M84でドアノー、ブラッサイ、バトー、ノリら「ヒューマニズム」展

【銀座新聞ニュース=2017年4月14日】Art Gallery M84(中央区銀座4-11-3、ウインド銀座ビル5階、03-3248-8454)は4月17日から5月17日までロベール・ドアノーらによる写真展「ヒューマニズム作品」を開く。

アート・ギャラリー・エム・ハッシー(Art Gallery M84)で4月17日から5月17日まで開かれる「ヒューマニズム作品」に展示されるロベール・ドアノーの作品((C)Robert Doisneau/G.I.P.Tokyo)。

フランスの戦前戦後を代表する写真家、ロベール・ドアノー(Robert Doisneau、1912-1994)、ハンガリー出身でパリで活躍した写真家、ブラッサイ(Brassai、1899-1984)、フランスの写真家、エドゥアール・ブーバ(Edouard Boubat、1923-1999)、クロード・バトー(Claude Batho、1935-1981)らヒューマニズムあふれる作品に加えて、作家は不詳ながら同様な視点の作品、さらに1980、1990年代の恋人たちを撮影したクロード・ノリ(Claude Nori、1949年生まれ)さんらの作品を展示販売する。

フランス庶民の日常、女性や子ども、パリの風物、恋人たち、極めてヒューマンなまなざしで表現されており、作品はすべて伝統的なクオリテイを醸し出す銀塩印画紙で表現され、一部はビンテージプリントの暖かさにも触れることができるという。すべてゼラチンシルバープリントで、28点を展示する。また、これらの作家の写真集初版本なども展示する。

ウイキペディアなどによると、ロベール・ドアノーは1912年パリ郊外のジャンティイ生まれ、1926年から1929年にグラフィックアートを学び、写真家アンドレ・ヴィニョー(Andre Vignaux、1892-1968)の下で働き、1931年に写真家に転向し、1932年に初のルポタージュが「エクセルシオール誌」に掲載された。

1934年から1939年までルノーに勤務、工場内の記録写真を担当したが、プリントの出来栄えにこだわるあまり遅刻が重なり、解雇され、1939年よりフリーとして活動、その後、フランス軍に入るも、1940年に結核により除隊、第2次大戦中は自由フランスのレジスタンスに参加、1945年から1947年にかけてフランス共産党に所属し、左翼系の芸術家たちと交流した。

同じくブラッサイの作品((C)Brassai/G.I.P.Tokyo)。

1947年にコダック賞、1949年に「ヴォーグ・フランス版」と契約、ファッション写真を手がけ、パリの町中を歩き回って撮影した。1956年にニエプス賞、1984年にレジオンドヌール勲章とのシュバリエ賞を受賞、1994年4月1日に81歳で死去した。1950年にパリの恋人たちのキスの場面を捉えた作品(「パリ市庁舎前のキス」は特に有名だが、後に「演出作品」だったことが判明している。この作品は写真壁画となって、東京都写真美術館の1階外壁に掲げられている。

ブラッサイは1899年トランシルヴァニア(当時オーストリア=ハンガリー帝国領、現在はルーマニア領)の町ブラッショー(現在のブラショフ)生まれ、父がハンガリー人、母がアルメニア人、3歳の時にソルボンヌ大学で文学を教える父親について1年間パリで暮らし、その後、ハンガリー・ブダペストで彫刻や美術を学び、オーストリア=ハンガリー帝国軍に参加し、第1次世界大戦(1914年から1918年)に従軍した。

1920年にドイツ・ベルリンに移り、アカデミーでファインアートを学びながら、ジャーナリストとして働き、パリを舞台にカメラマン、彫刻家、映画制作者として活動し、1924年にパリへ移り、以後パリを拠点として活動した。深夜のパリを歩き回り、色鮮やかでいかがわしいパリ、売春婦、ポン引き、売春宿の女将、快楽を追い求める夜のパリなどの写真は「夜のパリ(Paris de Nuit)」 という題名で1933年に出版された。

それ以後、1940年までフリーの写真家としてパリの妖しいアンダーグラウンド・シーンを撮影し続け、シュールリアリズム雑誌の「ミノトール」や各種グラフ誌などに発表し、ファッション誌「ハーパース・バザー」で撮影を担当していた。

戦後は雑誌に発表するほか、舞台や映画にも取り組み、晩年は著作に専念し、「ピカソとの対話」や「実物大のヘンリーミラー」などを著している。1978年にフランス写真大賞、1984年に近代化し変りゆくパリ市街を嘆きながらニースで死去した。

エドゥアール・ブーバは1923年パリ・モンマルトル生まれ、1937年に工芸学校エコール・エスティエンヌでグラビア製版を学び、1946年に写真を始め、後に写真エージェンシー「ラフォー(Rapho)」で働き、1947年に最初の写真「落ち葉の小さな女の子」を月刊誌のために撮影、1951年にラ・ヒューヌ画廊での4人展に、ブラッサイ、ドアノー、イズラエリス・ビデルマナス(Israelis Bidermanas、通称・イジス=Izis、1911-1980)とともに選ばれた。

同年、雑誌「レアルテ」のアートディレクターの目にとまり、「レアルテ」の仕事で世界各国を飛び回り、ルポルタージュ写真家としても確立した。1957年に世界写真作家シリーズ「海の抒情 Ode maritime」を出版、1968年にフリーの写真家となり、何気ない日常の人々を写真で表現し、日々を踏破したような、浮世離れした作品も多く、1971年にアルル国際写真フェスティバルの主賓(しゅひん)、1995年に新宿・小田急美術館で写真展、1999年に死去した。

クロード・バトーはピュイドドーム・シャマリエール生まれ、エコール・デザール・アプリケでドローイング、ペインティングを学び、国立アーカイブ(Archives Nationales)で写真家として働き、写真家のジョン・バトー(John Batho)と結婚、自宅をラボラトリー化して、バスルームでプリントを行い、ベッドルームでリタッチを行った。

テーマは一貫して「ライフスタイル」で、自宅から見える風景、光が射し込む窓辺、テーブルの上の静物、食物、キッチ ン・ツール、ウォール・ウィンドウ・インテリアの断片、自身の2人の娘たちを撮影し、1981年にがんにより46歳で逝去した。

クロード・ノリさんは1949年イタリアからの移民の子どもとしてトゥールーズ生まれ、両親は総菜屋を営業し、レストランも開いていた。1968年に19歳でクラスメートの影響で写真を撮るようになり、1974年にパリで新聞や著名な雑誌に写真が載り、自らが代表を務める写真集専門の出版社「コントルジュール」の編集者だった。

1980年代はじめにアメリカ人女性カメラマン、ドンナ・フェラート(Donna Ferrato、1947年生まれ)さんと恋に落ち、1年以上パリで同棲し、その後、ドンナ・フェラートさんがアメリカ・コロラドに帰国、その後、カップル、親子、友人など「ふたりのシーン」を多く撮影している。

開場時間は10時30分から18時30分(最終日は17時)。入場料は700円(税込)。日曜日が定休。