丸善日本橋でバルビゾン、印象、パリ派等版画展、ミレー、ピカソら

【銀座新聞ニュース=2017年6月6日】丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は6月7日から13日まで3階ギャラリー特設会場で「ミレーからピカソまで-バルビゾン派とフランス近代版画展」を開く。

丸善・日本橋店で6月7日から13日まで開かれる「ミレーからピカソまで-バルビゾン派とフランス近代版画展」に出品されるミレーの「耕す人」。

19世紀フランスの画家で、「バルビゾン派(Ecole de Barbizon)」と呼ばれたジャン=フランソワ・ミレー(Jean-Francois Millet、1814-1875)は名も無き農民たちが、ひたすら働く姿を描き、自然と人間の尊厳を表現し、そのあとに続く印象派の画家にも大きな影響を与えた。

今回はミレー、コロー(Jean-Baptiste Camille Corot、1796-1875)らのバルビゾン派の画家とルノアール(Pierre-Auguste Renoir、1841-1919)、セザンヌ(Paul Cezanne、1839-1906)らの「印象派(Impressionism)」の画家、そのあとを継いだシャガール(Marc Chagall、1887-1985)、スペインの画家、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso、1881-1973)ら「エコール・ド・パリ(Ecole de Paris)」の画家の作品を展示販売する。

ウイキペディアなどによると、「バルビゾン派」は1830年から1870年頃にかけて、フランスで発生した絵画の一派で、フランスのバルビゾン村やその周辺に画家が滞在や居住し、自然主義的な風景画や農民画を写実的に描き、「1830年派」とも呼ばれた。

ミレー、コロー、テオドール・ルソー(Theodore Rousseau、1812-1867)ら7人が中心的存在で、「バルビゾンの七星」と呼ばれている。広義にはバルビゾンを訪れたことのあるあらゆる画家を含めてそのように呼ぶこともあり、総勢100人以上に及ぶ。

「印象派」は19世紀後半のフランスに発した絵画を中心とした芸術運動で、当時のパリで活動していた画家たちのグループが起源とされている。フランスの保守的な美術界からの激しい批判にさらされながらも、独立した展覧会を連続して開くことで、1870年代から1880年代には突出した存在になった。この運動の名前はクロード・モネ(Oscar-Claude Monet、1840–1926)の「印象・日の出」に由来する。

この絵がパリの風刺新聞「ル・シャリヴァリ(Le Charivari)」で、批評家ルイ・ルロワ(Louis Leroy、1812-1885)の槍玉に挙げられ、その結果「印象派」という新語が生まれた。印象派の絵画の特徴としては、小さく薄い場合であっても目に見える筆のストローク、戸外制作、空間と時間による光の質の変化の正確な描写、描く対象の日常性、人間の知覚や体験に欠かせない要素としての動きの包摂、斬新な描画アングル、などがあげられる。

「エコール・ド・パリ(パリ派)」は20世紀前半、各地からパリのモンマルトルやモンパルナスに集まり、ボヘミアン的な生活をしていた画家たちをさす。厳密な定義ではないが、1920年代を中心にパリで活動し、出身国も画風もさまざまな画家たちを総称した表現で、1928年にパリのある画廊で開かれた「エコール・ド・パリ展」が語源といわれている。

印象派のようにグループ展を開いたり、キュビスムのようにある芸術理論を掲げて制作したわけではなく、「パリ派」とはいっても、一般に言う「流派」や「画派」ではない。狭義のエコール・ド・パリは、パリのセーヌ川左岸のモンパルナス(詩人の山)につくられた共同アトリエ「ラ・リューシュ(蜂の巣)」に集った画家たちをさす。

一方、セーヌ河右岸のモンマルトルには、ピカソが住んでいた「バトー・ラヴォワール(洗濯船)」があり、キュビスムの画家が多かった。狭義のエコール・ド・パリはキュビスムなどの理論に収まらない画家のことで、広義のエコール・ド・パリは、キュビストも含めてこの時代のパリで活躍した外国人画家(異邦人的なフランス人画家も含む)すべてをさす。

国籍は違えども、ユダヤ系の画家が多く、「エコール・ド・ジュイフ(ユダヤ人派)」と呼ばれることもある。

ミレーは1814年10月4日ノルマンディー地方マンシュのグリュシー生まれ、8人兄弟の長男で、父親が農民であり、村の教会の合唱指揮者であった。18歳まで父親の農作業を手伝い、19歳でグリュシーから10数キロ離れたシェルブールの街で絵の修業をはじめ、1837年にパリへ出て、パリの国立美術学校のアトリエに入門し、当時のアカデミスムの巨匠であったポール・ドラローシュ(Paul Delaroche、1797-1856)に師事し、デッサンや模写、聖書や神話など画題となる古典文学を学ぶ。1839年に美術学校を中退するが、在学中はルーブル美術館に行き、昔の絵画を見て学んだ。

1840年、26歳の時、肖像画がサロン(官展)に初入選するも、奨学金が停止されていたため生活は貧しく、肖像画や裸体画を描き、この頃の画風は「マニエル・フルーリ(華やかな手法)」と評され、繊細で柔らかなタッチと明るい色彩が特徴で、神話画などを手がけている。1841年にシェルブールで仕立屋の娘と結婚し、パリに住むも、妻は1844年に肺結核により病死した。

1846年に同棲中だった小間使いの女性との間に第1子が誕生(1853年に正式に結婚)すると、1848年に無監査で開催されたサロンに出品した「小麦をふるう人」を政府が買いあげた。しかし、当時は「裸体画ばかり描く画家」といわれ、農民の中に生活しながら絵画を描こうと決心し、1849年にパリにおけるコレラの流行を避けて、バルビゾンへ移住し、以後同地で制作を続けた。

この頃には政府からの依頼もあり、経済的にも安定し、農民画に専念し、1850年に「種まく人」をサロンへ出品した。代表作の「晩鐘」や「落穂拾い」などは、バルビゾン移住後に描かれた。また、19世紀に広まった月暦画以来の伝統を持つ「四季」の主題の連作にも取り組んだ。

1867年のパリ万国博覧会で注目され、晩年には印象派に近いパステルや水彩画も制作した。その後、アメリカで作品が評価され、46歳でようやく貧困から抜け出せ、1875年にバルビゾンで亡くなった。

ミレーは、画面のサイズから構図までほとんど同じの「種まく人」を2枚描き、1枚はボストン美術館、もう1枚は山梨県甲府市の山梨県立美術館に所蔵されている。今日までに複数回、2枚並べて展示公開されている。また、1933年に「種まく人」は岩波書店のシンボルマークとして採用された。

ピカソは1881年10月25日スペイン南部アンダルシア地方のマラガ市生まれ、1895年にバルセロナに移り、美術学校に入学、入学制作を1日で完成させ、1897年にマドリードの国展で佳作、マラガの地方展で金賞、同年秋にマドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学するも、中退し、プラド美術館に通い、名画を模写し、1899年にバルセロナで店のメニューをデザインしたり、アールヌーボー調のポスターを描いた。

1901年に雑誌「若い芸術」の編集に携わり、「青の時代」(1901年から1904年)の始まりとされ、1902年にパリに住み、1904年に「洗濯船」と名付けられたモンマルトルの建物に住み、「ばら色の時代」(1904年から1907年)のはじまり、1907年から1908年まで「アフリカ彫刻の時代」とされた。

1912年にモンパルナスへ移り、1918年にロシアの将軍の娘で、貴族の血を引く、バレエダンサーのオルガ・コクローヴァ(Olga Khokhlova、1891-1955)と結婚、パリに移り、1918年から1925年まで「新古典主義の時代」に入り、1926年に「シュルレアリスムの時代」、1928年から彫刻に専心し、1930年にカーネギー賞を受賞した。

1932年にマリ・テレーズ・ヴァルテル(Marie-Therese Walter、1909-1977)と共同生活をはじめ、1936年に人民戦線政府の依頼によりプラド美術館長に就任、1937年に「ゲルニカの時代」とされ、1944年にパリ解放後最初のサロン・ドートンヌに80点の作品を特別展示、1946年にフランソワーズ・ジロー(Francoise Gilot、1921年生まれ)さんと共同生活、1954年にジャクリーヌ・ロック(Jacqueline Roque、1927-1986)と共同生活(後に結婚)した。

1968年に版画に専心、6カ月間で347点を制作、1970年にアヴィニョン法王庁で140点の新作油絵展、バルセロナにピカソ美術館を開館、1973年4月8日頃、南仏ニース近くにあるムージャンの自宅で肺水腫により死去した。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は17時)まで、入場は無料。