「帰ってきたヒトラー」は右傾化への警鐘となるか(190)

【ケイシーの映画冗報=2016年6月30日】「労働者の余暇を推進し、休暇や旅行への参加をうながす」、「環境汚染への対応」、「国民教育の充実」、「失業者に適切な労働環境を整備する」、「最高権力者みずからが華美な生活を律し、官僚の汚職は徹底的に追求する」

現在、一般公開中の「帰ってきたヒトラー」((C)2015 Mythos Film Produktions GmbH&Co. KG Constantin Film Pro duktion GmbH Claussen&Wobke&Putz Filmproduktion GmbH)。

現在、一般公開中の「帰ってきたヒトラー」((C)2015 Mythos Film Produktions GmbH&Co. KG Constantin Film Pro duktion GmbH Claussen&Wobke&Putz Filmproduktion GmbH)。

これらは1933年にドイツの首相となり、ついで総統という終生の最高権力者となったアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler、1889-1945)が率いる国家社会主義ドイツ労働者党、いわゆるナチスが実際に行った政策です。

一介の復員兵であったヒトラーが、政治活動に入ってから15年もかからずに大国の指導者となったのは、反乱でも簒奪(さんだつ)でもなく、強引かつ奸計(かんけい)によるかもしれませんが、政治運動と選挙の結果だったのです。

たしかに過激な独裁者の典型として、批判や嫌悪の集中する人物でもありますが、有能かつ強運でなければ、あれだけの権力を握れないわけで、そのポジティブな部分に光をあてたのが本作「帰ってきたヒトラー」(Er ist wieder da、2015年)です。

2014年、ドイツの首都ベルリンに、軍服に口ひげをたくわえた奇妙な人物があらわれます。かれこそ、1945年4月、ナチスドイツが敗北する直前に自殺したはずのアドルフ・ヒトラー(演じるのはオリバー・マスッチ=Oliver Masucci)だったのです。

偶然、その現場に居合わせたテレビ局のディレクターであるザヴァツキ(演じるのはファビアン・ブッシュ=Fabian Busch)は、リストラされた局への復帰のために“ヒトラーと名乗る人物”を見つけ、取材を開始します。

豊富な知識欲で2014年の時局をさとったヒトラーは、得意とする“政治運動”をはじめます。能弁で魅力的な言葉を操る“自称ヒトラー”は21世紀の利器であるインターネット上での“草の根運動”で広く知られるようになり、社会的にも無視できない存在となってきます。

ついにテレビ局へ乗りこんだヒトラーは、お笑い番組の生放送にゲストとして登場、現在のドイツへの痛烈な批判を展開し、視聴者の人気をつかみ取ります。“ヒトラーに扮したお笑い芸人”というかたちで。

やがてメディアの寵児となったヒトラーは民衆の支持を集め、本を書けばベストセラーとなり、同書を原作として映画化も決定、監督は長年の夢がかなったザヴァツキとなります。幸せなはずのザヴァツキでしたが、ひとつ気になることがありました。自分を引き立ててくれた人物が本物のヒトラーではないかという、疑問というより恐怖です。やがてすべてが明らかになるのですが・・・。

原作はジャーナリストであるティムール・ヴェルメシュ(Timur Vermes)による同名小説で、ドイツ国内だけで250万部の売り上げを記録し、現在では世界の42言語に翻訳されたベストセラーとなっています。

監督のデヴィット・ヴェンド(David Wnendt)は、原作ではヒトラー当人による1人称の物語を、インターネット上への動画投稿や中継をからめたセミ・ドキュメンタリー風の構成へと変換しています。

そのため、ヒトラーへと変貌した主演のマスッチを、実際にドイツ国内のレストランのお客や極右政党のメンバーらと引き合わせ、通常のインタビュー取材の雰囲気をつくった撮影は、総計380時間という長さで、本編ではそれを30分ほどに凝縮して使用しているそうです。

こうした打ち合わせのない、まさにぶっつけ本番の演技について、マスッチはこうインタビューに答えています。
「概略の台本はあっても、一体次に何が起こるのか予想できない。そんな中、ヒトラーのイデオロギーを体した話を続けるのは、実に難しかった」(6月18日付読売新聞夕刊)

このように人心を掌握していくヒトラーのシーンは“ヤラセなし”というリアルなものですが、ヴェンド監督やマスッチも、意外なほどヒトラーという人物(あくまで再現ですが)が現代の民衆に受け入れられたことに驚きを感じたといいます。

前々回の「世界侵略のススメ」にもあるように、ドイツでは徹底した反ナチズムへの教育がなされいるにもかかわらず、「ドイツ社会の中間層がいかに右傾化しているかを知り、驚いた」(前掲紙)と語るマスッチですが、本作の意図をこう述べています。

「映画は決してヒトラーを賛美したものではない。右傾化した現状に対する警鐘だ。映画を見た人は、映画に込めたメッセージを、我々が意図した通りに受け止めている」
「1933年当時、大衆が扇動されたわけではない。彼らは計画を明示した者を指導者に選んだ。私を選んだのだ」

劇中のヒトラーが語るこの言葉は、ただいま国政選挙の最中である日本への問いかけでもあるように感じます。次回は「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」を予定しています(敬称略。【ケイシーの映画冗報】は映画通のケイシーさんが映画をテーマにして自由に書きます。時には最新作の紹介になることや、過去の作品に言及することもあります。当分の間、隔週木曜日に掲載します。また、画像の説明は著者と関係ありません)。

編集注:ウイキペディアによると、アドルフ・ヒトラーは1889年オーストリア=ハンガリー帝国(当時)オーバーエスターライヒ州、ドイツ国境に近いブラウナウ・アム・インで、税関吏アロイス・ヒトラー(Alois Hitler、1837?1903)と3番目の妻クララ(Klala、1860ー1907)の子として生まれ、オーストリア人であったが、民族としてはドイツ人で、1932年にドイツ国籍を取得している。

1899年に義務教育を終え、小学校の卒業資格を得、1900年に中等教育(中学校・高校)を学ぶ年頃になると、父親にリンツのレアルシューレ(実科中等学校、Realschule)への入学を強制され、このころからドイツ民族主義や大ドイツ主義に傾倒し、仲間内で「ハイル」のあいさつを用いたり、ハプスブルク君主国の国歌ではなく「世界に冠たるドイツ帝国」を歌うように呼びかけた。1901年から1903年にリンツ実科中等学校に在学するも成績が悪く中退し、転校先のシュタイアー実科中等学校も成績悪く中退した。

その後、ウィーンに移り、ウィーン美術アカデミーに2度受験しているが、いずれも不合格とされ、働かずに放蕩生活を送った。20歳から24歳までの徴兵義務を逃れると、1913年5月にドイツの南部ミュンヘンに移住したが、リンツ警察の通報を受けたミュンヘン警察によって強制送還され、弁明書で初めて自らの貧困を訴える嘘を書き連ね、1914年1月に検査で不適格と判定され、兵役を免除され、罪も免除された。

1914年に勃発した第1次世界大戦では軍に志願、ドイツ帝国の兵隊として戦うため、ドイツ帝国の構成国の一つであるバイエルン王国に請願し、バイエルン王国第16予備歩兵連隊に義勇兵として入営を許され、バイエルン第16予備歩兵連隊の伝令兵(各部隊との連絡役)として配属され、1918年の終戦まで伝令兵として2回受勲したが、階級はゲフライター(兵長)留まりであった。

1919年2月にミュンヘンのレーテで評議会委員となり、7月にヴァイマル共和国軍(当時)の情報提供者の「軍属情報員」(Aufklarungskommando) として登録され、台頭しつつあった「ドイツ労働者党 (DAP)」 の調査を担当するも、逆に9月に「ドイツ労働者党」の55人目の党員となった。1920年2月に党名を「国家社会主義ドイツ労働者党」(NSDAP、蔑称ナチス)へと改名され、1921年7月に労働者党内で分派闘争の中で、最終的に「第一議長」に指名され、この頃から「ヒューラー(Fuhrer、指導者)」と呼ばれるようになり、イタリアで一党独裁政治を行うベニート・ムッソリーニ(Benito Amilcare Andrea Mussolini、1883-1945)が採用していたローマ式敬礼に倣って、ナチス式敬礼を取り入れた。

1923年11月にエーリヒ・ルーデンドルフ(Erich Friedrich Wilhelm Ludendorff、1865-1937)とともに、ドイツ闘争連盟を率いてミュンヘン中心部へ向けて行進し、中央政権の転覆をめざした「ミュンヘン一揆」の首謀者として逮捕され、1924年4月に要塞禁錮5年の判決を受けた。この時期にルドルフ・ヘス(Rudolf Walter Richard Hes、1894-1987)による口述筆記で執筆したのが「我が闘争」(1925年7月に刊行)で、12月に釈放された。1925年2月に禁止が解除されたナチ党が再建され、大規模集会で政府批判を行ったため、州政府から2年間の演説禁止処分が下された。

1928年5月にナチ党として初めての国会議員選挙に挑んだが、12人の当選にとどまった。1929年頃に党の公式写真家であったハインリヒ・ホフマン(Heinrich Hoffman、1885-1957)の経営する写真店の店員エヴァ・ブラウン(Eva Anna Paula Braun、1912-1945)と知り合い、愛人関係になった。1930年の国会選挙で、ナチスが得票率18%、共産党が得票率13%を獲得し、社会民主党の得票率24.5%に次ぐ、第2党と第3党に伸びた。

1932年にドイツ国籍を取得し、大統領選挙に立候補し、1回目の投票では現職のパウル・ヒンデンブルク(Paul Ludwig Hans Anton von Beneckendorff und von Hindenburg、1847-1934)に次いで2位で、2回目の投票でもヒンデンブルク1935万9983(得票率53.1%)、ヒトラー1341万8517票(得票率36.7%)と善戦した。続く1932年7月の国会議員選挙ではナチ党は37.8%(1930年選挙時18.3%)の得票率を得て230議席(改選前107議席)を獲得し、改選前第1党だった社会民主党を抜いて国会の第1党となった。

1932年11月に内閣不信任案が可決され、選挙後の内閣も相次いで倒れ、1933年1月30日にヒトラー内閣が発足した。2月1日に議会を解散し、共産党議員や社会民主党、諸派の一部議員への弾圧により、3月5日の選挙でナチスが議席数で45%の288議席を獲得した。3月に新国会で全権委任法を可決させ、議会と大統領の権力は完全に形骸化され、7月にはナチ党以外の政党を禁止し、1934年8月にヒンデンブルク大統領が在任のまま死去すると、国家元首である大統領の職務を首相の職務と合体させ、ヒトラーに大統領の職能を移し、称号は「ヒューラー」とし、8月19日に民族投票で89.93%という支持率を得て承認された。これ以降、日本の報道でヒトラーの地位を「総統」と呼ぶことが始まった。

党と国家の一体化を推し進める一方で、航空省の設置などヴェルサイユ条約で禁止されていた再軍備を推し進め、1933年には600万人を数えていた失業者も1934年には300万人に減少し、新聞の統制化も行われ、1934年には300紙の新聞が廃刊となり、ナチ党の出版社フランツ・エーア出版社に買収され、情報の一元化が進み、1935年3月にドイツ再軍備宣言、1936年3月にラインラントに進駐し、いずれも土曜日を選んでいる。

1937年11月に「東方生存圏」獲得のための戦争計画を発表し、1938年3月には武力による威嚇でオーストリアを併合、1938年9月にチェコスロバキアでドイツ系住民がほとんどを占めるズデーテン地方を併合、1939年8月にソ連との間に独ソ不可侵条約を結び、9月1日にポーランド侵攻を開始、9月3日にはイギリスとフランスがドイツへの宣戦布告を行い、第2次世界大戦が開始された。10月中にポーランドをほぼ制圧、1940年にデンマークとノルウェーを占領した。

1940年6月にフランス政府はドイツに休戦を申し込み、8月30日にハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの領土問題を調停し、9月27日に「日独伊三国条約」を結び、1941年にユーゴスラビアへ侵攻、ギリシアを占領してバルカン半島を制圧し、北アフリカ戦線では英国軍の前に敗退を続けていたイタリア軍を援けて攻勢に転じた。1941年6月にソ連に侵攻を開始、12月11日にアメリカへ宣戦布告した。しかし、1943年1月にスターリングラード攻防戦で敗北し、7月25日にイタリアでムッソリーニが失脚、9月8日にイタリア政権が休戦を発表し(イタリアの降伏)、連合国軍はイタリア本土に上陸した。

1944年に東部ではソ連に敗北を重ね、西部ではノルマンディー上陸作戦の成功による第2戦線が確立、1945年1月からソ連軍が大攻勢を開始し、4月にソ連軍がベルリン作戦を発動、4月29日に親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Luitpold Himmler、1900-1945)がヒトラーの許可を得ることなく英米に対し降伏を申し出た。4月30日に恋人エヴァ・ブラウンと結婚式を挙げ、15時にエヴァと共に総統地下壕の自室に入り、自殺した。