丸善丸の内で須田剋太と池田満寿夫展

【銀座新聞ニュース=2017年7月9日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・丸の内本店(千代田区丸の内1-6-4、丸の内オアゾ内、03-5288-8881)は7月12日から18日まで4階ギャラリーで「異色の画家たち-須田剋太・池田満寿夫 二人展」を開く。

丸善・丸の内本店で7月12日から18日まで開かれる「異色の画家たち-須田剋太・池田満寿夫 二人展」に出品される須田剋太の「東大寺椿」。

洋画家で司馬遼太郎(しば・りょうたろう、1923-1996)の紀行文集「街道をゆく」(1971年から1996年まで「週刊朝日」にて連載し、急逝により未完)のさし絵を担当したことで知られる須田剋太(すだ・こくた、1906-1990)とベネチアビエンナーレ展で大賞を受賞し、小説で芥川賞も受賞し、映画監督も努めた画家、版画家の池田満寿夫(いけだ・ますお、1934-1997)の多彩な顔を持つ2人の作品展を開く。

紀行文集「街道をゆく」は題字を棟方志功(むなかた・しこう、1903-1975)が手がけ、さし絵は1971年1月から1990年2月まで須田剋太、1990年9月から1991年7月まで画家の桑野博利(くわの・ひろとし、1913-2008)、1991年8月から1996年3月まが安野光雅(あんの・みつまさ)さんが担当した。

ウイキペディアなどによると、須田剋太は1906年埼玉県北足立郡吹上町(現鴻巣市)生まれ、1927年に埼玉県立熊谷中学校(旧制、現埼玉県立熊谷高校)を卒業、東京美術学校(現東京藝術大学)を4度受験するも失敗し、独学で絵を学び、1936年に文展で初入選し、1939年に文展で「読書する男」が特選に選ばれ、1949年に国画会に入り、抽象画を描き、1955年に第3回日本抽象美術展に出品し、1957年に第4回サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展に出品した。

1960年に第1回個展を開き、1961年に現代日本絵画展、カーネギー国際現代絵画彫刻展(アメリカ)に出品し、1962年に西宮市民文化賞、1971年に司馬遼太郎の「街道をゆく」のさし絵をはじめ、1975年に郷里の吹上町文化賞、1983年に「街道をゆく」のさし絵で第14回講談社出版文化賞、1989年に埼玉県立近代美術館にすべての抽象の油彩画、グワッシュの合計293点を寄贈、1990年に油彩画45点、グワッシュ320点、さし絵1858点の計2223点を大阪府に寄贈、7月14日17時28分に死去。享年84歳。

池田満寿夫は1934年2月23日に旧満洲国奉天(現遼寧省瀋陽)生まれ、1945年8月に万里の長城の張家口で終戦を迎え、12月に母の郷里長野市に帰国、1951年に第1回全日本学生油絵コンクール(毎日新聞社主催)でアトリエ賞、東京藝術大学を3度受験するも不合格、1955年に11歳年長の下宿の娘・大島麗子(おおしま・れいこ)と結婚した(その後、離婚せず)。

1957年に第1回東京国際版画ビエンナーレ展公募部門で入選、1960年に詩人の富岡多恵子(とみおか・たえこ、1935年生まれ)さんと同棲し(約8年間)、第2回東京国際版画ビエンナーレ展招待出品で文部大臣賞(1962年に第3回で東京都知事賞、1964年に第4回で国立近代美術館賞)、1961年に岩波書店「世界」にカットが採用され、以後、岩波書店「図書」、「朝日ジャーナル」をはじめ新聞各紙にカットが掲載され、第2回パリ青年ビエンナーレ展で版画部門優秀賞を受賞した。

1965年に第6回リュブリアナ国際版画ビエンナーレ展で入賞(1969年も)、1966年に中国系アメリカ人画家リラン・ジーさんと出会い、その後、ロサンゼルスで同棲を始め(1968年から1979年まで)、第1回クラクフ国際版画ビエンナーレ展で入賞(1970年も)、第33回ベネチア・ビエンナーレ展版画部門で国際大賞、1967年に芸術選奨文部大臣賞、ドイツへ留学、ヨーロッパ各地の工房で版画を制作、1970年に第17回アメリカ国内版画展(ブルックリン美術館)で入賞した。

1977年に「エーゲ海に捧ぐ」で芥川賞を受賞、1979年に映画「エーゲ海に捧ぐ」で初監督、イタリアロケでバイオリン奏者の佐藤陽子(さとう・ようこ)さんと出会い、恋愛関係に発展し(佐藤陽子さんは1973年から1979年まで外務省の岡本行夫=おかもと・ゆきお=さんと結婚)、1981年に映画「窓からローマが見える」を監督し、1982年に東京から熱海市海光町へ転居、1983年に静岡県下伊豆町の岩殿寺窯で初めて作陶、テレビドラマ「大奥」の演出を担当した。

1986年に国立国会図書館新館ロビーに大型タピスリー・コラージュ「天の岩戸」を設置、埼玉県狭山市新庁舎に陶壁を設置、熱海市下多賀にガス窯と電気窯を備え、版画用プレス機も設置した「満陽工房」を開設した。1987年にテレビドラマ「必殺仕事人ワイド 大老殺し 下田港の殺し技珍プレー好プレー」に出演、1989年に相模鉄道6000系「アートギャラリー号」のデザインを手がけ、1993年に増穂登り窯の敷地内に自ら考案した薪窯「満寿夫八方窯」を築窯、1997年に最後の陶作品「土の迷宮」シリーズを焼成し、3月8日に急性心不全により死去、享年63歳。

開場時間は9時から21時(最終日は17時)、入場は無料。