国際フォーラムで早慶戦など大正期のスポーツ上映、松浪稔解説

【銀座新聞ニュース=2017年6月22日】東京国際フォーラム(千代田区丸の内3-5-1、03-5221-9000)は7月3日にホールD1で「月曜シネサロン&トーク-日本のスポーツ文化史-大正から戦後まで」を開く。

東京国際フォーラムが7月3日に開く「月曜シネサロン&トーク-日本のスポーツ文化史-大正から戦後まで」で上映される「復活せる 早慶野球試合 大正14年10月19日」。

今年から東京国立近代美術館フィルムセンターと協力して、およそ2カ月ごとの月曜日に東京国際フォーラムで開く映画サロンで、今回は「日本のスポーツ文化史」について、7月3日、9月25日、12月4日、2018年3月5日の4回にわたって開く。監修、解説は東海大学体育学部スポーツ・レジャー・マネジメント学科教授の松浪稔(まつなみ・みのる)さんが務める。

第1回目の7月3日は「大正期のスポーツ文化」で、多くの体操指導者を養成した陸軍戸山学校(1873年から1945年)で教本的に撮影、使用された映像「運動の実際 大正11年7月陸軍戸山学校」(17分、サイレント、1922年、制作不明)、文部省が制作、頒布した体育教材的映画で、陸上競技、隅田河畔での漕艇(ボート)、テニス、戸塚球場での野球、水泳などが収められ、1924年のパリ・オリンピック大会で活躍した選手など日本を代表する運動家が勢ぞろいしている「運動競技分解」(31分、サイレント、1924年、文部省)。

同じく上映される「運動競技分解」。

6大学リーグ戦がはじまった1925年、1906年から中断していた早慶戦も復活し、早稲田グラウンドでの試合の様子や選手の動きをハイスピード撮影で収めた「復活せる 早慶野球試合 大正14年10月19日」(15分、サイレント、1925年、文部省)の3本を上映する。

ウイキペディアによると、陸軍戸山学校は1873(明治6)年6月に旧尾張藩下屋敷跡に陸軍兵学寮戸山出張所が設置され、上下士官の訓練事務をはじめ、1874年2月に陸軍戸山学校と改称し、射撃、銃剣術、体操、攻守戦法、操練、諸勤務、喇叭(らっぱ)を教授した。

1887(明治20)年10月に監軍部所属となり、1888年に馬場先門外の第一軍楽隊を隷下とし、同隊の後身である軍楽基本隊は陸軍教導団から1891年に戸山学校内へ移転、のちの陸軍戸山学校軍楽隊となった。1912(大正元)年9月1日、戦術科、射撃科、教導大隊を分離し、陸軍歩兵学校を設け、戸山学校は体操科(剣術)、軍楽生徒隊を統括し、1939(昭和14)年から射撃術の教育研究を担当した。

同じく上映される「運動の実際 大正11年7月陸軍戸山学校」。

各兵科の中尉、少尉、下士官を対象とする甲種学生には、体操、剣術、銃剣術などを訓練し、それ以外の乙種学生は各隊の喇叭長が対象で、喇叭譜の訓練を実施し、軍楽生徒は、軍楽部を志す者から選抜し教育した。

この学校で、陸軍の射撃、銃剣術、短剣術、軍刀術(両手軍刀術・片手軍刀術)などの歩兵戦技が制定され、当初はフランス陸軍から教官を招へいし、フェンシングとフランス式銃剣術を訓練したが、後に日本式の軍刀術と銃剣術に改めた。戦後は銃剣術、短剣術が競技武道の銃剣道、短剣道となり、陸上自衛隊でも訓練されている。この他、軍刀操法も研究されていたが、これは居合道流派の戸山流となって、現在は民間団体で稽古されている。

1924年の第8回パリ・オリンピック大会は5月4日から7月27日まで行われ、陸上競技、競泳(飛込、水球含む)、サッカー、テニス、ボート、ボクシング、体操、レスリング、セーリング、重量挙げ、自転車、馬術、フェンシング、射撃、近代五種競技、カヌーといった19競技126種目に、44カ国地域から3089人が参加した。

日本は1912年の第5回スウェーデン・ストックホルム大会から参加し、1920年のベルギー・アントワープ大会でテニスで初めて銀メダルを獲得し、1924年のパリ大会では選手は19人(ほかに役員が9人)で、レスリング・フリースタイル・フェザー級の内藤克俊(ないとう・かつとし、1895-1969)が銅メダルを獲得するにとどまった。

6大学リーグ戦は1903年に早稲田大学からの挑戦状に慶応義塾が応じ、初めての早慶戦が実施されたが、1906年に応援団同士の加熱問題を理由に早慶戦が中止され、1907年に横浜外人アマチュア倶楽部の主唱で、横浜商業、学習院、早稲田大学の4チームで、「京浜野球リーグ」が結成された。1914年に明治大学が早慶戦中止中の両校の間をとりもって3大学野球リーグが結成された(ただし、早慶戦は1925年の六大学連盟成立まで実現せず)。

1917年に法政大学が3大学野球リーグに加盟、1921年に立教大学が4大学野球リーグに加盟、1925年に東京帝国大学が5大学野球リーグに加盟し、6大学野球開始に伴い、明治大学が中心となり早慶戦の再開を固辞し続けていた早慶を説得し、早稲田、次いで慶応が説得に折れて早慶戦の再開に応じ、「東京六大学野球連盟」が正式に発足した。

1926年10月に神宮球場が東京六大学野球連盟の協力の下で完成、落成の奉献式に摂政宮(昭和天皇)が出席し、優勝校に摂政杯が授与され、1929年に日本大学と国学院大学がリーグへの参加を希望したが、6大学各校と各1試合の対抗戦を行った結果、実力不足と判断され、加盟は見送られる一方で、11月1日の早慶戦に昭和天皇が行幸し、最初の天覧試合として行われた。

1932年5月10日に早稲田がリーグを脱退したが、秋のリーグ戦から復帰した。1943年4月7日に文部省によるリーグ解散令が出され、10月16日に出陣学徒壮行早慶戦が行われた。戦後の1945年10月28日に六大学OB戦、11月18日に神宮球場で全早慶戦が行われ、1946年の春季からリーグ戦が復活した。

松浪稔さんは1968年大阪府泉佐野市生まれ、1991年に早稲田大学人間科学部人間基礎科学科を卒業、1993年に日本大学大学院文学研究科教育学専攻を修了、同大学大学院文学研究科研究生を経て、1995年から1999年まで青年海外協力隊に参加し、1995年から1997年までフィリピン国立レイテ師範大学(Leyte Normal University)で体育学講師を務めた。

帰国後、2000年に日本体育大学大学院体育科学研究科体育科学専攻(スポーツ文化・社会科学系)を単位取得満期退学、日本体育大学大学院研究員、2003年から2008年まで福岡女子大学文学部専任講師、助教授、准教授を経て、2008年に東海大学准教授、その後同大学教授。

時間は15時と19時の2回で、入場料は500円。定員は100人で先着順。希望者は氏名、希望する時間(昼か夜)、人数を書いてメール(cine-salon@t-i-forum.co.jp)もしくは往復はがきで、東京国際フォーラム事業推進部「シネサロン担当」あてまで申し込む。締め切りは、はがきが27日必着、メールが30日。空席がある場合は、当日券を販売する。