永谷商事、宝井琴柑が案内する「築地」、本願寺や場外市場等

【銀座新聞ニュース=2017年10月4日】不動産会社で都内で寄席を経営する永谷商事(武蔵野市吉祥寺本町1-20-1、0422-21-1796)が運営する「お江戸日本橋亭」(中央区日本橋本町3-1-6、日本橋永谷ビル1階、03-3245-1278)は10月12日に宝井琴柑さんによる「講談師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」を開く。

10月12日に「講談師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」で「何かと話題の築地市場周辺散策」を案内する宝井琴柑さん。

「講談師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」は永谷商事が毎月2、3回程度定期的に開いている、講談師が名所旧跡などを解説しながら一緒に歩いて回り、その後、寄席で講談や落語などを鑑賞する企画だ。

今回は「何かと話題の築地市場周辺散策」と題して、二ツ目の講談師、宝井琴柑(たからい・きんかん)さんの案内により、「築地本願寺」(中央区築地3-15-1、03-3541-1131)、「築地場外市場」(中央区築地4-16-2)から「波除稲荷神社(なみよけいなりじんじゃ)」(中央区築地6-20-37、03-3541-8451)、「勝どき橋」(中央区築地6丁目)と歩いて、その後、お江戸日本橋亭に移り、昼食後に寄席を鑑賞する。

「築地」は明暦の大火の際に焼失した浅草の東本願寺の移転のために、佃島の住人によってこの土地が造成され、その後、浄土真宗の寺院や墓地が次々と建立され、周辺は寺町のようになり、ほかの地域は武家屋敷が多く立ち並んでいた。

1869年に築地鉄砲洲(現在の湊から明石町)に「外国人居留地」が設けられ、在日アメリカ人子弟向けの学校であるアメリカンスクール・イン・ジャパンの校舎が1902年の開校時に設けられた。また、中津藩藩士の福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち、1835-1901)が蘭学塾(慶応義塾)を開いた場所でもある。

さらに、江戸時代末期に江戸幕府は軍事力増強を目的として築地に武芸訓練機関「講武所(こうぶしょ)」を設け、後に海軍部門の「軍艦操練所」を設置、明治維新の後、大名屋敷や講武所跡は明治政府に接収され、太平洋戦争後に日本海軍が解散されるまで、主に海軍用地として海軍本省、海軍兵学校などに使用された。

1923年に関東大震災が発生し、築地一帯が焼け野原となり、帝都復興計画に基づいて晴海通りや新大橋通りなどの大規模な道路の建設と区画整理が行われ、それに伴い多くの寺院が移転した。復興が一段落した1935年に日本橋の魚河岸が築地の海軍ヶ原とよばれた築地海軍技術研究所用地に移転され、場外にも市場が形成された。

本願寺はもともと西南の方角を向いており、参道に門前町を形成していた。しかし、関東大震災による被害で境内の多くの墓地が和田堀(わだぼり)へと移転し、そこに中央市場の盛況に合わせるように水産物商などが入ってきて、自然発生的に発展したのが場外市場とされている。

墓地の跡地で商売をすると繁盛するという巷説どおり、全国から集ってくる食品、調理用品を扱う店舗は500店を数え、都内最大の問屋街にまで成長をとげている。

「築地場外市場」によると、「築地場外市場」は異なる歴史的背景を持つ3つのエリアから成り立ち、1つは、築地六丁目南町会と海幸会(かいこうかい)のエリア(波除神社前から旧小田原橋)で、江戸時代の地図には南小田原町一丁目と記され、築地埋立て以来の町家だったといわれている。

2つ目は、築地場外市場商店街振興組合の地区で、本願寺の境内にあって本寺に付属する地中子院(小寺)58カ寺が集う寺町で、3つ目は、共栄会を含む築地4丁目の西側の地区をさし、明治維新で上地されるまでは武家屋敷だった。

この3つの地域は関東大震災後で全焼し、隣接する海軍用地に築地本場が開場したのを機に、場外市場が自然形成された。当時、人々は暮らしながら商いを営み、市場でありながら、銭湯、床屋もあれば子どもの賑やかな声も聞こえる町だった。大東亜戦争の敗色が濃くなり、食品は価格統制され、疎開する家族も多く、東京大空襲による全焼こそ免れたが、町にすたれた。

戦後は繁栄の一途を辿り、場外になだれ込むヤミ屋の横行に対抗する手だてとして、本願寺寺町跡地の商店主達は、1945年に「築地共和会」という商店会を作り、自治に乗り出した。この会が、1993年に法人格を得て設立される「築地場外市場商店街」の前身となっている。

1948年に築地6丁目南の商店の有志は「海幸会」を結成、次第に商業団体としての結束を強くした。築地4丁目交差点角の林医院の建物を買取り、営業をスタートさせた30数店舗は「共栄商業協同組合」を結成し、1988年に現在の共栄会ビルを建てた。

こうして、築地4丁目町会、築地6丁目南町会、築地場外市場商店街、共栄商業協同組合、海幸会の5団体が集い、2006年に「築地食のまちづくり協議会」を発足させている。

「築地市場移転問題」は1972年から1985年まで第1次東京都卸売市場整備計画から第3次東京都卸売市場整備計画まで、大井市場(現大田市場)に一部機能移転を検討したが、業界の意見を統一できず断念した。

1986年から1997年まで第4次東京都卸売市場整備計画から第6次東京都卸売市場整備計画まで、汐留の国鉄跡地を仮店舗用地(仮移転先)として使用可能かを検討したが、断念した。

このため、築地市場の再整備を計画(1階水産部、2階青果部、屋上駐車場)し、着手し、ローリング工事のための仮駐車場などを建設したが、工期の遅れ(14年の工期が20年に延長)、整備費が高騰(2400億円から3400億円に増大)、冷蔵庫の移設や買荷保管場所、工事期間中の駐車場が少なくなる、などの調整ができず、約400億円を投資したものの、計画が断念された。ただし、建設した仮設施設は仮使用許可をとり、現在も使用している。

1999年から2001年まで築地での再整備の再検討と、移転整備の検討を重ね、2001年に第7次東京都卸売市場整備計画を策定し、築地での建て替えを断念し、移転計画を選んだ。

築地市場が、取り扱い数量の拡大(2005年に2140トンで日本最高)により、施設が手狭、1935年の開場と、施設が老朽化し、違法駐車増加、銀座などに近い築地という立地条件のよさなどから、他目的への利用価値の観点から、道路条件や駐車スペースなど2012年をめどに東京都江東区の東京ガスの工場跡地の豊洲市場への移転が検討された。

ただ、東京都は築地市場の移転先を豊洲にすることは元々反対の立場で、築地市場の再整備をはじめたが、営業しながらの再整備工事は完成まで長期間かかり、再整備工事期間中は市場の営業活動に悪影響をもたらすことなどの問題点が浮上し、当初の計画通りに工事を進めることが困難なことから、移転賛成へと変化し、2001年には再整備をやめて、豊洲移転を決定した。

東京都側と築地市場業界との協議機関として、新市場建設協議会が設置され、2004年7月に「豊洲新市場基本計画」が策定された。移転先は、かつて東京ガスのガス貯蔵施設があり、土壌汚染が判明しており、東京都議会においては民主党(現民進党)などが反対していた。

東京都は、汚染された土を掘り出し浄化処理して埋め戻したことから問題はないとして移転計画を推進したが、一方で汚染を危惧する声もあがっていた。これを裏付けるように、都が2007年10月6日に発表した調査結果で地下水はベンゼン、シアン化合物、鉛、ヒ素が環境基準を、土壌はベンゼン、シアン化合物、ヒ素が環境基準を上回る汚染が明らかになった。

ただ、築地市場においても、大日本帝国海軍の毒ガスや化学兵器の研究を行う「技術研究所研究部化学兵器研究室」が設けられていた時期があり、地下には第五福竜丸によって水揚げされた、ビキニ環礁の水爆で被爆したマグロ(当時「原爆マグロ」と呼ばれた)が埋められており、土壌汚染の処理の必要があった。

2009年7月の東京都議会選挙の結果、移転賛成派の自民党に代わって反対派の民主党が都議会第1党となり、移転へのハードルが上がり、民主党は豊洲移転に替わる案として、晴海地区を利用し、現在の築地市場を再整備する案を表明した。この案には民主党の他に日本共産党も賛成しており、豊洲移転推進派の自民党と公明党は反対していた。

しかし、その後、都議会民主党は、都が関係者と合意したことで移転賛成に転じ、2012年3月29日の都議会では、市場移転費用を含む新年度予算案が賛成多数で可決した。その後も工事と同時並行で協議は進み、2014年12月17日の新市場建設協議会において、2016年11月7日に豊洲市場を開場することで正式に決定した。

2016年8月に知事に就任した小池百合子(こいけ・ゆりこ)さんは、8月31日に豊洲市場の同年11月7日の開場を延期し、同時に築地市場の解体工事も延期した。同年9月に、豊洲市場における土壌汚染対策等に関する専門家会議が設置され、2017年3月19日に同会議は豊洲市場につき、科学的、法的に安全との評価を表明した。

2017年6月20日に東京都議会議員選挙が迫る中、都知事が豊洲移転、築地再開発の方針を示し、7月2日に投開票された都議選では小池新党「都民ファーストの会」が大勝し、政策への信任が得られた。9月5日、都議会の臨時会において豊洲移転の経費、築地開発の調査費を盛り込んだ補正予算案が都民ファーストの会や自民党などの賛成多数により可決した。

2017年の東京都議会議員選挙に先立ち、環状2号線エリアを先行整備し、2020年オリンピック期間中は跡地を輸送拠点として暫定整備する方針と大会終了後に築地の再開発を行う方針を発表した。2018年度中に街づくりの方針を策定し、その後埋蔵物調査、土壌汚染調査、設計などを行うとしている。ただ、豊洲への移転時期は2018年5月以降というだけで、詳細は決まっていない。

「築地本願寺」は浄土真宗本願寺派の寺院で、京都府京都市にある西本願寺の直轄寺院となっている。住職は2014年に門主に就任した大谷光淳(おおたに・こうじゅん、1977年生まれ)さんが兼ね、事務執行機関として宗務長(旧:輪番)1人、副宗務長2人で構成されている。

1617年に西本願寺の別院として浅草御門南の横山町(現日本橋横山町、東日本橋)に建立され、「江戸海岸御坊」や「浜町御坊」と呼ばれていた。しかし、1657年の明暦の大火により本堂を焼失し、その後、江戸幕府による区画整理のため旧地への再建が許されず、その代替地として八丁堀沖の海上が下付された。

そこで佃島(現中央区佃)の門徒が中心となり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き(この埋め立て工事が築地の由来)、1679年に再建され、「築地御坊」と呼ばれた。このときの本堂は西南(現築地市場)を向いて建てられ、場外市場のあたりが門前町となっていた。

1923年の関東大震災では、地震による倒壊は免れたが、その後の火災により再び伽藍を焼失し、58カ寺の寺中子院は、被災後の区画整理により各地へ移転した。現在の本堂は1934年に竣工された。古代インド様式をモチーフとした建物は、当時の浄土真宗本願寺派法主・大谷光瑞(おおたに・こうずい、1876-1948)と親交のあった東京帝国大学工学部名誉教授の伊東忠太(いとう・ちゅうた、1867-1954)が設計した。

本堂は重要文化財に指定され、2012年4月1日の浄土真宗本願寺派の新体制移行に伴い、正式名が従前の「本願寺築地別院」から「築地本願寺」となり、これにより、築地本願寺は全国唯一の直轄寺院となった。

「波除稲荷神社」は築地一帯の埋め立てと関連している。江戸開府の1603年ころは慶長江戸絵図によると、今の日比谷のお堀の辺りまで海で、開府前より始められた江戸城西丸の増築に掘られた、お堀の揚げ土を使って日比谷入江から埋め始められた。

江戸東南海面埋め立ては、その後全国の諸侯70家に1000石に1人の人夫を出させ、後にはその埋め立ての役員の名をとり、尾張町、加賀町などと名付けられた。1657年の明暦の大火の後に、築地の埋め立て工事が行われたが、堤防を築いても激波にさらわれてしまうなど困難を極めた。

ある夜、海面を光を放って漂うものがあり、船を出してみると、それは立派な稲荷大神の御神体で、1659年に現在の地に社殿を作りおまつりし、盛大なお祭りをすると、波風がおさまり、工事は順調に進み、埋め立ても完了した。

人々はその御神徳のあらたかさに驚き、稲荷大神を「波除」と名づけ、雲を従える「龍」、風を従える「虎」、一声で万物を威伏させる「獅子」の巨大な頭が数体奉納され、これを担いで回る祭礼「つきじ獅子祭」(毎年6月)がはじめれたとされている。以来、「災難を除き、波を乗り切る」神社として信仰を集めている。「獅子頭一対」と「鉄製天水鉢」は中央区の文化財に指定されている。

「勝どき橋」は1905年に「日露戦争」における旅順陥落祝勝記念として「勝どきの渡し」が設置され、1929年に「東京港修築計画」に伴って、架橋計画が策定され、1940年に迎える「皇紀2600年」を記念して月島地区で開催予定だった日本万国博覧会へのアクセス路とする計画により、日本の技術力を世界に誇示するため、アメリカ・シカゴにある跳ね橋をモデルにし、すべて日本人の手で設計施工された。

日本万博は中止されたが、勝どき橋は1940年に完成された。建設当時は隅田川を航行する船舶が多かったため、3000トン級の船舶が航行できるよう、可動橋として設計され、跳開(ちょうかい)により大型船舶の通航を可能とした。完成当時は「東洋一の可動橋」といわれたが、その後、隅田川を航行する船舶が減少し、1970年11月29日の開閉を最後に「開かずの橋」となっている。

また、当初から路面電車用のレールが敷設され、1947年から1968年まで橋上を都電杉並線が通行した。橋の名称は「勝どきの渡し」からつけられ、「勝どきの渡し」は1940年に廃止された。2007年6月に都道府県の道路橋として初めて清洲橋、勝どき橋、永代橋が国の重要文化財(建造物)に指定されている。

宝井琴柑さんは神奈川県横浜市生まれ、山形大学人文学部を卒業、中学生の頃より、宝井講談修羅場塾にて講談に触れ、2006年4月1日に宝井琴星(たからい・きんせい)さんに入門、講談協会にて前座見習い、同年6月に前座となり、本牧亭にて初高座、2010年6月1日に二ツ目に昇進した。

時間は10時から16時で、10時に東京メトロ日比谷線「築地」駅に集合し、昼前にはお江戸日本橋亭に移り、13時30分からお江戸日本橋亭で宝井琴柑さんも出演する「お江戸寄席」を観賞する。料金は弁当、飲み物、寄席代を含めて3000円で、交通費などがかかる場合は自己負担となる。申し込みは永谷商事まで。

13時30分からの日本橋お江戸寄席は前座、二ツ目の三遊亭鯛好(さんゆうてい・たいこう)さん、宝井琴柑さん、真打の三遊亭遊之介(さんゆうてい・ゆうのすけ)さん、ギター漫談のあさひのぼるさん、真打の三遊亭鳳楽(さんゆうてい・ほうらく)さん。