リコー画廊で榎本敏雄、織作峰子、志鎌猛、テラウチマサト「桜」展

【銀座新聞ニュース=2017年2月14日】リコー(中央区銀座8-13-1、03-6278-2111)グループのリコーイメージング(大田区中馬込1-3-6、03-3777-4250)が運営するギャラリー「リコーイメージングスクエア銀座」(中央区銀座5-7-2、三愛ドリームセンター、03-3289-1521)は2月16日から3月26日まで8階ギャラリーゾーン「A.W.P」で榎本敏雄さん、織作峰子さんら4人による写真展「桜・モノクロームで愛でる」を開く。

リコーイメージングスクエア銀座で2月16日から3月26日まで開かれる4人の写真展「桜・モノクロームで愛でる」に展示される榎本敏雄さんの作品((C)toshio enomoto)。

今回は桜の時期に先駆けて、榎本敏雄(えのもと・としお)さん、織作峰子(おりさく・みねこ)さん、志鎌猛(しかま・たけし)さん、テラウチマサト(てらうち・まさと)さんの4人の写真家による「桜」の世界観をモノクローム作品25点で構成し、展示する。

プリントは、古典的な技法で和紙の印画紙を自作して密着焼きするプラチナプリントから、デジタル技術を駆使した最新のプリントまで、写真家によってさまざまな表現手法を用いている。

ウイキペディアによると、桜はバラ科サクラ亜科サクラ属の落葉樹の総称で、現在、固有種・交配種を含め600種以上の品種が存在するとされている。日本では平安時代の「国風文化」の影響以降、花の代名詞のようになり、春の花の中でも特別な位置を占めるようになった。桜は穀物の神が宿るとも、稲作神事に関連していたともされ、農業にとり昔からひじょうに大切なものとされた。

「万葉集」にはいろいろな植物が登場し、桜もそのひとつだが、中国文化の影響が強かった奈良時代では和歌などで「花」といえば「梅」を指していた。万葉集においては梅の歌118首に対し、桜の歌は44首にすぎない。その後、平安時代に「国風文化」が育つにつれて徐々に桜の人気が高まり、「花」とは桜を指すようになった。

古今和歌集仮名序にある王仁(わに、生没年不詳)の歌では「花」は梅をさし、平安時代の歌人である紀友則(きの・とものり、845?-907)の歌の「花」は桜を意味している。嵯峨天皇(さがてんのう、786-842)は桜を愛し、花見を開いたとされている。歌人の中では平安末期の西行法師(さいぎょうほうし、1118-1190)が、桜を愛したことで知られている。

豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし、1537-1598)は醍醐寺に700本の桜を植えさせ、1598年4月20日に近親の者や諸大名を従えて盛大な花見を催したとされている。江戸時代には河川の整備に伴い、護岸と美観の維持のために柳や桜が植えられ、園芸品種の開発も進み、さまざまな種類の花を見ることができるようになる。江戸末期までには300種類を超える品種が存在した。

花見の風習が庶民に広まったのは江戸時代といわれ、江戸でもっとも名高かったのが忍岡(しのぶがおか)で、天海大僧正(てんかいだいそうじょう、1536?-1643)によって植えられた寛永寺の桜という。しかし、格式の高い寛永寺で人々浮かれ騒ぐことは許されていなかったため、享保年間に徳川吉宗(とくがわ・よしむね、1684-1751)が浅草(墨田川堤)や飛鳥山に桜を植えさせ、庶民の行楽を奨励した。

江戸末期までには300種を超える品種が存在するようになり、江戸末期に出現したソメイヨシノをはじめ、明治以降には多くの場所に桜が植えられたが、明治維新後に大名屋敷の荒廃や文明開化、西洋化の名の下に多くの庭園が取り潰され、底に植えられていた数多くの品種の桜が切り倒され燃やされた。

これを憂いた駒込の植木・庭園職人の高木孫右衛門(たかぎ・まごえもん、生没年不詳)は多くの園芸品種の枝を採取し、自宅の庭で育てた。これに目を付けた江北地区戸長(後に江北村村長)の清水謙吾(しみず・けんご、1840-1907)が村おこしとして、1836年に荒川堤が修築された際に、足立郡長の尾崎斑象(おざき・はんしょう)と協力して資金をあつめ、高木孫右衛門に依頼して桜の苗木78種類3000本を荒川堤に植樹した。

のちに「荒川堤の桜」とよばれ、名所となり、これ以降、多くの園芸品種が小石川植物園などに保存された。1912年3月に、当時のアメリカ大統領ウィリアム・タフト(William Howard Taft、1857-1930)の夫人が、日本の桜を首都ワシントンのポトマック河畔に植えたいと考えているということを知った当時の東京市長(1903年から1912年)の尾崎行雄(おざき・ゆきお、1858-1954)が、日米親善記念及び日露戦争の際に、アメリカが日本に対して好意的だったことへの謝意もこめて、荒川堤の桜並木の桜(ソメイヨシノ)を穂木とした苗木2000本をアメリカに贈った。

これらの桜はポトマック川の入り江のタイダルベイスンのジェファーソン記念館付近に植えられた。ただし、これらのソメイヨシノは虫害によって焼却され、後に3100本の桜が新たに植樹されている。

日本では国花が法定されてなく、皇室の象徴する花は菊であるが、桜は多くの公的機関でシンボルとして用いられている。旧日本軍(陸軍、海軍)が桜の意匠を徽章などに使用しており、これは自衛隊(陸自、海自、空自)でも同じで、内閣総理大臣旗と防衛大臣旗には、桜星5つが用いられ、桜星4つが統合幕僚長旗になっている。

榎本敏雄さんは1947年東京都生まれ、18歳の時にグラフィックデザインから写真に転向し、ドキュメンタリー写真家をめざし、東京造形大学を卒業、日本デザインセンターを経てフリーカメラマンとして活動、1972年にシルクロードを車で踏破し、カメラ雑誌、女性誌、企業広報誌、雑誌「太陽」(平凡社)などに掲載し、1985年に「エノモトスタジオ」を設立、これまでに電通広告賞、日経広告賞、朝日広告賞、講談社雑誌広告賞、JRポスターグランプリなどを受賞している。

織作峰子さんは1960年石川県生まれ、京都文教短期大学を卒業、在学時の1981年度にミスユニバース日本代表に選ばれ、ニューヨーク大会に出場、1982年に大竹省二(おおたけ・しょうじ)さんの「大竹スタジオ」に入門、1985年、1986年に全国二科展に入選、1987年に独立して、写真家と して活動、1989年から2年間、アメリカ・ボストンに暮らし、世界各国の風景や人物を撮り続け、日本や世界で写真展を開催、2004年に大阪芸術大学写真学科助教授、2006年に同大学写真学科教授、現在、大阪芸術大学写真学科学科長も務めている。

志鎌猛さんは1948年東京都生まれ、1968年から1970年に青山学院大学に在籍し、その後、デザインの世界を経て写真家となり、2002年より、日本各地の深い森に分け入り、目に見えている風景の、その奥にある目に見えない世界を撮影し、「森の襞-サイレント・レスピレーション・オブ・フォレスト(Silent Respiration of Forests)」シリーズに取り組み、2008年に新たなシリーズ「うつろいーエヴァネセンス(Evanescence)」を、森、野、蓮、庭園の4部作として展開し、すべての制作過程を手作業で行う「プラチナ・パラジウムプリント」への取り組みをはじめる。

2009年に「うつろい」シリーズの5部作目として「ランドスケープ(Landscape)」に着手し、デンマンークで個展、2010年よりプラチナ・パラジウムプリントの制作に手漉きの雁皮紙(がんぴし)を用いている。同年にアメリカの典型的風景の取材に着手、2011年にニューヨーク・セントラルパークを撮影、2012年にオランダ各地を取材し、2013年に第1回ジョン・シューラー・スカラーシップ(Jon Schueler Scholarshi)を受賞、スコットランド・スカイ島を撮影し、スペイン・ガリシア地方、フランス・フォンテーヌブロー、ノルマンディー地方を取材、2014年にスペインで個展を開いている。

テラウチマサトさんは1954年富山県生まれ、日本実業出版社を経て、1991年に写真家として独立、1999年にアメリカ・ マサチューセッツ工科大学のファインアート部門で講義し、2000年に「ファト・フォト(PHaT PHOTO)」を創刊、編集長を務め、2012年にユネスコ本部より招へいされ、ユネスコ・イルドアクトで写真展を開き、2014年に富山市政策参与に就任、2015年に長崎県東彼杵町アートアンバサダー(芸術大使)に就任、2015年にコロンビア「フォトグラフィカ・ボゴタ(FOTOGRAFICA BOGOTA)2015」に招へいされ講演し、2016年に富士山本宮浅間大社奥宮で奉納個展を開いた。

開場時間は11時から19時(最終日は16時)。毎週火曜日が定休。入場料は510円(税込)。