2020年(12.パラレル日本/ダブルの正体<真鍋翔子再び2>)

【モハンティ三智江のフィクションワールド=2021年3月23日】その夜は校了間近で、原稿が詰まっており、私は残業を余儀なくされていた。たった1人しかいない社員が突然辞めて、お蜂が一気に回ってきたのだ。編集長は「あとはよろしく」とご都合主義で私1人に押し付けて、19時前には退社していた。

時計が20時を回ったとき、入口の扉が突然開いて、見慣れた禿げ頭が覗いた。
「ちょうどお宅の前を通りかかったら、3階に電気がついていたんで、まだ誰か残業しているのかなと、陣中見舞いに来たんです」
「もう、唯1人の社員が辞めちゃったから、大変ですよお」
私はぼやきつつ、画面を睨む。
「もうすぐ20時半ですよ。夕食まだでしょう。もしよかったら、ご一緒にどうですか。うまい海老フライ食わせる通の店があるんです」

原稿はあらかた終わって、あとは見直しだけだったので、海老フライと聞いて気持ちが動いた。それに、常々気になっていた、もう1人の翔子のことを聞く絶好のチャンスかもしれない。

男は、商店街の路地奥にある、こんな田舎町にしては、粋な店に案内した。日本海産の新鮮な大海老は実がプリっと締まって超美味だった。重労働でおなかがペコペコだった私は大満足で箸を置いた。

「まったく、お宅の編集長、人遣いが荒いんだから」
「しょうがないですよ。人手不足なんだから」
「さてと、食後のコーヒーでも、飲みに行きましょうか。自家焙煎のおいしい店知ってるんです」
私は頷いた。もう1人の翔子のことをさりげなく聞き出すにも、落ち着いて話せる喫茶店の方がいいかもしれない。

香り高いコーヒーをひと口堪能したあと、さりげなく話題を振った。
「初めてお会いしたとき、私のこと、誰かに似てるって言いましたよね」
「ああ、クマリのことね。似てるなんてもんじゃない、瓜二つ、そっくりですよ」
「世界に1人は自分に似た人がいるっていうけど、私、その人のこと、知りたいなあ、興味津々です」
男は簡単に、誘導尋問に引っかかった。

「真鍋翔子さんは7年前まで、ネパールの首都カトマンズで現地人の旦那さんとゲストハウスを経営していたんですが、旦那さんが急死して帰国、以後タロット占い師クマリとして鮮やかな転身を遂げたんですよ。クマリって、ネパールの生き女神らしいです。とにかく、よく当たると大評判で」
「へえ、そうだったんですか。でも、どうやってお知り合いになったの」

「前に勤めていた会社で、可愛がってもらっていた先輩のお姉さんなんですよ。前の商事会社は潰れてしまって、先輩とは、その後、離れ離れになってしまったんだけど、今でもたまに飲みに行くことがあって。その先輩も僕同様、いまだに独身で、この先、良縁に恵まれるか、いっそのこと、占い師にでも見てもらおうかと、冗談半分で言ったら、姉がタロット占い師だから、日曜、家に来い、ただで見てくれるよう話しておくからと、気遣ってくれて」
「そうだったんですか。で、結果の方は?」

「まあ、まったく希望が持てないということでもないらしいんで」
男は赤い顔をして、禿げ頭を掻き掻き、しどろもどろに答えた。
「それはよかったですね」
「はぁ。なんか、秋に出会いがあると、予知されましてね」
じっとりこちらを見つめてくる男の目が意味深に光っている。バツ一であることは誰にも話していなかったが、独り身であることは、雰囲気から察したらしい。情報欲しさに、少し馴れ馴れしくしすぎて、誤解を与えたかもしれないと、私は反省した。
が、最後にひとつだけ聞いておかねばならないことがあった。

「クマリの占いって、コネのないフツーの人、たとえば私なんかが受けたら、高いんでしょうね」
「個人セッションは有料だけど、定期的に無料のタロット占い動画を発信していますよ。クマリ、タロットでサーチすれば、すぐ出てきます。ただし、無料動画では、顔を見せないし、有料セッションでも、仮面を被って、素顔は晒さないらしいので、似ているかどうかチェックはできないと思うけど」
「そうなんですか。でも、私、タロットに興味があるので、ただでリーディング受けられるなら、願ってもないわ。早速トライしてみます」
ここまで引き出せれば、充分だった。私は現金に、立ち上がった。

「今日はどうもご馳走様でした。とてもおいしかったです。もう遅いので私、これで失礼します」
「あの、もしよかったら、タクシーで送りますけど」
遠慮がちながら、このまま帰らせたくないとのオスの意図を敏感に読み取った私は、きっぱりと辞退した。
「ありがとうございます。でも、それには及びません、大丈夫ですから。では、おやすみなさい」
相手につけ入る隙を与えず、脱兎のごとく店を飛び出した。

翌朝、始業時刻より1時間早く出社した私は、誰もいない静まり帰った早朝のオフィスでパソコンを開けて、クマリの動画をサーチした。クマリは聞いた通り顔を現さず、画面いっぱいにカードだけが並べられ、耳に心地よい涼やかな声でリーディングを伝えていく。

私は最新動画の、3択のうちの天使が地球を抱えた右端の絵柄を選び、リーディングに耳を澄ました。まるで良質のカウンセリングを受けているような心身に染み入る癒される15分だった。

年齢を感じさせない白魚のような手で改めてシャッフルされたカードの、上下左右5枚に並べられた中に、飛ぶ少女の図柄、「travelling」が出た。あとは、鍵の閉まっていないゲートの内側にいる少女が、門の外の空を自由に飛翔する白い鳥に焦がれている絵柄が自分の心境そのもののようで、気になった。

銀鈴のように涼やかな声が、傷ついた心を柔らかな羽毛で撫で癒すように、染み渡っていく。
「旅立ちのときが来ました。臆せず門を開けて1歩踏み出してください。あなたが憧れる自由が手を伸ばした先にあります。冒険を恐れてはいけません。そこがたとい地獄であろうとも、住み慣れた世界では、愛する家族・友人が両手を広げてあなたを迎えてくれます。そこはあなたの居場所なのです」

「あなたは、収まるべきところに収まり、乗り越えるためのチャレンジをしていかねばなりません。恐怖心から、逃げてはいけません。あなたが立ち向かえば、その先に第2ステージ、ランクアップした次元が待っています。あなたは、クリエイティブな才能を活かし、愛のメッセージを周囲に広げていくでしょう。表現するヒーラーとしての旅路はすぐ目の前に広がっています。さぁ、すくんだり、怖気づいたりする気持ちに負けずに、勇気を持って飛び出していきましょう」

そのときだった。
「おはよう!」
と独特の野太い声が背後の扉が開く音とともに響き、びくりと我に返った私は急いで画面を閉じて、昨夜ラフに書き上げたワード画面を立ち上げ、原稿を追ったが、文字面(づら)は意味をなさない記号のように目の上を掠め過ぎ、上の空で頭に入ってこなかった。先刻のリーディングの深遠な内容がいつまでも鼓膜にエコーしていた。

余韻を振りのけるように、編集長にコーヒーを淹れるために立ち上がる。ついでに自分の分も淹れて戻るど、
「ありがとう。ちょっと話があるんだが、今いいかな」
私は緊張して身を引き締める。声の調子から、どうもよくない件のように思えたからだ。何かミスでもをしたろうか。
「実はね、君にぜひとも行ってもらいたい取材先があるんだが」
私は、何だ、そんなことかと、ほっとする。
「はい、私で間に合う取材先ならどこでも」
と快く受け答えすると、編集長は相好を崩して、
「頼もしいね。実はね、海外なんだが」

「えっ、海外出張ですか」
あまりにも意外で、驚く。
「ほら、あいつ、急に辞めたろう。本来なら、社員のやっこさんが行く予定だったんだが」
「はあ、で、一体、どこですか」
「うむ。インドだ」
「インドお?!」
さすがに私は狼狽し、鸚鵡返しに言ったきり、絶句する。

「今度、北陸に乗り入れるアジア線の格安航空会社とタイアップした記事でね、取材費は向こう持ちで、広告代も入るから、うちにとっては願ってもない話なんだ」
私は呆然としながら、動揺を帯びた声で問い返す。
「インドのどこですか」
「世界遺産に登録された有名な遺跡だよ」
私はほっとする。
「ああ、タージ・マハルですか」

「いや、ムンバイから飛行機で1時間ちょっとのアウランガバードにあるアジャンタ・エローラという遺跡だよ」

愕然として、声もなかった。恐怖心がどこからともなく、忍び寄ってくる。お断りしますとの声が今にも、出かかった。

「頼む。ほんと急な話で悪いんだけど、頼りは君だけなんだ。僕を助けると思ってここはひとつ頼むよ。記事の出来次第では、社員昇格も考慮するから」

もし、事前にクマリのリーディングを聞いていなかったとしたら、即座に斥けていたろう。いくらパラレルワールドの別世界とはいえ、悪夢がフィードバックされるような因縁のある場所には戻りたくなかった。

しばらく無言を保っていたが、勇気を振り絞って答えた
「わかりました。で、いつですか」

「ほんと急な話で悪いんだが、来月の7日だ」

11月7日まで、あと10日となかった。唖然とした顔で、一旦受け入れた以上、どうしようもないと、観念した。私は半ば捨て身の気持ちで、パラレルワールドのインドがどうなっているか、こうなったら、とことん見届けてやると、覚悟を決めた。
(「2020年」はモハンティ三智江さんがインドで隔離生活を送る中、創作活動にも広げており、「インド発コロナ観戦記」とは別に、短編など小説に限定してひとつのタイトルで掲載します。本人の希望で画像は使いません)。