ノエビアギャラリーで土門拳「昭和のこども」展

【銀座新聞ニュース=2017年3月22日】化粧品メーカーのノエビア(東京本社・中央区銀座7-6-15、03-5568-0300)は3月21日から6月9日までノエビア銀座ギャラリー(中央区銀座7-6-15、ノエビア銀座本社ビル1階)で土門拳写真展「昭和のこども」を開いている。

ノエビア銀座ギャラリーで6月9日まで開かれている土門拳の「昭和のこども」に展示されている作品「笑う子」(東京、1953年)。

昭和時代に活躍した写真家の土門拳(どもん・けん、1909-1990)は、昭和20年代後半から30年代初頭にかけて、江東区を中心にこどもたちを撮影した。こどもたちがカメラを意識せずに自然な表情を見せるまで待ち、時間をかけて写していたといい、家の外で生き生きと遊ぶこどもたちが、町にあふれていた時代の中で無心に遊ぶこどもたちの姿を多く撮影した。

ウイキペディアなどによると、土門拳は1909(明治42)年山形県飽海郡(あくみぐん)酒田町(現酒田市)生まれ、1926年に15号のバラの油彩画が横浜美術展覧会で入選、1928年に旧制神奈川県立第二中学校(現神奈川県立横浜翠嵐高校)を卒業、逓信省の倉庫用務員として勤務、1933年から写真館の門下生を経て、1935年にスナップ写真が「アサヒカメラ」10月号で月例第一部(初心者)2等に初入選、その号に出ていた名取洋之助(なとり・ようのすけ、1910-1962)主宰の第2次日本工房の求人広告に応募し、入社し、報道写真を撮り始める。

1936年から1939年まで日本工房発行の欧文雑誌「ニッポン(NIPPON)」を中心に海外へ日本を紹介する写真を撮影し、1937年に早稲田大学の卒業アルバムの写真撮影を担当(2009年に復刻)、1938年に当時の外務大臣・宇垣一成(うがき・かずしげ、1868-1956)のルポ「日曜日の宇垣さん」が「婦人画報」の9月号と、アメリカのグラフ誌「ライフ」に掲載された。藤本四八(ふじもと・しはち、1911-2006)ら「青年報道写真研究会」を結成した。

1939年に著作権の取り扱いをめぐって名取洋之助と対立し、日本工房を退社、初めて室生寺を撮影し、1941年に文楽の撮影を開始、徴兵検査を受けるも不合格、1943年に写真雑誌「写真文化」に掲載した人物写真に対して「アルス写真文化賞」、荻原守衛(おぎわら・もりえ、1879-1910)の彫刻作品を撮影し、1946年に古寺の撮影を開始、1949年に写真雑誌「カメラ」の企画で大阪、中国地方の旅に出る。1950年に木村伊兵衛(きむら・いへい、1901-1974)とともに「カメラ」誌の月例写真審査員になり、リアリズム写真を提唱した。

1953年から江東区の子どもたちを撮りはじめ(写真集「風貌」)、1957年に広島を取材(1958年に写真集「ヒロシマ」)、カメラ誌「フォトアート」月例審査員を1963年まで務め、1959年に筑豊炭鉱労働者を取材(1960年に写真集「筑豊のこどもたち」)、脳出血を発症、回復後、ライフワークとなる大型カメラによる「古寺巡礼」の撮影を開始、1966年から草柳大蔵(くさやなぎ・だいぞう、1924-2002)とのコンビで、平凡社「太陽」に「日本名匠伝」を連載した。

1968年6月に雑誌「太陽」の取材で滞在していた山口県萩市で2度目の脳出血を発症し、九州大学付属病院に緊急入院した。1969年にほぼ1年ぶりに意識不明から回復し、長野県鹿教湯温泉にある東京大学療養所に転院し、左手で水彩画を描いたりしてリハビリに励み、1970年から車椅子で撮影を再開し、風景写真を多く撮る。1971年に写真集「古寺巡礼」第4集で第19回菊池寛賞、1974年に紫綬褒章、酒田市の名誉市民第1号となる。

1979年 9月に脳血栓を発症し、1980年に勲四等旭日小綬章、1990年9月15日に11年間の昏睡状態を経て、入院先の東京都港区虎の門病院で心不全のため死去した。1981年に毎日新聞社が「土門拳賞」を創設し、1983年に全作品を寄贈し、故郷の酒田市に日本初の写真美術館として「土門拳記念館」が開館した。
開場時間は10時から18時(土・日曜日、祝日は17時)まで。入場は無料。