緋色の花神(上)-亡き母への挽歌

【モハンティ三智江の異国の地から母に捧げる記=2021年10月22日】「10月9日、母、永眠す」

カンナの花言葉は、情熱、快活、永遠。内に秘めた情熱や烈しさを持っていた母に似つかわしい花だ。今世で実を結ぶことのなかった母の燃える命の熱情はあの世で永遠に生き続ける(写真はウィキペディアより)。

広大な自然の中を母と並んで歩いていく。彼方には、鮮やかなオレンジに染まった山並み、暮色の美しさに見とれていると、傍らにいたはずの母の姿が見当たらない。急いで後戻りすると、残照を弾く強烈さで、真っ赤に咲き乱れる花の中に佇んでいた。ありきたりの薔薇(バラ)やダリアではない、真紅の大輪の花が夕風に揺れている、真夏の華麗な熱帯花、カンナだろうか。

夢はそこで途切れた。それからしばらくして、長弟から母の訃報がメール越しに届いた。10月9日11時36分、早朝少し嘔吐して誤嚥したことの呼吸困難、応急処置の甲斐もなく、4時間後息を引き取ったとのこと、享年91だった。

甘いもの好きで食べることだけが高齢の母の唯一の楽しみだったが、入院来、経管栄養となり、持ち直しても誤嚥を警戒して、鼻からチューブは取れなかったのだが、皮肉にも自分の吐いたもので胸が詰まってしまったのだ。救いは比較的苦しまずに逝けたということ。

神様に、もし寿命なら、苦しまずに安らかに逝かせてくださいと先からお願いしていた私は、覚悟していたとはいえ、コロナ下帰国できず最期の対面も叶わなかっただけに、ショックは人一倍大きかった。

●夢で母の痛みを感ずる

福井県坂井市内の特養ホームに入所中だった母は5月に黄疸症状を呈し、市内の病院に搬送されたが、容態は思わしくなく、2カ月後に長弟が院長兼内科医長を務める金沢市内の病院に引き取った。以後、弟の的確な診断と、看護スタッフの手厚い世話のおかげで、意識も回復し、目を開けて短い言葉も発せるようになった。が、既に膵臓ガンが肺まで転移し、年内持つかどうかとのことだった。

ところで、私が母の危篤を知ったのは、弟の病院に移送された7月初旬のことだった。てっきり元気なものと思い込んでいただけに、青天の霹靂のショックを受けたものだ。

これに先立つ経緯を少し述べると、2019年5月に母は路上で転倒し大腿骨折、手術は成功したが、リハビリを厭(いと)い歩行不能となり、独居マンションから特養ホームに移ることを余儀なくされた。

そこでは難治性の皮膚病を患いながらも、何とか順応し、食欲もあって比較的元気な生活を送っていたのだ。

認知は少し入っていたが、子どもの顔や名前は認識できたし、昔のアルバムを見せると、小学校時代の校長先生の写真にすらすらフルネームを言ったりと、記憶力抜群だった。

弟が帰国不能な私の現状を気遣って、2カ月間伏せてくれたのは、今考えると、ありがたかった。5月はインドが感染大爆発していた時期だっただけに、この間、母の危篤を知らされたら、繊細なこっちの神経が持ちこたえたかどうかわからなかった。都心では酸素不足で大勢の人が犠牲になり、火葬場は遺体で溢れかえる修羅場、移住地で繰り広げられる地獄に恐怖と悲しみにおののいていたのだ。

だから、弟の配慮には感謝したが、折しも現地の義姉(インド人亡夫の姉)の危篤と重なり、また別の意味でハードだった。母の危篤を知ってまもなく、こんな夢を見た。

母と、福井の街並みを歩いている。数歩先を弟2人が歩いていた。そのうち、雨が降ってきて、私は母の肩を引き寄せ、喫茶店の軒先に雨宿りしようとした。すると、母が飛びのくほど痛がったのだ。ちょっと肩の先を触れたくらいで過敏に反応する母に私は訝しんだ。しかも、母の体はぞっとするほど冷たかった。私は弟たちに、傘を持ってきてと命じながら、なんで母はこれほどにも痛がるのだろうと、訝しがり続けていた。

目覚めて、ふっとガンの痛みかなと思ったが、しばらくして、褥瘡(じょくそう)のせいだと気づいた。褥瘡とは、寝たきり病人が患う床ずれだが、適切に処置しないと悪化、痛みも増すらしい。福井市内の病院に2カ月入院しているうちに、褥瘡が悪化、意識も混濁状態と化したため、弟がコロナ感染状況が落ち着いた頃合を見計らって自院に引き取った経緯があったのだ。

私は弟のメール宛に母の肩の辺りの褥瘡がひどくないか、痛がったり寒がったりしていないかを確認し、処置をお願いした。その後、褥瘡は治り、意識も徐々にはっきりしてきて、長男管轄の病院の手厚い看護のおかげで持ち直したのだった。

●母への声の便りと、虫の知らせ

2019年11月の一時帰国時、福井県坂井市の特別養護老人ホームを訪ねたとき、スマホのカメラを何の気なしに母に向けた。ふと撮っておこうという気になったのだが、後でこれほどにもまじまじ見返すことになろうとは。週1度訪ねて甘味の差し入れ、母と過ごした最後の貴重な時間だった。

私は、インドにいながらにして、病床の母と何とかコミュニケーションをとる方法はないかと考え、意識はあるといっても、話しかけられることを嫌がるとのことだったので、電話は諦めてボイスメッセージを弟宛に送信、母の気分のいいときに、耳元で流してもらうようお願いした。
『母さん、聞こえる、みっちゃん(私の愛称)だよ。よく頑張ったね。私が帰るまでもう少し頑張ってね。私が帰るのを待っててね。いろいろごめんね。私を産んで育ててくれてありがとう』というような短い内容だったが、母は聞くのを鬱陶(うっとう)しがったとのことで、私の思いは伝わらなかった。

しばらくして、所望していた病床の母の写真も届いたが、ひと目見てあまりの痛々しさに絶句した。澄んだ茶色い瞳がなんとも哀しそうで、こんな哀しい目の色をした母は見たことがないとショックを受けた。私の如き素人の遠隔ヒーリングで改善する余地はないと打ちのめされ、改めて容態の深刻さに愕然(がくぜん)とした。

2019年の秋帰国したとき、ホームを訪ねて撮った母の写真を改めて、スマホのアルバム帳に探し、まだ元気だった頃の顔をまじまじと見返さざるをえなかった。白髪のボブスタイル、お気に入りのニットのセーターを着て、ふくよかで穏やかな面差しを見せている車椅子姿の母。2年を経ずしてここまで変わり果てた姿になるなんて、誰が予想したろう。

しかし、東京の叔父に写真を転送すると、目にまだ力があるから、誕生日(12月18日)までは持つんじゃないかと返され、少し気を取り直した。

一方、11月を目処に帰国を模索しようと思っていた私だったが、8月11日の義姉の葬儀後体調を持ち崩し、帰国どころでなくなってしまった。持ち直すのに9月いっぱいかかり、この間、弟からの緊急メールも入らず、母は依然安定した状態にあるのだろうと勝手に思い込んでいた。実際、母の容態に異変はなく、死の前日には次男が特例の面会を許され、最後の対面を果たしていたのだ。

とはいえ、心酔しているタロット占い動画で、10月10日に何が起こっても驚かないようにと警告されていたので、もしかして母がと、かすかな不安に恐れおののいていたことも確かだ。虫の知らせ、のようなものだったかしれない。だから、訃報が10月9日に届いたとき、いの一番にやはりと思ったのだった。

母は、次男にようやく会えて、安心して逝ったのではないかと、長弟のメールには結ばれていた。結局のところ、福井在住の次弟(亡父の後継者の同族会社経営)が、陰に陽にこれまで母を支えてきたわけであって、母も頼りにしていたことから、最後にひと目会えたことでほっとしてこの世を去る決心をしたのかもしれなかった。
(「緋色の花神」はインドにいて帰国もできない状況の中で、著者が最近亡くなった母に対する想いを書いています。3回の予定です)。