タイム明石で「銀座」400年記念通貨展、仲光克顕がトーク

【銀座新聞ニュース=2012年1月31日】タイムドーム明石(中央区立郷土天文館、中央区明石町12-1、03-3546-5537)は1月28日から2月26日まで「中央区から出土したお金たち 銭!!ぜに!!ゼニ!!」を開催している。

銀貨を鋳造(ちゅうぞう)する「銀座」が1612年に駿府(現静岡県静岡市)から現在の中央区銀座の地に移されてから2012年に400年目を迎えることから、「銀座」の遷置400年をきっかけに、中央区内の遺跡で出土したお金と、それに関わる遺物を展示する。

タイムドーム明石によると、江戸時代以前には、貨幣は各地でさまざまなものがつくられ、中国からも輸入されていたが、徳川家康(とくがわ・いえやす、1542-1616)が江戸に幕府を開き、貨幣の鋳造を独占したことによって、江戸城下である中央区に金座(金貨を鋳造)と銀座(銀貨を鋳造)という2つの鋳造機関が置かれた。

金座は現在の日本橋本石町にある日本銀行本店の場所にあり、1595年から1600年にかけてできたと考えられ、金座御金改役(金座の当主)で徳川家康の側近でもあった後藤庄三郎光次(ごとう・しょうざぶろう・みつつぐ、1571-1625)が金貨の鋳造を監督して極印(きわめいん、検定印)を打ち、金座御金改役は代々、後藤庄三郎光次の子孫が世襲した。

「銀座」は1612年に駿府から移設されて以来、銀貨の鋳造は常是役所の長、大黒常是(だいこく・じょうぜ、?-1633)が手がけ、1801年に日本橋蛎殻町(現日本橋人形町1丁目付近)に移され、江戸時代の後半になると、金貨、銀貨だけでなく、銭貨の鋳造も請け負い、深川や浅草で金座、銀座の監督のもとで銭貨が鋳造された。

江戸時代の貨幣制度は「三貨制度」で、小判や一分金などの金貨、丁銀や豆板銀などの銀貨、寛永通宝(1636年から幕末まで鋳造され、清国でも使われた銅または真ちゅうの銭で、日本では1953年まで使われていた)などの銭貨が流通し、単位が異なった。

金貨が両、分、朱(1両=4分=16朱)、銀貨が重さである貫、もんめ(目)、銭貨は貫、文(1貫=約1000文)が用いられた。1700年に幕府が交換レートを定め、金1両=銀60もんめ=銭4貫としたが、実際には相場が変動し、幕末には金1両=銭10貫になっていた。

中央区ではこうした江戸時代を中心に50種類以上のお金が遺跡から発掘され、それらの一部を公開する。これらの展示品は、「区内から出土したお金」としては一分金、一朱銀、寛永通宝、その他国産銭、渡来銭、近代のお金などがあり、「ニセモノのお金やお金をモチーフとしたものなど」としては雁首銭(がんくびせん)、模造銭貨、質札、泥面子(どろめんこ)などが紹介される。

また、「六道銭と副葬品、埋葬施設など」としては、死者を葬るときに棺の中に入れられる6文の銭「六道銭(ろくどうせん)」、手早く間に合わせる粗末な棺桶「早桶(はやおけ)」、火葬した遺骨を納めるための金銅や陶製などの容器「蔵骨器(ぞうこつき)」、「数珠(じゅず)」、人形などもある。「お金と一緒に埋められたもの、お金を埋めた場所」として、刻みタバコを吸う道具「煙管(えんかん、きせる)」、小形の刀「刀子(とうす)」、便所がめ、近代のガマ口などを展示する。

ウイキペディアによると、江戸時代以前は現在の丸の内から日比谷にかけては「日比谷入江」と呼ばれ海になっており、その東に隅田川の運んできた砂によって「江戸前島」という砂州が形成され、その先端が現在の銀座にあたった。

徳川家康が1603年に徳川幕府を樹立すると、第1回目の「天下普請」(江戸城をはじめとする城や道路、河川の土木工事のこと)が行われ、日比谷入江の埋め立てと京橋地区の整備が進められ、東海道が整備された。

京間10間とした東海道(銀座通り)を中心にグリッド状に設計され、それぞれの街区の中央には会所地が設けられ、町割りは後藤庄三郎光次を中心に行われた。

1612年に2回目の「天下普請」で、銀座は町人地として整備され、駿府にあった銀座役所(現静岡市両替町)を移設し、1800年に蛎殻町(現日本橋人形町1丁目付近)に再び移転するまで、銀貨の鋳造が行われた。

当時、通町京橋より南1丁目から4丁目までを拝領して「新両替町」と称し、銀座人らが住居を構え、新両替町2丁目東側南角に「常是役所(じょうぜやくしょ)」、この北隣に銀座役所が設けられた。常是役所は現在の第一三共ビル付近、銀座役所は現在のティファニー銀座ビルの位置に相当する。

1715年には大判座の後藤屋敷が1丁目に移転した。これらの場所は現在の銀座1丁目から4丁目で、現在の5丁目から8丁目は尾張町、竹川町、出雲町と呼ばれていた。現在の銀座7丁目付近には「朱座」(1609年に朱や朱墨などを専門的に扱う座が認可された)が設けられ、徳川家康に親しまれ、幕府の式楽となった能の4座のうち3座が銀座に置かれた。このほかに、ヤリや鍋といったものを供給する職人たちが多く居を構えた。

1657年に「明暦(めいれき)の大火」により江戸は大半を焼失、これを機に江戸の大規模な都市改造が試みられ、銀座でも三十間堀川沿いの河岸の増設や、道路の新設による街区再編などが行われた。江戸時代の銀座は、御用達町人地として発展したものの「職人の町」としての側面が強く、京橋や日本橋に比べ、当時は街はあまり賑わっていなかったとされている。

銀座に転機が訪れたのは、明治維新後の1869年と1872年に起こった2度の大火で、特に、1872年の銀座大火は和田倉門内の兵部省添屋敷から出火し、銀座一円が焼失した。

そこで、東京府知事の由利公正(ゆり・きみまさ、1829-1909)の主導により、東京を不燃都市化させ、1872年秋に開業予定だった横浜と東京間を結ぶ鉄道の終点「新橋駅」と、当時の東日本経済の中心地であった日本橋の間に位置する銀座を文明開化の象徴的な街にしたいとの思惑から大規模な区画整理と、トーマス・ウォートルス(Thomas James Waters、1842-1892)設計によるジョージアン様式の「銀座煉瓦街」(レンガを使った建物群)が建設され、歩道やガス灯が整備され、松、カエデ、桜などの街路樹が植えられた。

煉瓦街はまず1873年に銀座通り沿いに完成し、1877年に全街区の建設が完了した。しかし、銀座煉瓦街建設前の住民たちは煉瓦街の整理後も煉瓦家屋の払下げ価格が高価なうえに支払い条件が厳しく、銀座からほかに移った。かわりに、他の地区で成功を収め、煉瓦街に進出してきた商人たちが銀座の表通りで商売をはじめ、現在、「銀座の老舗」とされている店の多くは、それ以降に進出してきた店という。

銀座には新聞社や輸入品を扱う店など新しい商業が集まり、1881年には108社の新聞、雑誌社のうち50社が銀座に集中した。しかし、銀座煉瓦街の建物が不評で、岐阜県大垣出身の平野豊次郎(ひらの・とよじろう)が煉瓦家屋入居第1号となり、1883年に平野茶店(平野園、中央区銀座4-11、薬種商、電話番号6)を創業、電話番号1番から5番が官公庁だったので6番というのは、民間第1号となる。

当時、木村屋パンは平野園と同じ住所、向い側には服部時計店、1895年に銀座の象徴となる時計台と望桜が造られ、はす向かいには鳩居堂が筆墨・香などを商っていた。

新しく出発した銀座は実用品の小売を中心とした町であり、京橋区という下町にありながら、顧客は主に山の手(番町、市谷、赤坂、麻布など)に住む華族や財閥といった特権階級(上流階級)や中産階級、ホワイトカラーの人々で、明治維新後に東京へ出てきた人々は、同じく明治に入って急速な発展を遂げた銀座に集うようになり、地方出身者と中産階級の増加に伴って、銀座も発展していった。

ところが、1923年の関東大震災により、ほとんどの建物が倒壊、焼失し、銀座煉瓦街も完全に消滅した。平野園の前に植えられていた銀座で最古の街路樹、イチョウの樹も焼失し、現在は銀座三越が建っている。

2月4日と2月8日の14時から特別展示室で中央区主任文化財調査指導員の仲光克顕(なかみつ・かつあき)さんによるギャラリートークを開く。

仲光克顕さんは立正大学大学院考古学専攻の修士課程を修了、2000年より中央区文化財調査指導員。主な研究テーマは、江戸遺跡の中でも町屋、泥面子の研究など。

開場時間は10時から19時(土・日曜日、祝日が17時)まで。入場は無料。毎週月曜日は休み。