丸善丸の内で竹久夢二・米倉斉加年展

【銀座新聞ニュース=2017年7月11日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・丸の内本店(千代田区丸の内1-6-4、丸の内オアゾ内、03-5288-8881)は7月12日から18日まで4階ギャラリーで「抒情画の系譜-竹久夢二・米倉斉加年 二人展」を開く。

丸善・丸の内本店で7月12日から18日まで開かれる「抒情画の系譜-竹久夢二・米倉斉加年 二人展」に展示される竹久夢二の「黒船屋」。

大正ロマンを代表する抒情画家として一世を風靡(ふうび)した竹久夢二(たけひさ・ゆめじ、1884-1934)と、竹久夢二をこよなく愛し、自らも「絵師」として活躍し、1976年と1977年にボローニャ国際児童図書展でグラフィック大賞を受賞した俳優で演出家、絵本作家の米倉斉加年(よねくら・まさかね、1934-2014)を展示販売する。

ウイキペディアによると、竹久夢二は1884年9月16日岡山県邑久郡本庄村(現瀬戸内市邑久町本庄)生まれ、1899年に兵庫県神戸尋常中学校(後神戸一中、現兵庫県立神戸高校)に入学するも12月には家の都合で中退し、1900年に父親が八幡製鉄所に入社することになり、福岡県八幡村(現北九州市八幡東区)に転居し、1901年に単身上京し、1902年に早稲田実業学校専攻科に入学し、在学中にスケッチを「読売新聞」などに投稿した。

1905年に早稲田実業学校専攻科を中退、平民社発行の「直言」や「光」、日刊「平民新聞」などに諷刺画などの絵を掲載し、「中学世界」に第一賞入選した。1907年に岸(きし)たまき(1882-1945)と結婚し、読売新聞社に入社、時事スケッチを担当した。1908年に長男・虹之助が誕生し、1909年にたまきと離婚した。1910年にたまきと再び同棲し、2児をもうけた。1911年にたまきと別居し、1914年に日本橋呉服町に「港屋絵草紙店」を開店し、来店した笠井彦乃(かさい・ひこの、1896-1920)と出会う。

1915年に婦人之友社より雑誌「子供之友」や「新少女」を創刊、絵画主任としてさし絵を描く。1917年に笠井彦乃と同棲し、詩集「宵待草」に宮内省雅楽部のバイオリン奏者の多忠亮(おおの・ただすけ、1895-1929)が曲をつけ、芸術座音楽会にて発表、1918年に「宵待草」がセノオ楽譜から発刊され、全国的なヒットとなる。1919年に寄宿先の本郷・菊富士ホテルにてモデルのお葉(佐々木カ子ヨ、1904-1980)を紹介され、1921年にお葉と所帯を持ち、1925年に作家の山田順子(やまだ・ゆきこ、1901-1961)と恋愛関係になり、お葉が去り、4カ月後に順子とも別れる。

1931年5月7日にホノルルを経由してアメリカにわたり、1932年9月にヨーロッパにわたり、約1年、滞欧した。1933年9月18日に神戸に帰国、10月26日、台湾を訪れ講演し、11月11日に帰国、結核を患って病床につき、1934年9月1日に死去。享年49歳。東京雑司ヶ谷霊園に埋葬された。

米倉斉加年は1934年7月10日福岡県福岡市生まれ、西南学院大学文学部英文科を中退、在学中に演劇に目覚め、1957年に劇団民芸に入団、俳優、演出家として活躍し、2000年に退団した。第1回、第23回紀伊国屋演劇賞、第11回「新劇」演技賞を受賞している。

映画「男はつらいよ」シリーズなどに出演し、NHKの大河ドラマなどにも出演した。また、ボローニャ国際児童図書展で1976年に「魔法おしえます」、1977年に「多毛留」で、2年連続グラフィック大賞を受賞している。2014年8月26日に知り合いの結婚式に出席するため、出身地である福岡市に滞在中に宿泊先のホテルで腹痛を訴えた後に倒れて救急車で搬送され、同日21時33分、腹部大動脈瘤破裂のため、搬送先の同市内の病院で死亡した。

開場時間は9時から21時(最終日は16時)まで。入場は無料。15日は休み。