永谷商事、一龍斎貞鏡と江戸五街道の甲州街道を歩く、新宿御苑等

【銀座新聞ニュース=2017年9月10日】不動産会社の永谷商事(武蔵野市吉祥寺本町1-20-1、0422-21-1796)が運営する「お江戸日本橋亭」(中央区日本橋本町3-1-6、日本橋永谷ビル1階、03-3245-1278)は9月14日に一龍斎貞鏡さんによる「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」を開く。

永谷商事が9月14日に開く「講釈師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」で「五街道シリーズ4 甲州街道」を案内する一龍斎貞鏡さん。

「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」は永谷商事が毎月数回開いている講談師が史跡を案内するイベントで、今回は「二ツ目」の講談師、一龍斎貞鏡(いちりゅうさい・ていきょう)さんが「五街道シリーズ4」として、新宿にある「甲州街道」沿いを案内し、その後、お江戸日本橋亭で一龍斎貞鏡さんらの「日本橋お江戸寄席」を鑑賞する。

コースは「四谷見附跡」(千代田区六番町)から「西念寺(さいねんじ、服部半蔵の寺)」(新宿区若葉2-9)、「四谷大木戸跡」(新宿区四谷4丁目交差点あたり)、「新宿御苑」(外観のみ、新宿区内藤町11、03-3350-0151)、「天龍寺(てんりゅうじ、時の鐘)」(新宿区新宿4-3-19)と歩いて、その後、お江戸日本橋亭に移動し、昼食後、「日本橋お江戸寄席」となる。

「江戸五街道」は1604(慶長9)年に日本橋を起点として定められた主要街道で、一里ごとに一里塚を設けたほか、一定間隔ごとに宿場を用意し、1659(万治2)年以降は新たに道中奉行の管轄に置かれた。

1716(正徳6)年に東海道(日本橋から京都・三条大橋)、中山道(日本橋から守山で、草津から三条大橋までは東海道と重複)、甲州街道(日本橋から甲府を経て信濃国の下諏訪宿で中山道と重複する)、奥州街道(日本橋から陸奥白川)、日光街道(日本橋から日光坊中までで、日本橋より宇都宮までは奥州街道と重複する)の正式名称が定められた。

甲州街道は1602(慶長7年)に5番目に開設された街道で、宿場は徐々に整備され、甲府を経て信濃国の下諏訪宿で中山道と合流するまで38の宿場が置かれた。近世初頭には「甲州海道」と呼称され、1716(正徳6)年4月の街道呼称整備で「甲州道中」に改められた。

中馬による陸上運送が行われ、江戸の町において陰陽道の四神相応でいうところの白虎がいるとされる街道であった。多摩川に近い所を通っていた箇所(谷保・府中・調布など)は、たび重なる多摩川の洪水などにより何度か南側に平行する道路へ道筋が変更された。その後も古く狭い街道が、新しくできたバイパスへと路線が変更となっている。

甲州街道は徳川家康の江戸入府に際し、江戸城陥落の際の甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して造成されたといわれている。そのため、街道沿いは砦用に多くの寺院を置き、その裏に同心屋敷を連ね、また短い街道であるにもかかわらず、小仏・鶴瀬に関所を設けている。

これは、甲府城を有する甲府藩が親藩であることと、沿道の四谷に伊賀組・根来組・甲賀組・青木組(二十五騎組)の4組から成る鉄砲百人組が配置されており、鉄砲兵力が将軍と共に甲府までいったん避難した後に江戸城奪還を図るためであるという。

参勤交代の際に利用した藩は信濃高遠藩、高島藩、飯田藩である。それ以外の藩は中山道を利用した。下諏訪宿から江戸までは甲州街道が距離はより短いが、物価が高いことや街道沿線のインフラ整備状況がその主な理由と言われる。そのことから、発展が遅れ、衰退する宿場町もあったという。現在は国道20号がこの街道を継承している。

ウイキペディアなどによると、四谷見附跡は江戸城三十六見附のひとつで、江戸城三十六見附とは、江戸城門に置かれた見附(見張り番所)のうちの目ぼしい36カ所を挙げたものだ。見附とは、本来、街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所に由来する言葉で、城門を警護する番兵が通行人を見張る場所のことを言い、とくに、枡形をもつ城門の監視場所を指した。俗に江戸城には36見付があったといわれ(江戸城三十六見附)、現在も四谷見附、赤坂見附などが地名として残っている。

実際には、江戸の城門の見張り場所自体はもっと多数あったようだが(66、90など諸説あり)、枡形門を持つ見附は、幕府作事方の資料によると外曲輪に26門あり、内曲輪にいくつあったかは明らかになっていない。語呂の関係から、枡形の26門に、目ぼしい10門を足して「三十六見附」とし、江戸の名所として喧伝されたとされている。

四谷見附跡はJR四ツ谷駅のすぐそばにあり、山口藩主毛利秀就(もうり・ひでなり、1595-1651)が普請を命じられ、1639(寛永16)年に完成した。城門は現在のJR四ツ谷駅麹町口付近にあったが、1872(明治5)年に撤去され、現在は石垣が残されている。

当時の四谷見附は、現在の新宿区設四谷小売市場前の橋(当時は土橋)から縄文を経て出入るする構造で、現在の四谷見附橋はなかった。新宿方面からの甲州街道は、外堀に突き当たり左折し、すぐ右折して土橋を渡って江戸城外郭に入った。明治以後にこのような食い違い構造が交通に障害となったため、1911(明治44)年に四谷見附橋建設が着工され、1913(大正2)年に完成し、1991年に架け替えされた。

西念寺は徳川家の譜代家臣で「徳川十六神将」に数えられる服部正成(半蔵、はっとり・まさしげ、はんぞう、1542-1596)が開基した寺として知られる。服部家の菩提寺であり、服部一族の墳墓が存在し、服部正成が守役を務めた徳川家康(とくがわ・いえやす、1543-1616)の長男・信康(とくがわ・のぶやす、1559-1579)のために、服部正成が建てたとされる供養塔が現存している。

若葉2丁目地域は、江戸時代には伊賀町と呼ばれ徳川家に仕えた伊賀衆の組屋敷があり、服部正成はこの伊賀同心200人、与力30騎からなる伊賀衆の組頭だったとされている。同寺から新宿通りを逆に都心方向に東上すると服部正成にちなみ命名されたという、旧江戸城(現皇居)半蔵門に達する。

西念寺は徳川氏が江戸に入封して間もない1594(文禄3)年に、服部正成が江戸麹町の清水谷(現千代田区紀尾井町清水谷公園付近)にその前身である庵(安養院)を創建したことに始まる。服部正成は、かつて非業の死を遂げた信康の慰霊のために出家入道して西念と号し、安養院に供養塔を建ててその菩提を弔いつつ余生を過ごした。1596(慶長元)年の死後には法名・専称院殿安譽西念大禅定門と追号されて同庵に葬られた。

安養院は周辺に江戸城拡張工事が及んだために、1634(寛永11)年頃に現在地に移転、寺院として新築され、現在の西念寺の山号・寺名は彼の法名に因んでいる。

四谷大木戸跡は江戸時代に甲州街道の大木戸(街道を通って江戸に出入りする通行人や荷物を取り締まるための関所)で、現在の東京都新宿区四谷4丁目交差点にあたり、新宿区立四谷区民センターの脇には四谷大木戸門跡の碑が立てられている。

1616(元和2)年に江戸幕府により四谷の地に、甲州街道における江戸への出入り口として大木戸が設けられ、地面には石畳を敷き、木戸の両側には石垣を設けていた。初めは夜になると木戸を閉めていたが、1792(寛政4)年以降は木戸が撤去されている(木戸がなくなった後も四谷大木戸の名は変わらなかった)。

大木戸近くには1653(承応2)年に完成した玉川上水の四谷水番所が設けられ、ここから江戸市中へ配水していた。また、1699(元禄12)年には大木戸の西に甲州街道最初の宿場となる内藤新宿が開設されている。

明治維新後、石畳や石垣は交通の障害となったため、1876(明治9)年に撤去され、現在で残っていない。ただし、現在の交差点上が「四谷大木戸跡」として東京都指定旧跡となっている。新宿御苑の出入り口のひとつである大木戸門の名称は、四谷大木戸に因んでいる。

新宿御苑は江戸時代に信濃高遠藩(しなのたかとおはん)内藤家の下屋敷のあった敷地で、1872年に農業振興を目的とした「内藤新宿試験場」とされ、1879年に皇室の御料地とされ、「新宿植物御苑」が開設され、宮内省(現宮内庁)の管理とされ、1906年に「新宿御苑」として開園された。

1927年に大正天皇(たいしょうてんのう、1879ー1926)の大喪の礼が行われ、1945年に空襲により施設がほぼ全焼(旧御休所と旧御凉亭は現存)、1949年に国民公園となり、一般に開放され、1989年に昭和天皇(しょうわてんのう、1901-1989)の大喪の礼が行われ、2006年に植物園自然保護国際機構(BGCI)による「植物園の保全活動に対する国際アジェンダ」に登録されている。現在は環境省所管の国民公園となっている。

例年4月上旬に首相主催の「桜を見る会」、11月上旬に環境大臣主催の「菊を観る会」が開かれる。隣接する東京都立新宿高等学校の敷地は1921年に新宿御苑の土地の一部が東京府へ下賜されたものを利用している。

天龍寺は曹洞宗の寺院で、山号は護本山、かつては牛込付近にあり、上野の寛永寺が江戸城の鬼門鎮護の役割を果たしていたのに対し、天龍寺は裏鬼門鎮護の役割を帯びていた。1683(天和3)年に現在地へ移転した。新宿四丁目交差点の近くにあり、繁華街の只中で周囲をビルに囲まれた寺院となっている。

前身は遠江国にあった法泉寺とされ、法泉寺は徳川家康の側室である西郷局(さいごうのつぼね、於愛の方、1552-1589)の父、戸塚忠春(とつか・ただはる、生没年不詳)の菩提寺であった。西郷局が後に江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠(とくがわ・ひでただ、1579-1632)を産んだことから、家康の江戸入府に際し、遠江国から現在の牛込納戸町・細工町付近に移された。同時に名を天龍寺と改めたが、これは法泉寺の近くを流れていた天竜川に由来する。

天和の大火により焼失し、現在地へ移転した。江戸三名鐘の一つとされる梵鐘、「時の鐘」(新宿区指定有形文化財)が現存し、大晦日には除夜の鐘でその音色を聞くことができる。渋谷川(穏田川)の源流のひとつであり、かつては境内に池があった。

時の鐘は1700(元禄13)年に第5代将軍徳川綱吉(とくがわ・つなよし、1646-1709)の側用人として重用された牧野成貞(まきの・なりさだ、1635-1712)により寄進された。現在の梵鐘は3代目で、1767(明和4)年の鋳造で、寛永寺・市谷亀岡八幡宮の鐘と並び江戸三名鐘と称された。江戸の外れに存在したため、通常より早く鐘を鳴らし、内藤新宿で遊行する人々に「追出しの鐘」と呼ばれたという。

また、鐘を突く時刻を知るため、牧野成貞により同時期に寄進されたというやぐら時計(新宿区指定有形文化財)もある。やぐら型の台にのせられており、上部には鐘、下部には歯車を回すための錘がある。時計の文字盤は明治以降の改修により24時間になっている。

一龍斎貞鏡さんは1986年東京都渋谷区生まれ、祖父が7代目一龍斎貞山(いちりゅうさい・ていざん、1907-1966)、父が8代目一龍斎貞山(いちりゅうさい ・ていざん)さん、2008年に武蔵大学を卒業、同年1月に父の一龍斎貞山さんの門下へ入門、講談協会見習い、4月に「一龍斎貞鏡」として上野本牧亭で初高座、講談協会前座、2012年2月に二ツ目に昇進した。

2011年より神保町らくごカフェにおいて勉強会「一龍斎貞鏡の会」をはじめ、2013年より日暮里サニーホールコンサートサロンにおいて、自主興行の独演会「本日の提供は貞鏡でございます-土地に纏わる講談を読む会」を開いている。

時間は10時から16時で、10時にJR四ツ谷駅前に集合し、昼までにお江戸日本橋亭に移り、13時30分から日本橋お江戸寄席となる。料金は弁当、飲み物、寄席代を含めて3000円で、交通費や別途入館料などがかかる場合は自己負担となる。申し込みは永谷商事まで。

13時30分からの「日本橋お江戸寄席」は前座の三遊亭遊七(さんゆうてい・ゆうしち)さん、二ツ目の三遊亭遊子(さんゆうてい・ゆうこ)さん、一龍斎貞鏡さん、真打の橘家竹蔵(たちばなや・たけぞう)さん、粋曲バラエティの悠玄亭玉八(ゆうげんてい・たまはち)さん、真打の三遊亭好楽(さんゆうてい・こうらく)さんが出演する予定。