銀座の金沢で津田水引折型の加賀水引展、祝儀袋、髪飾りなど

【銀座新聞ニュース=2017年4月17日】石川県金沢市(石川県金沢市広坂1-1-1、076-220-2111)は4月19日から5月1日まで「dining gallery 銀座の金沢」(中央区銀座1-8-19、キラリトギンザ、03-6228-7733)で「加賀水引 春-加賀百万石の地で生まれた雅な水引細工の展示」を開く。

「ダイニング・ギャラリー(dining gallery)銀座の金沢」で4月19日から5月1日まで開かれる「加賀水引 春-加賀百万石の地で生まれた雅な水引細工の展示」に出品される「加賀水引」。

結納品やアクセサリーに使われる石川県金沢市の伝統工芸品「加賀水引(かがみずひき)」を製造販売する「津田水引折型(つだみずひきおりがた)」(石川県金沢市野町1-1-36、076-214-6363)が加賀水引細工を展示販売する。水引飾りのほか、祝儀袋や髪飾りやブローチ、コースターなど日常生活にも取り入れられる作品などを紹介する。

ウイキペディアによると、「水引」は祝儀や不祝儀の際に用いられる飾りで、贈答品の包み紙などにかける紅白や黒白などの飾り紐をいう。その形や色により使い分けられる。また、飾り紐としてだけでなく、鶴や船などの置物や髪飾りとしても使われる。

起源は定かではないが、室町時代の日明貿易において、明からの輸入品の箱すべてに赤と白の縄が縛り付けられており、この縄は明側が輸出用の品を他と区別するために使用していた。

しかし、日本側がこの縄を贈答に使用する習慣と誤解し、以後の日本で贈答品に赤と白の紐をかけるようになったという説や、航海の無事を祈ったり、海賊から守るための魔除けとして縄に塗った黒色毒が解くと赤色に変色したという説などがある。

また、宮廷への献上品には紅白の麻の紐で結ぶ習慣があり、室町時代後期になると麻の紐の代わりにこよりに糊水を引いて乾かして固め、紅白あるいは金銀に染め分けた紙糸が使用されるようになった。

水引は未開封であるという封印の意味や魔除けの意味、人と人を結び付けるという意味あいがあり、水引結びは引けば引くほど強く結ばれるものが多い。このため、日本の贈答方式である水引は、西洋のラッピングやリボンのように解くことを前提としたものとは意味合いが異なる。品物を包む和紙の折型や水引の結び方と表書きの書き方によって用途を使い分ける。

津田水引折型によると、1915(大正4)年ころに、金谷家の「金津屋」(金沢の武家相手の札差、藩政時代の米穀商と金融業を兼ねた倉庫業者)の長男だった津田左右吉(つだ・そうきち、1869-1943、1873年に制定された徴兵制では、男児1人の場合は徴兵が免除されたため、1889年ころまでに金谷左右吉は子どものいない金沢市十間町の津田左登=つだ・さと=の養嗣子として入籍し、津田姓となる)が明治後期から民間に広まり始めた小笠原流の水引折型を学び、結納業をはじめた。

しかし、用途別の複雑な決まり通りに折型をきっちりと端正に折り畳むのは、なかなか難しく、少しでも折り目が崩れたり、歪んだりすればすぐに品のないものになってしまうのが悩みだった。そこで、津田左右吉は笠原流の水引折型を研究するうちに、平たく折り畳んでしまわず、ふっくらとしたまま折り目を付けず、それを胴のあたりでぐっと水引で引き結ぶことで、技術的なアラが目立たず、楽にしかもボリュームのある華やかなフォルムをつくりあげた。

こうした立体的な折型には、立体的な水引の結び(水引細工)の創始を伴い、「加賀水引」が誕生した。後に津田左右吉は「流儀」を尋ねられると、「無茶苦茶流と申し候」と回答していたという。1917(大正6)年に橋場町にあった供田呉服店のウィンドウに津田左右吉の結納飾りが並べられ、友人の婚礼に「加賀水引」が使われ、1924(大正13)年11月9日に皇太子裕仁親王(ひろひとしんのう、後の昭和天皇)に内裏雛(だいりびな)と具足を献上した。

水引折型は主に贈答の場面で使われ、その基本は、和紙で「包む」、水引で「結ぶ」、差し上げる理由・気持ち・名前を「書く」という3つが基本となるが、加賀水引はこの包む、結ぶ、筆字を芸術の域にまで高めたとされている。

開場時間は11時から21時まで。