広島タウで前田健太、大野豊新旧エースがトーク、桝本壮志も

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【銀座新聞ニュース=2013年12月9日】広島県(広島市中区基町10-52、082-228-2111)が運営するアンテナショップ「タウ(TAU)」(中央区銀座1-6-10、銀座上一ビルディング、03-5579-9952)は12月20日12時から3階で前田健太さんらによるトークイベントを開く。

広島県のアンテナショップ「タウ(TAU)」で12月20日に開かれる「カープ女子会」のトークイベントに参加する広島カープエースの前田健太選手。

広島県のアンテナショップ「タウ(TAU)」で12月20日に開かれる「カープ女子会」のトークイベントに参加する広島カープエースの前田健太選手。

プロ野球セ・リーグの広島東洋カープを応援する「カープ女子会」として開くもので、「こいするカープ」をテーマに広島カープ投手の前田健太(まえだ・けんた)さん、元広島カープ投手で、野球評論家の大野豊(おおの・ゆたか)さん、放送作家の桝本壮志(ますもと・そうし)さんがトークイベントを開く。

広島東洋カープは1949年創設された球団で、自動車メーカーのマツダ(旧東洋工業)が30パーセント以上の株式を保有し、創業家の松田家も30パーセント以上を所有している。同年12月にセ・リーグに加盟し、1950年から公式戦に参加し、1952年まで3年連続で最下位(8位、7位、6位)となり、その後もBクラスに低迷し、1968年に初めて3位になった。

「タウ」で開かれる「カープ女子会」のトークイベントに参加する広島カープ元エースの大野豊さん。

「タウ」で開かれる「カープ女子会」のトークイベントに参加する広島カープ元エースの大野豊さん。

1975年に初めて優勝し、山本浩二(やまもと・こうじ)さんや衣笠祥雄(きぬがさ・さちお)さんらの活躍で1979年に2度目の優勝を記録し、日本シリーズも初めて制し、1980年に2連覇し、2年続けて日本シリーズも勝利した。1984年にリーグ優勝と日本シリーズに勝利し、1986年、1991年とリーグ優勝したが、その後は低迷し、とくに2000年以降は万年Bクラスが続いている。

2007年から導入されたプレーオフの「クライマックスシリーズ」に出場した経験もなかったが、2013年に12年連続シーズン負け越しだったものの、レギュラーシーズン3位が確定し、「クライマックスシリーズ」に出場した。ファーストステージで2位の阪神に2連勝し、ファイナルステージ進出を決めたが、巨人に3連敗して敗退した。

ウイキペディアなどによると、前田健太さんは1988年大阪府泉北郡生まれ、小学3年時に地元の野球チーム「岸和田イーグレッツ」で野球を始め、中学では「忠岡ボーイズ」に所属し、西日本大会で優勝、日本選抜で世界大会に出場した。また、忠岡ボーイズ時代には当時、捕手だった田中将大(たなか・まさひろ)さんの所属する「宝塚ボーイズ」と度々対戦した。PL学園に進学し、1年の夏からベンチ入りし、大阪府大会では大阪桐陰高校との大会史上初の決勝再試合で先発し、完投勝利を挙げた。

「タウ」で開かれる「カープ女子会」のトークイベントに参加する元高校球児だった桝本壮志さん。

「タウ」で開かれる「カープ女子会」のトークイベントに参加する元高校球児だった桝本壮志さん。

2004年の第86回夏の全国高等学校野球選手権大会(甲子園)で、初戦の日大三高戦で先発登板するも、5回を投げ、被安打8、3失点で途中降板し、敗れた。2年夏は大阪桐陰高校と地区予選で対戦し、敗れた。3年春に近畿代表として第78回センバツ出場を果たし、1回戦の真岡工業高校戦で16奪三振完投勝利をあげ、2回戦の愛知啓成高校戦では完封勝利を記録、準々決勝の秋田商業戦でも勝ち、準決勝で清峰高校に6失点で途中降板し、敗退した。

3年夏は4番エースで高校通算27本塁打を放ったが、大阪府大会の準々決勝で敗退した。2006年9月25日の高校生ドラフト会議で、広島東洋カープから単独1位指名を受け、入団した。2007年は2軍スタートで、1軍の登板がなく、2008年に1軍で登板し、19試合投げて9勝、以降、1軍に定着し、2009年に8勝だったが、2010年から10勝以上をあげており、通算6年で71勝50敗の成績となっている。2012年4月6日に横浜DeNA戦でノーヒットノーランを達成している。

大野豊さんは1955年島根県出雲市生まれ、出雲商業高校から地元で唯一野球部がある出雲市信用組合に就職、3年間窓口業務や営業活動をこなし、職場の軟式野球部で野球を続けた。1976年秋に出雲で広島東洋カープの野球教室が開かれ、当時の山本一義(やまもと・かずよし)打撃コーチと主戦投手池谷公二郎(いけがや・こうじろう)さんが講師として参加、これを機にプロ入りを決意し、1977年に呉市営二河野球場で行われていた2軍キャンプにおいて、山本一義さんとスカウトの木庭教(きにわ さとし、1926-2008)の立ち会いのもと入団テストを受けて合格し、3月6日に広島カープにドラフト外入団した。

1977年から1998年まで広島カープで投手として22年間活動した。1978年に南海ホークスから移籍してきた江夏豊(えなつ・ゆたか)さんに見初められ、二人三脚でフォーム改造や変化球の習得に取り組んだ。。1981年にリリーフに抜てきされ、1984年から先発に転向し、1991年に抑えに再転向した。1993年のシーズンオフにアメリカMLBのアナハイム・エンゼルスから広島に大野豊さんを獲得したいとの公式オファーがあった。

年俸100万ドル(約1億2000万円)、専従通訳と住宅付きで1年間のレンタル契約、代わりの外国人選手を広島に1人紹介するという内容だったが、本人は1994年開幕時で38歳となる高齢などを理由にこれを固辞した(野茂英雄=のも・ひでお=さんがロサンゼルス・ドジャースに移籍したのは1995年2月8日)。1995年からは再び先発に転向し、1998年4月3日での中日ドラゴンズとの開幕戦で、史上最年長となる42歳での開幕投手を務め、4月12日に通算146勝目を記録したが、同年9月27日に横浜ベイスターズとの引退試合を最後に引退した。引退当時の年齢は43歳、チーム在籍年数22年、通算148勝138セーブ、生涯防御率2.90だった。

1999年に1年間広島の1軍投手コーチを務めたが、退団し、NHKの野球解説者、スポーツニッポン(大阪本社)の野球評論家を務め、2004年のアテネオリンピック、2008年の北京オリンピックでは野球日本代表の投手コーチを務め、2010年より広島のヘッド兼投手コーチに就任、2012年に投手コーチとなり、同年オフに退団した。2013年にプレーヤー部門表彰で野球殿堂入りした。現在、NHK野球解説者、スポーツニッポンの評論家を務めている。

桝本壮志さんは1975年広島県広島市生まれ、広島県立広島商業高校で硬式野球部に在籍、卒業後の1993年に吉本総合芸能学院に入学、大阪2丁目劇場を経て渋谷公園通り劇場の作家となり、ロンドンブーツ1号2号の「まぶだち」(TBSテレビ)で放送作家デビューした。

1997年から作家活動のため東京に移り、「ぐるぐるナインティナイン」や「天才!志村どうぶつ園」、「笑っていいとも」などの番組を手掛けている。2003年から球歴を活かし、広島県のプロ・アマチュアスポーツの月刊誌「広島アスリートマガジン」で連載をはじめ、2012年3月に100回連載を記念して「変愛野球論-9年間タダで書き続けたあるTV作家のCARPコラム!」を出版した。2003年から吉本興業の若手劇団「劇団シックネスバック」を主宰している。

定員は70人で、参加費は500円。希望者は店内で受け付けている。問い合わせは広島県商工労働局ひろしまブランド推進課(082-513-3441)まで。