丸善WABPでシェイクスピアとセルバンテス特集、シオボルド版等

【銀座新聞ニュース=2016年8月30日】丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は8月31日から9月27日まで3階ワールド・アンティーク・ブック・プラザで「文学ーミゲルとウィリアム」を特集する。

丸善・日本橋店で8月31日から9月27日まで開かれる「文学ーミゲルとウィリアム」特集に出品されるシェイクスピア「戯曲全集」(フォース・フォリオ、1685年)。

丸善・日本橋店で8月31日から9月27日まで開かれる「文学ーミゲルとウィリアム」特集に出品されるシェイクスピア「戯曲全集」(フォース・フォリオ、1685年)。

「ワールド・アンティーク・ブック・プラザ」(WABP)は丸善や丸善グループの丸善雄松堂(ゆうしょうどう)書店(新宿区四谷坂町10-10、 03-3357-1417)など世界11カ国から22社のアンティーク・ブックショップが集合して開設したもので、2013年3月から毎月、テーマを決めてイベントを開いており、2015年6月から3週間程度に期間を短縮している。

今回は「文学ーミゲルとウィリアム」特集で、400年前、暦上同じ日に亡くなったとされているスペインのミゲル・デ・セルバンテス(Miguel de Cervantes Saavedra、1547-1616年4月23日)と英国のウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare、1564-1616年4月23日、グレゴリオ暦5月3日)、ともに、国民的文学者でありながら素性はどこか謎めいており、庶民的な視点から時代や言語を超えた普遍性を描き、今日まで100言語以上に翻訳されている。そこで、シェイクスピア戯曲やドン・キホーテ作品各版、さし絵本、関連資料などを取り揃えて展示販売する。

同じく出品されるドレ画、セルバンテス「ドン・キホーテ」(初版、全2巻、1863年)。

同じく出品されるドレ画、セルバンテス「ドン・キホーテ」(初版、全2巻、1863年)。

ウイキペディアによると、シェイクスピアは1564年イングランド王国ストラトフォード・アポン・エイヴォン生まれ、1585年前後にロンドンに進出し、1592年に新進の劇作家として活躍した。1612年ごろに引退するまでの約20年間に、4大悲劇「ハムレット」、「マクベス」、「オセロ」、「リア王」をはじめ、「ロミオとジュリエット」、「ベニスの商人」、「夏の夜の夢」、「ジュリアス・シーザー」など多くの作品を残し、「ヴィーナスとアドーニス」のような物語詩もあり、特に「ソネット集」は今日でも最高の詩編の一つと見なされている。

シェイクスピアの父親ジョン・シェイクスピア(John Shakespeare、1531?1601)はスニッターフィールド出身の成功した皮手袋商人で、町長に選ばれたこともある市会議員、母親メアリー・アーデン(Mary Arden、1537-1608)はジェントルマン(地主貴族を核とする英国リスの名望家)の娘であり、裕福な家庭環境であった。エリザベス朝時代(エリザベス1世の治世期間、1558年から1603年)には出生証明書が発行されていなかったので、ウィリアムの正確な誕生日は不明だが、1564年4月26日に洗礼を受けたことが記録と残っており、通常、洗礼式は生誕後3日以内に行なうのが通例であり、伝統的に誕生日は4月23日とされてきた。

父はウィリアムの生まれたころには裕福であったが、羊毛の闇市場に関わったかどで起訴され、市長職を失った。ウィリアムはストラトフォードの中心にあったグラマー・スクール、エドワード6世校 (King Edward 6 School Stratford-upon-Avon) に通ったとみられ、この学校はラテン語文法や文学について集中学習が行なわれ、講義の一環として学生たちはラテン演劇の洗礼を受けた。初期の戯曲「間違いの喜劇」に古代ローマの劇作家、プラウトゥス(Titus Maccius Plautus、紀元前254?紀元前184)の戯曲「メナエクムス兄弟」との類似性があることも、シェイクスピアがこの学校で学んだと推測される根拠のひとつとなっている。

1582年11月29日に18歳で、26歳の女性アン・ハサウェイと結婚した。結婚後、ロンドンの劇団に出るまでの数年間に関する記録はほとんど現存していないため、この間を「失われた年月」 (The Lost Years) と呼ばれる。1592年ごろまでにロンドンへ進出し、演劇の世界に身を置いた。当時は、エリザベス朝演劇の興隆に伴って、劇場や劇団が次々と設立されている最中で、俳優として活動するかたわら次第に脚本を書くようになる。1594年の終わりごろ、俳優兼劇作家であると同時に、宮内大臣一座として知られる劇団の共同所有者ともなっており、同劇団の本拠地でもあった劇場グローブ座の共同株主にもなった。

当時の他の劇団と同様、一座の名称はスポンサーであった貴族の名前から取られており、この劇団の場合には宮内大臣がパトロンとなっていた。1603年にエリザベス1世が死去してジェームズ1世(James1、Charles James Stuart、1566-1625)が即位した際、この新国王が自ら庇護者となることを約束したため国王一座へと改称することになるほど、シェイクスピアの劇団の人気は高まっていた。1598年にグローブ座で初演されたベン・ジョンソン(Ben Jonson、1572-1637)の「十人十色」 (Every Man in His Humour) では、出演者一覧の最上段にシェイクスピアの名前が記載されている。

シェイクスピアは国王一座で上演する戯曲の多くを執筆したり、劇団の株式の共同所有者として経営に関与したりするかたわら、俳優業も継続して「ハムレット」の先王の幽霊や、「お気に召すまま」のアダム、「ヘンリー五世」のコーラスなどを演じたといわれる。1613年に故郷ストラトフォードへ引退したと見られている。1616年4月23日に52歳で没した。死因は腐りきったニシンから伝染した感染症であるらしいが、詳細は不明とされている。

一方、セルバンテスは1547年マドリード近郊のアルカラ・デ・エナーレス生まれ、父は外科医、祖先を1492年以前にさかのぼるとユダヤ人で、セルバンテスはコンベルソ(converso、カトリックに改宗したユダヤ教徒)もしくは新キリスト教徒ではないかという研究者もいる。少年時代から、道に落ちている紙切れでも字が書かれていれば手にとって読むほどの読書好きで、父の仕事がうまくいかず、バリャドリード、コルドバ、セビーリャと各地を転々とする生活で教育をまともに受けられなかった。

1564年ごろ、マドリードに転居し、ルネサンスの人文学者ロペス・デ・オヨス(Juan Lopez de Hoyos、1511-1583)に師事し、1569年に教皇庁の特使であったアックアヴィーヴァ枢機卿(Giulio Acquaviva d’Aragona、1546-1574)の従者としてローマに渡り、ナポリでスペイン海軍に入隊する。スペイン最盛期の象徴であるレパントの海戦(1571年)において被弾し、左腕の自由を失った後も4年間従軍を続け、チュニスへの侵攻にも参加した。本国へと帰還する途中、バルバリア海賊に襲われ捕虜にされた。

巨額の身代金を課され、アルジェで5年間の虜囚生活を送り、この間、4回も脱出を企てるが失敗した。処刑されなかった理由は、推薦状により大物と見られていたためと思われている。三位一体会(キリスト教の慈善団体)によって身請けされ本国に戻り、1585年に最初の作品「ラ・ガラテーア」を出版する。

1585年に父親が亡くなり、6人家族となると、稼ぎ手の少ない家計は逼迫した。無敵艦隊の食料調達係の職を得てスペイン各地を歩き回って食料を徴発するが、教会から強引に徴発したかどで投獄され、1586年にアルマダの海戦で無敵艦隊が撃破されたため職を失う。徴税吏の仕事に就くが、税金を預けておいた銀行が破産、併せて負債として30倍の追徴金を課され、未納につき1597年に投獄される。

セビーリャ監獄の中には、ピカレスク小説「グスマン・デ・アルファラーチェ」(1559年)の作者マテオ・アレマン(Mateo Aleman、1547-1616)もいたという。「ドン・キホーテ」の序文で、牢獄において構想したことをほのめかしている。1605年、マドリードにて「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」が出版され、大評判となった。「ドン・キホーテ」の版権を安く売り渡していたため、生活面での向上は得られず、その後も創作活動は展開され、「模範小説集」(1613年)、「ドン・キホーテ 後編」(1615年)、遺作「ペルシーレスとシヒスムンダの苦難」(1617年)などを送り出した。1616年、69歳でその波瀾に満ちた人生を終え、最後の借家はマドリード中心部の2つの通りが交わる地点にあり、片方の通りの名は「セルバンテス通り」と名付けられている。

英国のシェイクスピアと死亡した日が同じであるとされるが、当時はヨーロッパ大陸とブリテン島とで異なる暦を使用しており、実際には同じ日ではない。これは、1582年にローマ教皇がユリウス暦からグレゴリウス暦へ暦の変更を決定し、大陸のカトリックやプロテスタントの国々が順次変えていったのに対し、当時の英国は、カトリック教会の権威が及ばない英国国教会が優勢だったために新しいグレゴリウス暦を受け入れることが遅れたからとされている。

今回、出品されるのは、 「ゲスタ・ロマノールム」(ドヒニー文庫旧蔵本、1484年)、ラヴァテル(Ludwig (Lewes) Lavater、1527-1586)の「夜の亡霊と霊魂たち」(英語版初版、1572年)、ホリンシェッド(Raphael Holinshed、1529-1580)の「英国年代記」(第2版、1587年)、シェイクスピア「戯曲全集」(第4版、The Fourth Folio=フォース・フォリオ、1685年)。

英国の古典・文献学者、シオボルド(Lewis Theobald、1688-1744)編の「シェイクスピア全集」(初版、全7巻、1733年)、宮廷画家コワペル(Noel-Nicolas Coypel、1690-1734)画、セルバンテス「ドン・キホーテ」(フランス語版、1768年)、ジョンソン(Samuel Johnson、1709-1784)、スティーブンズ(George Steevens、1736–1800)注釈「シェイクスピア戯曲集」(第3版全10巻、1785年)。

フロリアン(Jean-Pierre Claris de Florian、175-1794)訳「ラ・マンチャのドン・キホーテ」(フランス語版、全6巻、1799年)、ネアズ(Robert Nares、1753-1829)の「シェイクスピア時代の英文学作品語彙集」(初版、1822年)、ギュスターヴ・ドレ(Paul Gustave Dore、1832-1888)画/セルバンテス「ドン・キホーテ」(初版、全2巻、1863年)、「ストラトフォード・アポン・エイヴォン」(ポスター&パンフレットコレクション、1900年ころ)、ラッカム(Arthur Rackham、1867-1939)画/シェイクスピア「夏の夜の夢」(初版、美装丁本、1908年)など。

開場時間は10時から20時(最終日は12時)まで。