永谷商事、宝井琴柑と「谷根千」散歩、谷中銀座など

【銀座新聞ニュース=2017年4月22日】永谷商事(武蔵野市吉祥寺本町1-20-1、0422-21-1796)が運営する「お江戸日本橋亭」(中央区日本橋本町3-1-6、日本橋永谷ビル1階、03-3245-1278)は4月27日に宝井琴柑さんによる「講談師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」を開く。

お江戸日本橋亭で4月27日に開かれる「講談師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」で「つつじ咲く谷根千散歩」を案内する宝井琴柑さん。

「講談師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」は永谷商事が毎月2、3回程度定期的に開いている、講談師が名所旧跡などを解説しながら一緒に歩いて回り、その後、寄席で講談や落語などを鑑賞する企画だ。

今回は「つつじ咲く谷根千散歩」と題して、二ツ目の講談師、宝井琴柑(たからい・きんかん)さんの案内により、JR日暮里駅から「天王寺(てんのうじ、護国山尊重院天王寺)」(台東区谷中7-14-8)、「谷中霊園」(台東区谷中7-5-24)と歩き、「下町風俗資料館付設展示場(旧吉田商店)」(台東区上野桜木2-10-6)、「谷中銀座」(台東区谷中3-13-1)、「根津神社」(文京区根津1-28-9)とまわって、その後、お江戸日本橋亭に移動して、「お江戸寄席」を観賞する。

天王寺は日蓮(にちれん、1222-1282)が鎌倉と安房(現在の千葉県)を往復する際に関小次郎長耀(せき・こじろう・ちょうよう)の屋敷に宿泊したことに由来し、関小次郎長耀が日蓮に帰依して、草庵を結び、日蓮の弟子・日源(にちげん、生年不詳-1315)が法華曼荼羅を勧請して開山し、「長耀山感応寺尊重院(ちょうようさんかんのうじそんちょういん)」と称した日蓮宗の寺だった。

1452(享徳1)年に日耀(にちよう)が中興し、1621(元和7)年に日長(にっちょう)が駿府(静岡市)から転住し、1641年に徳川家光(とくがわ・いえみつ、1623-1651)から2万9690坪の土地を拝領し、英勝院(えいしょういん、1578-1642)、春日局(かすがの・つぼね、1579-1643)の外護を受け、将軍家の祈祷所とされ、1644(正保=しょうほう=1)年に五重塔が創建された(1772年に明和の大火により焼失)。

正保から慶安(1644年から1652年)のころ、日誠(にっせい)が「不受不施(ふじゅふせ)」を唱え、ついで日遼(にちりょう)が悲田(ひでん)派の説を唱え、1698(元禄11)年に幕府が悲田派を禁じ、日遼を八丈島に流して天台宗に改めさせ、徳川家霊牌(れいはい)の非常立退所と定め、寺内12坊を置いた。廃寺になるのを惜しんだ輪王寺宮公弁法親王(こうべんほっしんのう、1669-1716)が寺の存続を望み、慶運大僧正を天台宗1世として迎え、毘沙門天像を本尊とした。

1700(元禄13)年に徳川幕府公認の富くじが興行され、目黒不動、湯島天神と共に「江戸の三富」として賑わい、1728(享保13)年に幕府により富くじ禁止令がだされるも、興行が許可され続け、1842(天保13)年に禁令が出されるまで続けられた。1833(天保4)年に「天王寺」と改称させた。

1868(慶応4)年に彰義隊の兵火により、本坊、五重塔以外を焼失した。1874(明治7)年に寺域の一部を東京府に移管し、「谷中霊園」となった。1884年(明治17)年に五重塔を修理し、1908(明治41)年に五重塔を東京市に寄贈したが、1957年に谷中五重塔放火心中事件により、五重塔を焼失した(その後、東京都が史跡に指定)。1961年に毘沙門堂が落成し、1979年に天台宗特別寺の寺格とされた。

「谷中霊園」は1874年に明治政府が天王寺の寺域の一部を没収し、東京府管轄の公共墓地として谷中墓地を開設し、1935年に谷中霊園と改称された。「谷中墓地」と称される区域には、都立谷中霊園の他に、天王寺墓地と寛永寺墓地も含まれ、徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ、1837-1913)ら徳川氏の墓は寛永寺墓地に属する。

面積は約10万平方メートル、およそ7000基の墓があり、徳川慶喜や鳩山一郎(はとやま・いちろう、1883-1959)、横山大観(よこやま・たいかん、1868-1958)、渋沢栄一(しぶさわ・ えいいち、1840-1931)らの墓がある。

谷中霊園は桜の名所としても知られ、中央園路は通称「さくら通り」とよばれ園路を覆う桜の枝に花が咲くと、桜のトンネルのようになる。現在、公園型霊園として再整備するため、敷地の確保を目的として、使用料の払われていないカ所の無縁仏への改葬や大木など木々の伐採が進められている。

下町風俗資料館付設展示場は谷中6丁目で江戸時代から1986年まで代々酒屋を営んでいた「吉田屋酒店」の建物を現在地に移築したもので、1910年に建てられ、腕木より軒桁が張り出している出桁(だしげた)造で、正面入口には板戸と格子戸の上げ下げで開閉する揚戸(あげと)が設けられている。

屋内には、秤、漏斗(じょうご)、枡、樽、徳利、宣伝用ポスターや看板など酒類の販売に用いる道具や商いに関する資料が展示されている。

谷中銀座はJR日暮里駅(荒川区西日暮里2-19-1)と東京メトロ千駄木駅(文京区千駄木2-32-5)の間にある地域を指し、「谷中銀座商店街振興組合」(台東区谷中3-13-1)によると、「夕やけだんだん」とよばれる夕日の名所から下ると、全長170メートルの商店街に約70店が並んでいる。

谷中銀座商店街は昭和20年頃に自然発生的に生まれ、近隣型の商店街として発展してきたが、1968年の千代田線千駄木駅開通による通行量の激変があり、1977年には近隣への大型スーパーの進出、1985年代のコンビニの開店により、商店街に危機が訪れたという。

しかし、2016年の調査では2月26日の訪問者が9258人、2月27日が1万4183人が訪れ、1991年の調査時は平日、休日とも8000人だったので、増えていることがわかる。

根津神社は日本武尊(やまと・たける)が1900年近く前に創祀したと伝えられる古社で、東京10社の1社に数えられている。文明年間(1469年から1486年)に太田道灌(おおた・どうかん、1432-1486)により社殿が造られ、万治年間(1658年から1661年)に同所が太田氏の屋敷地となり、東方に移り、さらに団子坂上(現文京区立本郷図書館周辺、元根津)に遷座した。

現在の社殿は1706(宝永3)年の創建で、1705(宝永2)年に第5代将軍徳川綱吉(とくがわ・つなよし、1646-1709)の養嗣子に、兄で徳川家光の3男の徳川綱重(とくがわ・つなしげ、1644-1678)の子、徳川家宣(とくがわ・いえのぶ、1662-1712、旧名は綱豊=つなとよ)を定め、江戸城に移ると、元の屋敷地が献納され、「天下普請」といわれる大工事で社殿が造営された。権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされ、社殿7棟が国の重要文化財に指定されている。

境内はつつじの名所として知られ、森鴎外(もり・おうがい、1862-1922)や夏目漱石(なつめ・そうせき、1867-1916)といった日本を代表する文豪が近辺に住居を構えていたこともあり、これらの文豪に因んだ旧跡も残されている。

「根津権現」の称は明治初期の神仏分離の際に「権現」の称が一時期禁止されたために衰退したが、地元では現在も使われることがある。単に「権現さま」とも称される。文学作品では「根津権現」と出てくることが多い。東京大学の移転にともない、門前に形成されていた根津遊郭は廃され、江東区の州崎遊郭へと移転した。

宝井琴柑さんは神奈川県横浜市生まれ、山形大学人文学部を卒業、2006年4月に宝井琴星(たからい・きんせい)さんに入門、講談協会前座見習い、6月に前座となり、2010年6月に二ツ目に昇進した。

時間は10時から16時で、10時にJR日暮里駅北口改札口に集合し、昼前にはお江戸日本橋亭に移り、13時30分からお江戸日本橋亭で宝井琴柑さんも出演する「お江戸寄席」を観賞する。料金は弁当、飲み物、寄席代を含めて3000円で、交通費などがかかる場合は自己負担となる。申し込みは永谷商事まで。

13時30分からお江戸寄席は前座の昔昔亭全太郎(せきせきてい・ぜんたろう)さん、二つ目の昔昔亭喜太郎(せきせきてい・きたろう)さん、宝井琴柑さん、真打の橘家竹蔵(たちばなや・たけぞう)さん、粋曲バラエティの悠玄亭玉八(ゆうげんてい・たまはち)さん、真打の土橋亭里う馬(どきょうてい・りゅうば)さんが出演する。