18人が作品約2000点を展示販売する。

今回、作品を出品する陶芸家は濱田庄司、濱田晋作さん、濱田晋作さんの次男、濱田友緒さん、島岡桂さんのほか、浅田恵美子さん、「utsuwa-MOKURI(ウツワ・モクリ)」を主宰する栗谷昌克さん、大塚一弘さん、大塚菜緒子さん、大塚雅淑さん。

加守田太郎さん、川崎萌さん、川島郁朗さん、「キマノ陶器」を主宰する木間伸哉さん木間彩さん夫婦、栗原節夫さん。

小林雄一さん、清水秀輝さん、薄田(すすきだ)いとさん、西山奈津さん、萩原芳典さん、福島晋平さん、横尾聡さん。

益子焼は栃木県芳賀郡益子町周辺を産地とする陶器で、江戸時代末期の嘉永年間(1848年から1855年)に常陸国笠間藩(現笠間市)で修行した大塚啓三郎(1828-1876)が益子に窯を築いたことにより始まったとされている。

同じく出品作家たちを紹介するフライヤー。

益子焼の陶土は、豊富にあるものの、肌理が粗く精巧な器を作るには向かなかったため、当初の益子焼は主に水がめ、火鉢、壺などの日用品として制作された。その後、1927年から創作活動を始めた濱田庄司によって花器や茶器などの民芸品が作られるようになり、日本全国に知られた。1959年には、加守田章二(1933-1983)が開いた窯により民芸一辺倒だった益子の作陶に現代的な独創性が加えられた。1979年には通産省(現経産省)から伝統的工芸品に指定された。

益子焼は砂気の多いゴツゴツとした土の質感をもち、材料の性質上割れやすく、重いという欠点がある。益子焼のもっとも基本的な釉薬(ゆうやく)は漆黒(しっこく)や「柿」と呼ばれる赤茶色、飴色(あめいろ)を出す鉄釉(てつゆう、てぐすり)で、石材粉や古鉄粉を釉薬にし、犬毛筆で色づけを行うため、重厚な色合いとぼってりとした肌触りに特徴がある。こうした昔ながらの施釉は土鍋や土瓶、片口といった、肉厚な陶器に使われる。

民芸運動以来、濱田庄司が得意とした杓掛け、流し掛け、掻き落としの技法を使った紋様を施した鉢や皿などが知られる。また、信楽焼流の絵付けを施した山水土瓶や、呉須(コバルト顔料)を使った陶器も多い。

同じく出品作家たちを紹介するフライヤー。

栃木県益子町観光協会によると、現在、窯元は約250、陶器店は50店あり、春(2021年4月29日から5月5日まで予定されていたが、新型コロナにより中止)と秋に陶器市が開かれる。

益子陶器市は1966年から始まり、例年、春のゴールデンウイークと秋の11月3日前後に開かれている。販売店約50店舗の他、約550のテントが立ち並び、伝統的な益子焼からカップや皿などの日用品、美術品まで販売される。焼物だけでなく、地元農産物や特産品の販売も行われ、春秋あわせて約60万人の人出がある。

ウイキペディアによると、濱田庄司は1894(明治27)年神奈川県橘樹郡高津村(現川崎市)溝ノ口の母の実家で生まれ、東京府立一中(現日比谷高校)を経て、1916(大正5)年に東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科を卒業、在学時は」板谷波山(1872-1963)に師事し、窯業の基礎科学を学び、卒業後は2年先輩の河井寛次郎(1890-1966)と共に京都市立陶芸試験場にて主に釉薬の研究を行う。この頃、柳宗悦(1889-1961)、富本憲吉(1886-1963)、陶芸家、バーナード・リーチ(Bernard Howell Leach、1887-1979)の知遇を得る。

1920(大正9)年に英国に帰国するリーチに同行、1922(大正11)年に共同してコーンウォール州(Cornwall)セント・アイヴス(St Ives)に「リーチポタリー(Leach Pottery)」を築窯した。1923(大正12)年にロンドンで個展を開き、1924(大正13)年に帰国し、しばらくは沖縄・壺屋窯などで学び、1930(昭和5)年からそれまでも深い関心を寄せていた益子焼の産地、栃木県益子町で作陶をはじめた。

ほとんど手轆轤(ろくろ)のみを使用するシンプルな造形と、釉薬の流描による大胆な模様を得意とした。戦後、1955年2月15日には第1回の重要無形文化財保持者(人間国宝、工芸技術部門陶芸民芸陶器)に認定され、1964年に紫綬褒章、1968年に文化勲章を受章した。

柳宗悦の流れをうけて民芸運動に熱心であり、1961年の柳の没後は日本民藝館の第2代館長に就任した。1970年の大阪万博の日本民芸館パビリオンの名誉館長を経て、1972年に大阪日本民藝館の初代館長に就任した。1977年には自ら蒐集した日本国内外の民芸品を展示する益子参考館を開館した。1978年1月5日に益子にて没。享年83歳。墓所は川崎市の宗隆寺。

島岡達三は1919(大正8)年東京市芝区愛宕町(現東京都港区愛宕)生まれ、1938年(昭和13)年に府立高校(後に都立高等学校、東京都立大学を経て、現在、首都大学東京)在学中に日本民藝館を訪れ、民芸の美に目ざめ、1941(昭和16)年に東京工業大学窯業学科を卒業、1942年に「赤羽工兵隊」に入営、1943年にビルマ(現ミャンマー)に派遣される。

1946年6月に濱田庄司門下となり、1950年に栃木県窯業指導所に勤務、1953年に退職し、益子に住居と窯を構え、1954年に初窯をたいた。1962年に日本民芸館賞を受賞、1968年 夏に米ロングビーチ州立大学、サン・ディエゴ州立大学夏期講座に招かれ、渡米し、ヨーロッパを経て帰国した。1980年に栃木県文化功労章、1994年に日本陶磁協会賞金賞、1996年に民芸陶器(縄文象嵌)で国指定の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、1999年に勲4等旭日小綬章、2007年12月11日没、享年88歳。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は15時)まで。入場は無料。