2020年(17.老婆ノブ元の世界へ<真鍋翔子再び7>)

【モハンティ三智江のフィクションワールド=2021年5月28日】翌午後、私は勇んで、安らぎの家に向かった。昨夜からずっと考え通しだった。何としてでも、1時間という限られた面会時間の中で、老婆を外に連れ出さなければならなかったが、それには外泊許可を取るしかなさそうだった。

しかし、このパンデミック下、許可してもらえるだろうか。望みは薄かったが、トライしてみるしかなかった。

おばあさんに会う前に、受付けで係の人を呼び出してもらい、篠崎ノブの外泊の打診をしたが、案の定有無を言わさす却下されてしまった。

「今、入居者を外出させることが、どんなに危険な冒険か、あなただって、重々ご承知でしょう。もし、ノブさんが外で感染したら、ご自分の身だけでなく、入居者全員がリスクに晒されるんですよ。ご高齢の入居者の外泊など、いくら以前世話になった知人とかいうあなたが付いていても、言語道断です。断じて許すわけには参りません」

おばあさんが煙たがっている40年配の、つり上がった黒縁眼鏡が陰険な印象を与える女性は、きっぱりと吐き捨てた。

私はたじたじしながらも、かろうじて食い下がった。
「あのう、タクシーでまっすぐ連れて帰り、自宅以外は1歩も出させませんから、1泊だけご許可頂けないでしょうか。おいしい手料理を作ってあげたいし、水入らずで長い話もしたいし、何とか大目に見て頂けないでしょうか。本人にとっても、いい気分転換になると思うんです」

「駄目と言ったら、絶対駄目です。あなたはうちで、施設クラスターを出したいんですか」

職員はヒステリックに喚き立てた。さすがに私は引き下がるしかなく、
「わかりました」
と頭を下げて、部屋に向かいかけた。翻した背に職員の声が飛んだ。

「気分転換させたいというなら、裏庭がありますから。ただし、今の季節、寒いから、風邪を引かないよう防寒して頂かないと」

おばあさんは私の顔を見ると、待ってましたとばかりベッドから跳ね起きた。私はいつものように、差し入れのクリームパンとお茶を差し出しながら、おばあさんの期待に応えられそうもないと思うと、気が重く、喜色満面のしわくちゃ顔を前に、どんな表情をすればいいのか、わからなかった。

「今日こそは、わしをここから出してくれるんやろうな」
パンを食べ終わったおばあさんは、小声で囁き、期待のこもった眼差しでひたと見据えた。私は思わず目を逸らしたくなる衝動をこらえて、作り笑いで応えた。
「おばあさん、ちょっと寒いけど、外の空気に当たりましょうか」

私は、職員に言われた通りおばあさんを防寒具にくるみ、杖をつく彼女に肩を貸しながら、真冬の裏庭に連れ出した。今日のところは、院内散歩だけで終わりそうだ。一旦引き上げて、また別の案を考えよう。

きれいに整備されたガーデンを一周した後、奥のベンチにおばあさんを促して、腰掛けさせた。
「前にな、この庭から、こっそり逃げ出せんやろかと思うて、探ったことあるんやけど、裏木戸は鍵がかかっとって無理やった」

私はその言葉に、弾かれたように立ち上がった。
「もう一度、調べてみましょうか」

幸いにも、厳寒の今、外に出てるのは私と老婆くらいなもんだった。私たちは裏口まで歩き、錠の有無を確かめた。観音開きの古い裏木戸はナンバー製の南京錠でしっかり閉ざされていた。私は南京錠をかちゃかちゃ任意の番号でいじり回した挙句、何度か押したり引いたり、体当たりまでしてみたが、開かなかった。
「駄目だわ」

絶望的になりかけたそのとき、視野に入った冬の曇空に、何やら白いものが舞った。
それは、私をこのホームへといざなった神の使い、ホワイトレイブンだった。

老婆も気づいたようで、口をぽかんと開けて頭上を仰いでいる。
「カラスの神様の登場や。いつも窮地を救ってくれるわしの大事な守り神や。亭主が亡くなってから、たびたび現れて代わりにわしを守るようになってくれたんや。わしは、マンジと亭主の名で呼んで可愛がっていたんや。カラスに毎朝餌付けする習性が身についたのはそのせいや」

私たちは世にも稀な白ガラスを目を離さず追った。やがて、白い羽をばたつかせ、木戸近くの地面まで降りてきた。そして、いきなりくちばしを土の中に突っ込むと、しきりに掘り起こし始めた。何やら記号のようなものが次第に浮き彫りになっていく。

記し終わったあと、ふわりと舞い上がると、注意を促すように、ひときわ甲高い鳴き声をあげた。私がとっさにしゃがみこんで目を凝らすと、地面に「N15789」という暗証番号らしきものがくっきり浮き上がっていた。

その番号通りに南京錠をプッシュすると、かちゃりと錠が外れた。スリリングな快感を覚えながら、おばあさんの手を引いて一目散に外に飛び出した。

中空に舞う白ガラスに導かれるように、公園に着いた。息切れしているおばあさんをすかさずベンチに座らせる。おばあさんの目は、頭上の白いカラスから離れず、まるで神を拝むように両掌が神妙に合わさっている。半開きのかさかさの唇からは、呪文のようにマンジ、マンジとのつぶやきが洩れている。

そのときだった。白い尾羽から灰白色のものが降りかかり、おばあさんの眉間に命中したのは。まるで、インドの聖灰、ビブーティーのごとき祝福を垂れたかのようだった。

私はあまりの神々しさに打たれていた。おばあさんの眉間は、この世のものと思われぬ輝かしい光で満たされ、目潰しを食らった私が瞬間まぶたを閉じ、次に開けたときには、もうおばあさんの姿はなかった。

ホームに言い訳するのが大変だったが、何とか誤魔化して、事なきを得た。ちょっとトイレに戻った隙に錠の開いていた裏木戸から逃げ出したものと思われ、必死に行方を追ったが、見つからなかったとの作り話をして、言い逃れたのだ。

行方不明者として、捜索願いが出され、警察から事情聴取を受けたが、身内でなく昔世話になった知人と名乗ると、所詮他人で、おばあさんはこの世界の住人でないアイデンティティ喪失者、お上も探しようがなく、うちうやむやになって、放免された。

2週間後、私は何の気なしに公園に立ち寄って、頭上を舞うつがいの白ガラスを目撃した。雌と思われる小ぶりの方が、頭上を旋回し、私の注意を惹きつける。くちばしに何やら光るものをくわえているのに気づいた私は目を凝らした。

光線の加減できらりと透明に輝く紫がかったものの正体に私は意表を突かれる。まさか水晶……。その瞬間、くちばしがぱかりと開いて、くわえていたものが宙を掠め落ち、それは、私のコートの襟に引っかかった。

まさに、私が失くした母の形見そのものだった。私は紫水晶のペンダントを右手にしっかり握り取り、感無量で滂沱の涙を流した。あの白ガラスはなぜか、おばあさんの化身のような気がした。恩返しに、母の形見を見つけて、返してくれたような思いに打たれたのだ。

その夜、私は老婆の夢を見た。彼女は、白装束のデスマスクで布団に横たわっていた。青ざめた唇が動いて「ありがとう」と言ったような気がした。「母の大事な形見を見つけてくれて、私の方こそありがとう」と、私は返した。
瞑目して動かなかった老婆がその刹那、むくりと起き上がり、白い着物の袖をばたつかせると、宙に浮遊、いつのまにか白いカラスに姿を変え、ひときわ甲高い鳴き声をあげて、飛び立った。

クマリの動画は突然、消えた。いくらサーチしても、現れることはなかった。最後のメッセージは3日前に届いた、「出会えて光栄でした。それぞれのパラレルワールドで、精一杯生きていきましょう。永久にさようなら」だった。

2020年もまもなく、終わろうとしていた。この北陸の小さな町にも、第3波がしのび寄ろうとしていた。マスクが手離せる日がやって来るのは、いつだろうか。が、私はもう逃げない。この世界で、ウイルスと向き合って生きていく。サバイバルの日まで。

いつか、終息の日はやってくる。その日まで、希望を捨てずに目の前のことを精一杯こなしながら、弟とともに助け合い、生きていくつもりだった。

たったふたりの姉弟、家族の絆はパンデミックでいっそう強くなった気がする。別れた夫へのわだかまりもいつしか消えた。離婚後、音信不通だが、何とか無事にパンデミックを生き延びて欲しいと願う。人類皆きょうだい、非常事態下、博愛精神が育まれ、人間的にも成長したようだ。

あれから、空を見上げることが多くなった。いつか鳥のように自由に飛び立てる日がやってくるだろうか。行き残した世界遺産はまだたくさんある。再び自由に世界を飛び回れる平和な世の中になってほしい。

ホワイトレイブンはあれから、見ていない。次に現れるときは、黙示録だ。が、私は世界の終わりを信じない、人類はきっと、この試練を乗り越えて、過去と訣別し、新次元にランクアップできる。宇宙と自然に調和した愛の世界、トンネルの暗闇を突き抜けた向こうに見えるひと筋の光明、私はそこに向かって歩み出す、今はどんなに辛くとも。

パラレルワールドをかいま見たことで、人間のレベルが一段アップしたような気がした。世界は人それぞれによって、見え方が違う。未知のウイルスに対する反応もさまざまだ。

恐怖と不安に怯える人がいれば、全く歯牙にかけない人もいる。この世界にあっても、各人によるパラレルが繰り広げられていると考えると、宇宙は無数のパラレルワールドで溢れ返っている。

私、真鍋翔子が見る世界は、私独自の唯一のパラレルだ。私は私のパラレルで、入れ子のようになったもうひとつのパラレルを見た。それは、楽しくスリルに満ちたい冒険だった。

そう考えると、怖くない。豊かな経験なのだ。いつかこの地球を襲った前代未聞規模の疫病流行が役立つ体験として、生きることもあろう。

2020年も終わろうとしている。新しく年が明けても、戦いは続くだろう。二重にマスクを装着した私は、サバイバルの意志も新たに、パンデミックにもかかわらず、師走で人出の多い町中を力強く歩き出した。人、人、人、異様なのは、誰もが顔の下半分を覆っていることだった(「2020年」はモハンティ三智江さんがインドで隔離生活を送る中、創作活動にも広げており、「インド発コロナ観戦記」とは別に、短編など小説に限定してひとつのタイトルで掲載します。本人の希望で画像は使いません)。