京橋川再生会が大根河岸公園を「おもてなしの庭」に整備

【銀座新聞ニュース=2017年3月30日】京橋三丁目町会(中央区京橋3-7-10、03-3561-5631)とNPO京橋川再生の会(中央区京橋3-6-1)はこのほど、京橋大根河岸公園(中央区京橋3-4)を再整備し、「京橋大根河岸おもてなしの庭」として公開した。

再整備された「京橋大根河岸おもてなしの庭」。

「京橋大根河岸おもてなしの庭」は広さ246平方メートル内を再整備したもので、公益財団法人「都市緑化機構」と第一生命保険が主催する「緑の環境デザイン賞」の2015年度「おもてなしの庭」緑化プランコンテストで、大賞を受賞し、「おもてなしの庭」助成プログラムによって助成を受けている。こんごはこの庭を使って「京橋川カフェ」などのイベントを開いて、旧京橋川の上にある高速道路の撤去実現をめざす。

「京橋大根河岸」は京橋から紺屋橋にかけて江戸時代から大根を中心とした野菜の荷揚げ市場のことで、京橋川を利用して、亀戸大根、練馬大根、小松菜、東京うど、滝野川ごぼう、品川かぶ、千寿ねぎ、寺島なす、馬込にんじん、内藤かぼちゃ、早稲田みょうがなどの江戸野菜が集められ、「江戸八百八町」の住民たちに野菜を提供していた。

4代将軍・徳川家綱(とくがわ・いえつな、1641-1680)の時代、寛文(1661年から1673年)年間に数寄屋橋あたりに自然発生的に生まれ、2014年2月11日に350年を迎えた。

左側に新たに設置された「緑の環境デザイン賞おもてなしの庭」大賞を説明した緑色のレリーフ。

江戸時代以降も明治、大正と続き、関東大震災(1923年)の前まで続いたが、関東大震災以後、区画整理や都市再編成で大根市場が野菜市場となり、神田、築地へと移り、1935年に築地に中央卸売市場が開設され、当時の問屋集団が卸売会社を結成して入り、現在の築地市場青果部の基礎を築いた。京橋の跡地には「京橋大根河岸青物市場跡」の記念碑が建てられている。

京橋川は江戸時代の慶長期(1596年から1615年)に開削された人工の河川で、東海道には京に向かう橋ということで京橋が架けられていたため、この川を京橋川と呼ぶようになったと考えられている。江戸城の外濠と楓川、桜川に至る約600メートルの河川で、戦後の復興事業の一環として外濠、京橋川を埋め立て道路を造るという計画が立ち上がり、埋立てられることになった。

埋立ては1954年から始まり、桜川、楓川とともに1959年には水路としての京橋川は完全に消滅し、現在は東京高速道路株式会社線がその上に建設されている。

「大江戸歴史散歩を楽しむ会」によると、京橋川は、江戸城外濠に架かる鍛冶橋の近くの北紺屋町(現八重洲2丁目)から東に分流して、南紺屋町(現銀座1丁目)三ツ橋の合流地点までの600メートルの人工河川で、江戸切絵図には外濠から京橋川に分流して、比丘尼橋、中之橋、京橋、三年橋、白魚橋(牛草橋)の5橋が架けられていた。

その5橋の間に薪炭問屋の並ぶ新河岸と白魚河岸、青物市場の大根河岸、竹河岸などが存在した。明治以後の京橋川には、城辺橋(外堀通り)、紺屋橋、京橋(中央通り)、炭谷橋、新京橋(昭和通り)、白魚橋の6橋が架けられていた。

「京橋川再生の会」は京橋三丁目町会などと協力して、2012年9月に中央区に道路愛称名設定申請書を申請し、12月に決定し、2013年2月に「京橋竹河岸通り(きょうばしたけかしとおり)」と「京橋大根河岸通り(きょうばしだいこんかし)」の銅版による標識が設置されている。

「京橋川再生の会」は旧京橋川の上にある高速道路を撤去し、京橋川を再生するのを目的に、2010年に設立された。京橋川再生の会では、1978年に高速道路八重洲線の開通により、京橋川のあった区間の交通量は少なく、現在1日あたり5200台、首都高速の幹線約5万台に対して、10分の1にすぎないため、「当区間は東京の交通体系に及ぼす影響は少ない」としている。