神田すずと歩く品川宿、木戸孝允ら愛用の相模屋跡や品川駅など

【銀座新聞ニュース=2016年9月22日】永谷商事(武蔵野市吉祥寺本町1-20-1、0422-21-1796)が運営する「お江戸日本橋亭」(中央区日本橋本町3-1-6、日本橋永谷ビル1階、03-3245-1278)で9月29日に神田すずさんによる「講釈師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」を開く。

永谷商事が9月29日に開く「講釈師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」で「東海道-品川宿場を歩く」を案内する神田すずさん。

永谷商事が9月29日に開く「講釈師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」で「東海道-品川宿場を歩く」を案内する神田すずさん。

不動産会社で都内で寄席を運営する永谷商事が毎月1回から2回程度、定期的に開いている「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」シリーズのひとつで、講談師が名所旧跡などを解説しながら一緒に歩いて回り、その後、寄席で講談を鑑賞する企画だ。

今回は最近はじめている「大江戸探訪シリーズ」として、二つ目の講談師、神田(かんだ)すずさんが「東海道-品川宿場を歩く」で、京浜急行「青物横丁駅」改札口前に集合して「寄木神社(よりきじんじゃ)」(品川区東品川1- 35-8)から「品川本陣跡(聖跡公園)」(品川区北品川2-7-2)、「品川神社(しながわじんじゃ)」(品川区北品川3-7-15)、「品川土蔵相模跡(しながわどぞうさがみあと)」(品川区北品川1-22-17)、「品川宿(しながわじゅく、棒鼻)」(品川区北品川)、「八つ山下(やつやました)」(品川区北品川)、「品川駅」(港区高輪3丁目および港南2丁目)と回る。その後、お江戸日本橋亭で神田すずさんらによる「日本橋お江戸寄席」を楽しむ。

「江戸五街道」は1604年に日本橋を起点として定められた主要街道のことで、一里(約3.9キロメートル)ごとに一里塚を設けたほか、一定間隔ごとに宿場を用意し、1659年以降は新たに道中奉行の管轄に置かれた。

1716年に東海道(日本橋から京都・三条大橋)、中山道(日本橋から守山で、草津から三条大橋までは東海道と重複)、甲州街道(日本橋から甲府を経て信濃国の下諏訪宿で中山道と重複する)、奥州街道(日本橋から陸奥白川)、日光街道(日本橋から日光坊中までで、日本橋より宇都宮までは奥州街道と重複する)の正式名称が定められた。

今回は東海道品川宿コースで、日本橋から最初の宿場町になる。「寄木神社」は江戸時代には寄木明神社と呼ばれて、漁師町の鎮守で、左官職人の入江長八(いりえ・ちょうはち、1815-1889)の「こて絵」が神社の土蔵の扉に残っており、その「漆喰細工」は品川区指定文化財として認定されている。

「品川本陣跡」は北品川宿と南品川宿、歩行(かち)新宿の「三宿」の中央に位置し、1712年に北品川宿の問屋場が焼失してからは南品川宿のみとなり、休泊施設としての本陣は北品川だけとなり、大名の宿泊時には、その大名の名前を記した関札を建て、紋の入った幕を掲げられた。

品川宿の本陣は明治維新の大政奉還(たいせいほうかん、1867年)に際し、京都から江戸に入る明治天皇(めいじてんのう、1852-1912)の宿舎「行在所(あんざいしょ)」となり、1872年に宿駅制度の廃止に伴い、警視庁品川病院となり、1938年に「聖蹟公園」に改修された。

「品川神社」は1187年に源頼朝(みなもとのよりとも、1147-1199)によって海上安全の守護神として建立され、社名は「品川大明神」と名づけられた。江戸時代には「北品川稲荷社」と改称され、旧北品川宿と歩行新宿の鎮守とされた。

徳川家の崇敬があつく、社殿が消失すると、1694年に5代将軍、徳川綱吉(とくがわ・つなよし、1646-1709)が、1851年に12代将軍、徳川家慶(とくがわ・いえよし、1793-1853)がそれぞれ社殿を再建したが、当時の建物はほとんど残っていない。現在の社殿は1964年に再建された。

社殿裏には明治の自由民権運動の主導者、板垣退助(いたがき・たいすけ、1837-1919)の墓があり、石碑の「板垣死すとも自由は死せず」は元首相の佐藤栄作(さとう・えいさく、1901-1975)が筆で書いている。

「品川土蔵相模跡」は歩行新宿にあった品川宿有数の旅籠屋「相模屋」があったところで、当時、外壁が土蔵のようなナマコ壁であったことから「土蔵相模」と親しまれ、高杉晋作(たかすぎ・しんさく、1839-1867)や桂小五郎(かつら・こごろう、後の木戸孝允=きど・たかよし=、1833-1877)をはじめ、多くの志士達が愛用した。

御殿山に建設途中だったイギリス公使館の焼き討ちには「土蔵相模」から向かったといわれ、桜田門外の変(1860年)では水戸浪士が最後の酒宴を開いた場所として知られる。明治以後は貸座敷「相模楼」となり、戦後は「さがみホテル」と改称し、1982年に取り壊された。現在はビルでコンビニのファミリーマート北品川店が入っている。

「品川宿」は東海道五十三次の宿場のひとつで、東海道の第1宿であり、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで「江戸四宿」と呼ばれた。1601年に、中世以来の港町として栄えていた品川湊の近くに設置され、北宿、南宿、新宿にわかれていた。1843年(天保14年)の「東海道宿村大概帳」によると、宿内は本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠93軒で、家の数は1561軒、住人が6890人もいた。

場所は、現在の東京都品川区内で、北は京急本線の北品川駅から南は青物横丁駅周辺までの旧東海道沿い一帯に広がっていた。目黒川を境に、それより北が北品川宿、南が南品川宿、北品川の北にあった宿を歩行新宿といった。歩行新宿は、品川宿と高輪の間に存在していた茶屋町が1722年に宿場としてみとめられたもので、宿場が本来負担する伝馬と歩行人足(かちにんそく)のうち、歩行人足だけを負担したために「歩行人足だけを負担する新しい宿場」という意味で名付けられた。

品川宿は五街道の中でも重要視された東海道の初宿であり、西国へ通じる陸海両路の江戸の玄関口として賑わい、旅籠屋数や参勤交代の大名通過数において他の江戸四宿と比べ数が多かったといわれている。1872年に宿駅制の廃止と鉄道の開通によって、宿場町としての機能は失われ、北品川では多くの遊郭が営業を続けたことから関連の商業施設が建ち並び、目黒川流域の低地には、地価の安さや水運、用水の便から大規模工場が立地し、その周辺の南品川では下請の小規模工場やその関連住宅が増え、商店も旧東海道沿いに建ち並んだ。

旧品川宿地域は大東亜戦争の戦災をほとんど受けなかったため、戦後も北品川の遊郭は営業を続けたが、1958年の売春防止法により工場の従業員寮や民間アパートなどに変化し、商店街が形成された。一方、南品川では1970年代の日本列島改造によって目黒川周辺の大規模工場の移転流出が続き、その従業員らを相手にしていた商店街が衰退した。

その後、近隣の埋立地が再開発されていく中、旧品川宿地域は取り残されたが、反面、宿場町特有の歴史的資源が維持され、1988年に「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」が組織され、歴史的景観を生かした町の活性化が計られている。棒鼻(榜示杭)は「これより東海道」と書かれ、品川宿を出ることを意味していた。

「八つ山下」は品川宿の最北端にあった丘陵が八つ山で、八つ山下は高輪八つ山のことで、現在の品川駅あたりを指している。東海道に架けられた日本初の跨線橋「八つ山橋」があり、八つ山の土は八つ山下の海辺の石垣整備、目黒川洪水の復旧など、土木普請用に使われた。1919年から八ツ山下海面埋め立てに着手され、1927年に八ツ山埋立工事が完了している。

「品川駅」は西口側が三田から高輪台にまたがる台地の裾野に位置し、1872年6月の開業当初、線路は海岸線に沿って建設され、線路よりも東側は海だった。港南側の大部分は明治時代以降に埋め立てにより造成された。新橋駅が開業したのが1872年10月で、品川駅はそれより前に仮開業していたため、横浜駅(現桜木町駅)とともに日本一古い鉄道駅の一つとされている。

1885年3月に日本鉄道品川線(現山手線)が乗り入れ、1904年5月に京浜急行(京浜電気鉄道)が品川駅(現北品川駅)と八幡駅(現大森海岸駅)を開業した。1906年11月に日本鉄道が鉄道国有法により国有化され、1909年10月に線路名称制定により東海道本線の所属とされた。現在、品川駅にはJR東日本(東海道線、京浜東北線、山手線、横須賀線)、JR東海(東海道新幹線)、JR貨物、京浜急行(本線)が乗り入れている。

神田すずさんは東京都東村山市生まれ、2006年に神田(かんだ)すみれさんに入門し、前座見習となり、2010年9月に「二つ目」に昇進した。

時間は10時から16時30分で、10時に京浜急行「青物横丁駅」改札口前に集合し、昼ころまでにお江戸日本橋亭に移り、13時30分から「日本橋お江戸寄席」を鑑賞する。料金は弁当、飲み物、寄席代を含めて3000円で、交通費などがかかる場合は自己負担となる。申し込みは永谷商事まで。

また、午後からの「日本橋お江戸寄席」には前座の三遊亭風月(さんゆうてい・ふうげつ)さん、二つ目の春風亭吉好(しゅんぷうてい・よしこう)さん、神田すずさん、真打の桂小南治(かつら・こなんじ)さん、吹奏楽漫談のはたのぼるさん、真打の三遊亭鳳楽(さんゆうてい・ほうらく)さんが出演する。