ヴァニラ画廊で「緊縛」展、美濃村晃、G・ナイト、北村ケイら

【銀座新聞ニュース=2017年3月20日】ヴァニラ画廊(中央区銀座8-10-7、東成ビル、03-5568-1233)は3月20日から4月1日まで美濃村晃らによる「縄のあわれ」を開く。

ヴァニラ画廊で3月20日から4月1日まで開かれる「縄のあわれ」に出品される美濃村晃の緊縛作品。

「昭和時代のひとつの心の美学」(ヴァニラ画廊)として、数々のSM専門誌で取り上げられた「緊縛(きんばく)」という行為は、日本発祥の文化のひとつとされ、「時代が変わり、現代に至るまで、絵画や写真、文学と、縄の拘束によるエロティックなロマンを、洗練された美意識で磨き上げながらさまざまなアーティストが、緊縛の表現の可能性を開拓」し続けてきた。

今回は、その中でも昭和から現代にかけて発表された新旧の作品を展示することで、その系譜と多様性を紹介し、「縄に託された、表現者たちの結びの思想の核心に迫」るとしている。

出品するのは、美濃村晃(みのむら・こう、本名・須磨利之=すま・としゆき、別名・喜多玲子=きた・れいこ、1920-1992)、切り絵を制作し、時代小説を中心に装画、装丁を手がけている小宮山逢邦(こみやま・ほうぼう)さん。

オーストラリア出身で、緊縛師で写真家のガース・ナイト(Garth Knight)さん、写真家の中島圭一郎(なかしま・けいいちろう)さん、写真家の北村ケイ(きたむら・けい)さんが出品する。また、伊藤晴雨(いとう・せいう、1882-1961)らの作品も特別出展する。

ウイキペディアによると、緊縛とは縄などで縛るという意味で、アダルトビデオなどで受身の者を縄あるいは紐状もしくは帯状のもので拘束し、身体の自由を奪う行為を指す。SMプレイでは服従的なパートナーを征服し、性的欲求を満たす行為のひとつとなっており、縛り方によりさまざまな形があり、服従的なパートナーを縛った状態で吊り上げる方法もある。

日本では手錠があまり発達しなかったこともあり、江戸時代の罪人の拘束には縄が用いられ、そのため捕縄術(ほじょうじゅつ)が発達し、囚人を死なせずに、暴れないで縛れるかという研究が必要になった。当時の刑罰には市中引き回しという公開処刑である晒し刑があったためで、身体の自由を奪い、逃げられない状態にする技術が必要とされた。

捕縄術が進歩するに伴い、内容が高度に細分化され、その例として罪人を縛り上げるときには身分や性別、年齢の違いによって結び目の結び方が異なる、縄の通し方が違うなど縛り方に細かいルールが存在した。これは茶の湯(茶道)や生花(華道)あるいは日本武術、武道などのように動きに美麗を求める日本人独特の感性と、江戸時代という身分固定が完成された時代背景・環境が生み出した必然的とも呼べる技術体系であった。

明治維新以降の錦絵で緊縛された女性の絵があらわれ、美しい女囚が、縛り上げられた姿に性的興奮を覚えるという嗜好(しこう)が公にされたのは伊藤晴雨(いとう・せいう、1882-1961)の責め絵からとされている。近年は性的な表現の幅が広がるとともに、セクシャルなプレーの一環として、緊縛が幅広く取り入れられるようになっている。アダルト業界では、受身の者を緊縛し調教することを生業としている者を「緊縛師・調教師」と呼ぶ。

美濃村晃は1920年京都府京都市生まれ、1930年代に京都美術工芸学校を結核で中退、日本画家の小林楳仙(こばやし・ばいせん)に師事し、1939年に舞鶴の海兵団に志願、1944年に乗船した「北陸丸」がバシー海峡で沈没したが、助かり、1945年頃に復員、京都の夕刊新聞「京都中央新聞社」の編集記者となり、1947年から「奇たんクラブ」にさし絵を描いた。

1951年から1953年まで「奇たんクラブ」の編集長を務め、自ら緊縛師として女性を縛ったり、SM小説などを書き、SM写真も撮影した。1956年にSM雑誌「裏窓」を発行し、自らの絵や小説などを発表した。しかし、警察によって繰り返し発禁処分などを受け、当時の原画などは多くが失われている。

編集長辞任後は同人誌「たのしみ草紙」(後に「風俗草紙」)を発行(1955年に廃刊)、あまとりあ社(その後、久保書店)に入社、「あまとりあ」の終刊号(8月号)の編集に携わり、同年に「かっぱ」(後に「裏窓」)を創刊した。1970年に久保書店を退社し、「あぶプロ」を設立、「あぶめんと」を創刊(同年9月号で廃刊)した。同年に「SMセレクト」の創刊に関わり、1971年に「SMコレクター」の創刊に関わり、1979年に脳いっ血で倒れ、1992年に逝去した。

小宮山逢邦さんは1946年東京都生まれ、1970年に武蔵野美術大学造形学部芸能デザイン科演劇専攻を卒業、1969年から1973年まで劇団「六月劇場(現劇団黒テント)」の舞台美術研究生、この間、1970年から1973年まで富士エンジニアリングで土木設計技師として勤務、1973年から1975年まで「むさしの画房」で江戸更紗染色図案を学び、1975年から1977年まで東京アドデザイナースのイラストレーターを務め、1977年にフリーとして活動する。

1981年から都内で個展を開き、1999年と2000年に凸版印刷からカレンダーを発売し、2001年に東京造形大学デザイン科非常勤講師、2003年にファンタランドからカレンダー「切り絵のエロス」を発売し、2004年にファンタランドからカレンダー「切り絵のエロス2」を発売し、2005年にナカタからカレンダー「切り絵のエロス3」を発売した。

2007年にヴァニラ画廊で個展、2009年に個展「鬼才切り絵師」を開き、2015年に個展「富士山の麓で富士山の切り絵展」を開いている。

ガース・ナイトさんは1972年生まれ、大学で工学部を卒業し、写真家として活動、1999年から緊縛の写真を撮影し、2010年ころから日本の「縛り」や「緊縛」を意識して取り入れた女性のヌード写真などを撮り影続けている。

中島圭一郎さんは1974年大分県生まれ、2000年頃から女性の写真を撮り始め、2006年に「ビットヌード・グラフィックス(bitnude graphics)」を設立とともに参加、2013年より「ウインクキラー」という写真プロジェクトに取り組んでいる。

北村ケイさんは1983年福岡県福岡市生まれ、学生時代は美術科を専攻し、2010年よりフリーの写真家として活動をはじめ、2013年にヴァニラ・マニアにて個展を開催、2014年と2015年に福岡アートスペース貘にて個展を開き、福岡を拠点に幻想・ジェンダーをベースにした写真活動を行っている。

伊藤晴雨は1882年東京市浅草区生まれ、幼少時から絵が得意で、1906年ころ、開盛座の絵看板を描き、女役者の板東勝代(ばんどう・かつよ、1893-没年不詳)と同棲、帝国新聞用達社に務め、1907年に「毎夕新聞社」に記者兼さし絵画家として入社、さし絵と演劇評論を担当した。1909年に「やまと新聞社」にさし絵主任として入社、その後、やまと新聞のさし画主任、読売新聞の演芸部長兼さし絵主任、毎夕新聞のさし画主任、博文館の「演芸画報」と「演芸倶楽部」の嘱託などを務めた。

1909年末に新派の背景画家であった玉置照信(たまおき・てるのぶ、1879-1953)の妻の妹であった竹尾(たけお)と結婚し、1916年に34歳で後に竹久夢二(たけひさ・ゆめじ、1884-1934)の愛人となる12歳のお葉(およう、佐々木カネヨ=ささき・かねよ、1904-1980)を愛人兼モデルにして責め絵を描き、1919年に最初の妻竹尾と離婚、2人目の妻・佐原キセ子(さはら・きせこ、1893ー没年不詳)と結婚し、責め絵のモデルにもする(1925年に離婚)。

1923年の関東大震災により、財産を失うも、江戸の風俗を書き記した「いろは引・江戸と東京風俗野史」を著したり、責めもさまざまな考証のもと行なうようになった。大正末期には「エログロブーム」で取り上げられ、「変態画家」として世間の注目を集めた。1924年に新国劇の看板、舞台装置を描く。1926年に3人目の妻とし子(1935年死去)と結婚するも、精神を病み、借金に追われ、1928年に発行した「責の話」は発禁処分とされた(1929年に伏字入りのガリ版すりを刊行)。1929年に新国劇を退き、曾我迺家五郎(そがのや・ごろう、1877-1948)一座の顧問となる。

1945年の東京大空襲で家財一切を焼失、戦後、カストリ雑誌や人間探求、奇譚クラブ、風俗草紙などに執筆、写真撮影会も開いた。そこで撮影された緊縛写真を風俗草紙、風俗奇譚、裏窓などに掲載した。1951年に百万弗劇場で伊藤晴雨作・演出による「雪地獄生娘」と「火責め水責めの生娘」を上演した。1953年に「責めの劇団」を結成、公演し、1960年にさし絵画家としての功績に対し、出版美術連盟賞を受賞、1961年に亡くなった。

開場時間は12時から19時(土・日曜日、祝日、最終日は17時)で、入場料は500円。会期中は無休。