永谷商事が一龍斎貞寿と歩く四谷怪談、首切り浅右衛門の墓も

【銀座新聞ニュース=2017年7月19日】不動産会社の永谷商事(武蔵野市吉祥寺本町1-20-1、0422-21-1796)が運営する「お江戸日本橋亭」(中央区日本橋本町3-1-6、日本橋永谷ビル1階、03-3245-1278)は7月27日に一龍斎貞寿さんによる「講談師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」を開く。

7月27日に開かれる「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」で「四谷怪談とお岩稲荷」を案内する一龍斎貞寿さん。

「講談師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」は永谷商事が毎月2、3回程度定期的に開いている、講談師が名所旧跡などを解説しながら一緒に歩いて回る企画だ。

今回は「四谷怪談とお岩稲荷」と題して、二つ目の講談師、一龍斎貞寿(いちりゅうさい・ていじゅ)さんと一緒にJR四ツ谷駅から「法輪山・勝興寺(首切り浅右衛門の墓)」(新宿区須賀町8-7、03-3351-4604)、「四谷於岩稲荷田宮神社」(新宿区左門町17)と回って、昼前にお江戸日本橋亭に移動して、午後から「お江戸寄席」を鑑賞する。

四谷怪談は元禄時代(1688年から1704年)に起きたとされる事件を基に創作された怪談で、江戸の雑司ヶ谷四谷町(現・豊島区雑司が谷)が舞台となっている。基本的な物語は「貞女の岩が夫の伊右衛門に惨殺され、幽霊となって復讐を果たす」というもので、4代目鶴屋南北(つるや・なんぼく、1755-1829)の歌舞伎や初代三遊亭円朝(さんゆうてい・えんちょう、1839-1900)の落語が知られている。

町年寄の孫右衛門(まごうえもん)と茂八郎(もはちろう)という人物が文政10(1827)年に幕府に提出した、調査報告書「文政町方書上」という中の「四谷町方書上」編の付録の「於岩稲荷由来書上」によると、貞享年間(1684年から1688年)に、四谷左門町に田宮伊右衛門(たみや・いうえもん、当時31歳)と妻のお岩(おいわ、当時21歳)が住んでいて、伊右衛門は婿養子の身でありながら、上役の娘と重婚して子を儲けてしまう。

そのことを知ったお岩は発狂した後に失踪し、その後、お岩の祟(たた)りによって伊右衛門の関係者が次々と死に、最終的には18人が非業の最期を遂げた。田宮家の滅亡後、元禄年間に田宮家跡地に市川直右衛門(いちかわ・なおうえもん)という人物が越し、その後、正徳5(1715)年に山浦甚平(やまうら・じんぺい)なる人物が越してきたところ、奇怪な事件がおきたので、自らの菩提寺である妙行寺に稲荷を勧進して追善仏事を行ったところ怪異がやんだというのが、大筋である。

「四谷雑談集」(1727年)の奥付に、元禄時代に起きた事件として記され、鶴屋南北の「東海道四谷怪談」の原典とされている。「東海道四谷怪談」は、全5幕で、1825(文政8)年に江戸中村座で初演された。鶴屋南北の代表的な生世話狂言であり、怪談狂言(夏狂言)。「仮名手本忠臣蔵」の世界を用いた外伝という体裁で書かれ、お岩伝説に、不倫の男女が戸板に釘付けされ神田川に流されたという当時の話題や、砂村隠亡堀に心中者の死体が流れ着いたという話などが取り入れられた。

岩が毒薬のために顔半分が醜く腫れ上がったまま髪を梳き悶え死ぬところ(2幕目・伊右衛門内の場)、岩と小平の死体を戸板1枚の表裏に釘付けにしたのが漂着し、伊右衛門がその両面を反転して見て執念に驚くところ(3幕目・砂村隠亡堀の場の戸板返し)、蛇山の庵室で伊右衛門がおびただしい数の鼠と怨霊に苦しめられるところ(大詰・蛇山庵室の場)などが知られている。

法輪山・勝興寺は曹洞宗寺院で、越前の総本山である永平寺のもと越前にある総本山である永平寺のもと武州熊谷の東竹院を本寺とし、武州熊谷の東竹院を本寺とし、1582(天正10)年に麹町清水谷に東竹院の4世雪庭春積(せきてい・しゅんせき)禅師が創建し、1634(寛永11)年に江戸の大火と江戸城の拡張整備のため、他の院や寺とともに四谷の現在地に移転した。往時には清岩院、谷田院の両塔頭、末寺に福寿院、東長寺、宗福寺を擁していた。

「四谷南寺町界隈」によると、記録や主なる寺宝、過去帳などは戦災によって焼けてしまい、判然としないという。本堂は復興しているが、同寺境内右側に葬頭河(しょうつか)の老婆の石像が小堂の中にあるものの、寺に閻魔王はない。清岩院、谷田院の両塔頭は明治維新の際に廃寺とされ、本寺に合併されてしまったと考えられている。

「首切り浅右衛門」とは、江戸時代に「御様御用(おためしごよう)」という刀剣の試し斬り役を務めていた山田家の当主が代々名乗った「山田浅右衛門(やまだ・あさえもん)」のことで、死刑執行人も兼ねたことから「首切り浅右衛門」とか「人斬り浅右衛門」と呼ばれた。

江戸時代初期の1685年に山野家が御様御用として正式な幕臣となり、「御様御用」は試し斬りだけでなく、処刑の際の首切りの役目をも拝命するようになったが、跡継ぎに技量がなく、山野家は御様御用の役目を解かれた。山野家の弟子の中から御様御用を務めるものが出てきたが、その中の一人が、浪人の初代当主山田浅右衛門貞武(やまだ・あさえもん・さだたけ、1657-1716)だった。

貞武は自らの技を伝えるため、1736(元文元)年に子の吉時(よしとき、?-1744)に御様御用の経験を伝えたいと幕府に申し出、許可され、「山田浅右衛門家」のみが御様御用の役目を務める体制ができた。山田浅右衛門家は多くの弟子を取り、当主が役目を果たせない時には弟子が代行した。

また、当主に男子がいても跡継ぎとせず、弟子の中から腕の立つ者を跡継ぎに選んだ。歴代の山田浅右衛門家で実子を跡継ぎにしたのは2代目山田浅右衛門吉時、8代目山田浅右衛門吉豊(よしとみ、1839-1882)のみだった。弟子は大名家の家臣やその子弟が多く、中には旗本や御家人も存在した。また、罪人の今際の際の辞世を理解するために、3代目からは俳諧を学び、俳号を所持している。

山田浅右衛門家は祥雲寺(しょううんじ、豊島区池袋)に墓を構え、1938(昭和13)年には山田浅右衛門の研究者が、7代目山田朝右衛門吉利(よしとし、1813-1884)の孫娘の援助を受け、祥雲寺に「浅右衛門之碑」を建立し、碑の裏面には3代目以降の戒名と没年月日、辞世が刻まれている。

しかし、6代目山田朝右衛門吉昌(よしまさ、1787-1852)は、遠藤次郎兵衛(えんどう・じろうべえ)という下級幕臣の子で、奥州湯長谷藩藩士の三輪源八(みわ・げんぱち)の養子となった。5代目山田浅右衛門吉睦(よしむつ、1767-1823)は三輪源八の次男で、6代目吉昌は5代目吉睦の義理の弟にあたる。この5代目吉睦が後に「朝右衛門」と名乗ったことから6代目以降から「朝右衛門」を名乗った。

この6代目吉昌の夫婦の墓と7代目吉利が勝興寺に合葬されている。また、1848(嘉永元)年に引退する際に、剃髪して「松翁」と改め、勝興寺には、松翁が寄進した1対の大きな水桶が現存する。

「四谷於岩稲荷田宮神社」は、江戸幕府の御家人、田宮家の屋敷社だったが、田宮又左衛門(たみや・またざえもん)の娘、田宮於岩(たみや・おいわ、?-1638)が江戸時代初期に稲荷神社を勧請したことが由来といわれている。あやかって於岩を合祀し、於岩稲荷と称された。

「於岩稲荷田宮神社」は四谷(東京都新宿区左門町)にあった御先手組同心の田宮家の屋敷社で、田宮又左衛門(たみや・またざえもん)の娘、岩(たみや・いわ、?-1636)が江戸時代初期に稲荷神社を勧請したことが由来といわれている。岩と、婿養子となった田宮伊右衛門(たみや・いえもん)は仲のよい夫婦で、収入の乏しい生活をお岩が奉公に出て支え、お岩が田宮神社を勧請したのち生活が上向いたといわれた。

1717年ころに「お岩稲荷」と呼ばれて、土地の住民の信仰の対象とされ、毎日のように参拝に来る人々の要望を断り切れず、参拝を許可することになった。1870(明治3)年頃に「於岩稲荷田宮神社」と改称され、1879年の左門町内の火災によって焼失し、初代市川左団次(いちかわ・さだんじ、生没年不詳)から「芝居小屋の近くに移転してほしい」という要望と、市川左団次から土地の寄進を受けたことから遷座し、中央区新川に移された。

1931年に四谷左門町の「於岩稲荷田宮神社跡」が東京都史跡に指定されるが、1945年の空襲で新川の於岩稲荷田宮神社の建物が焼失し、1952年に再建され、それと相前後して四谷左門町に田宮神社も再建された。

一龍斎貞寿さんは1973年神奈川県横浜市生まれ、産能短期大学を卒業、2001年に講談と出会い、講釈場通いを続け、2003年に一龍斎貞心(いちりゅうさい・ていしん)さんに入門、6月に講談協会見習、10月に講談協会前座、2008年10月に二ツ目に昇進した。

時間は10時から16時で、10時にJR四ツ谷駅前に集合する。昼までにお江戸日本橋亭に移り、13時30分からお江戸日本橋亭で一龍斎貞寿さんらの寄席となる。料金は弁当、飲み物、寄席代を含めて3000円で、交通費や入館料などがかかる場合は自己負担となる。申し込みは永谷商事まで。

13時30分から日本橋お江戸寄席は前座の昔昔亭全太郎 (せきせきてい・ぜんたろう)さん、二ツ目の元お笑いコンビの「爆烈Q」の笑福亭羽光(しょうふくてい・うこう)さん、一龍斎貞寿さん、真打の立川談之助(たてかわ・だんのすけ)さん、江戸端唄・俗曲の日本橋栄華(にほんばし・えいが)さん、真打の昔昔亭桃太郎(せきせきてい・ももたろう)さんが出演する。