大丸松坂屋画廊で平野淳子「新国立競技場」展、変遷を日本画で

【銀座新聞ニュース=2021年7月14日】国内百貨店業界2位の流通グループ、J.フロントリテイリング(中央区八重洲2-1-1)傘下の大丸松坂屋百貨店(江東区木場2-18-11)が運営するアートギャラリー「Artglorieux GALLERY OF TOKYO」(中央区銀座6-10-1、GINZA SIX、03-3572-8886)は7月15日から21日まで平野淳子さんによる個展「ゲニウスロキ  国立競技場」を開く。

大丸松坂屋百貨店のギャラリー「アールグロリュー ギャラリーオブトーキョー(Artglorieux GALLERY OF TOKYO)」で7月15日から21日まで開かれる平野淳子さんの個展に展示される「新国立競技場」。

和紙に墨で描く画家の平野淳子さんは新国立競技場の建築の変遷を写真におさめ、デジタルと伝統的な日本画の技法を行き来して地霊が宿る土地の記憶の表現を試みた作品集「ゲニウスロキ・記憶」(平凡社、3300円)を3月に刊行している。

ゲニウスロキとは「土地の精霊」や「地霊」と訳され、文化的・歴史的・社会的な土地の可能性を示す概念で、平野淳子さんはこの概念を「時空を超えてその土地の記憶に思いを馳せること」と捉え、「土地の記憶というものは、消そうと思ってもどこかにその性質を残してしまう。後の人が変えようとしても、目に見えない何かが残って、湿気や風や匂いになって漂っているような気がする」としている。

青山練兵場、学徒動員壮行会、先のオリンピックなど数々の歴史を刻んできた土地に建てられた国立競技場は、47都道府県すべての樹々を使っている。もともと明治神宮の杜は日本中から集められた樹々によって創られた場所でもあり、これらの歴史を踏まえて建てられた競技場は、土地の記憶、ゲニウスロキを体現している。

平野淳子さんは日本の樹や鳥を写真に収め、薄さや風合いの違う和紙を使って、裏打ちで日本画のように、また写真のレイヤーのように重ねていくことでデジタルと古典的技法の融合を試みた。「そこには記憶の重なりとともに、古典的な技法から現在の技法までが折り込まれている」という。今回は新作を含めて展示する。

同じく青山練兵場時代を表現した作品。

「アートスケープ」によると、事物に付随する守護の霊という意味の「ゲニウス(Genius)」と、場所・土地という意味の「ロキ(Loc)」の2つのラテン語をもととし、場所の特質を主題化するために用いられた概念という。物理的な形状に由来するものだけではなく、文化的、歴史的、社会的な土地の可能性を示している。

日本では「土地の精霊」または「地霊」などと訳される。18世紀の英国の詩人であり、建築を道楽としていた、アレグザンダー・ポープ(Alexander Pope、1688-1744)が「第3代バーリントン伯爵リチャード・ボイル(The Rt.Hon.Richard Boyle、3rd Earl of Burlington、1694-1753)への書簡」(1731年)という詩のなかで、庭園を設計するにあたりゲニウス・ロキの概念を用いたことにより注目されるようになった。

ノルウェーの建築史家クリスチャン・ノルベルグ=シュルツ(Christian Norberg-Schulz、1926-2000)の「ゲニウス・ロキ 建築の現象学をめざして」(1980年)で近代建築論の主題が空間から場所へと移行したことが述べられ、ロマン的、宇宙的、古典的視点から場所と建築の具体的な結びつきの事例を考察した。

「ゲニウス・ロキ」は、普遍的な近代建築に対する地域主義やヴァナキュラー建築、ポストモダンの再評価とも連動する。日本では、英国の建築史を専門とする鈴木博之さんが、建築における場所性を重要視して、ゲニウス・ロキの概念を広めた。

ウイキペディアによると、国立競技場は1958年に完成され、2014年5月に閉鎖された国立霞ヶ丘陸上競技場(こくりつかすみがおかりくじょうきょうぎじょう)のことで、独立行政法人日本スポーツ振興センター (JSC) によって運営された。

明治神宮外苑、国立霞ヶ丘競技場、青山霊園のある一帯は江戸時代には青山氏の大名屋敷敷地で、1886(明治19)年に敷地跡の北側に青山練兵場が設けられた。明治天皇(1852-1912)崩御後に練兵場に明治神宮外苑を建設されることとなり、その敷地の一部を用いて1924(大正13)年に明治神宮外苑競技場が設けられ、大東亜戦争時の1943年10月21日に学徒出陣の壮行会会場となった。

1945年の日本の敗戦後は連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) に接収されて「ナイル・キニック・スタジアム(Nile Kinnick Stadium)」という名称で使用され、1952年の接収解除後は再び一般に開放され、明治神宮外苑部の管理下となった。1958年にアジア競技大会と国民体育大会の会場となることが決まり、1956年に明治神宮から文部省に譲渡され、新設の競技場が整備された。

競技場は1957年1月に起工し、1958年3月に竣工し、同年のアジア大会を開催され、1959年に東京国体のメインスタジアムとして陸上競技が開かれた。1964年に開かれた東京オリンピックのメインスタジアムとして使用され、11億7800万円かけてスタンドの増築が行われた。

聖火台(高さと直径2.1メートル、重さ2.6トン)は、埼玉県川口市の鋳物職人の故鈴木万之助が引き受け、彼の死去後に3男の故鈴木文吾(すずき・ぶんご)が完成させた。1958年から日本陸上競技選手権大会が開かれ、2005年まで断続的に利用された。サッカーの競技場としては1968年から天皇杯全日本サッカー選手権大会が開かれ、1969年1月1日に初めて天皇杯決勝戦が国立競技場で実施された。

1976年度から全国高等学校サッカー選手権大会も開かれ、上位進出を決めたチームのみが国立でプレーするため「高校サッカーの聖地」といわれた。1970年代から1980年代の「ラグビーブーム」では日本ラグビーフットボール選手権大会などの試合が開かれ、1980年から2001年まではトヨタ・カップ(サッカー)の会場として用いられた。陸上競技の会場としては走行レーンが8レーンしかなく、サブトラックが400メートルトラックでないために、現在の国際陸上競技連盟の規格を満たしていない。トラックを使用した国際陸上競技大会としては、1999年にスーパー陸上が行われてから、2013年にゴールデングランプリ東京が開催されるまで久しく行われなかった。

独立行政法人「日本スポーツ振興センター」が管理団体になってからは断続的に施設改修が行われ、2000年代からは音楽コンサートなどの利用も進められている。2005年に初めて「SMAP(スマップ)」がコンサートに使用したが、打診してから使用許可まで5年間を要した。コンサート以外のイベントとしては、2009年7月5日に石原裕次郎(1934-1987)23回忌法要が開かれた。

2015年に解体され、その跡地に新国立競技場が建設された。2015年12月22日に大成建設、梓設計、隈研吾さんのチームによるA案に決定され、2016年12月11日に約24億9127万円で競技場整備の第I期事業を契約し、2019年11月30日に完成された。総工費は1569億円(予定では1490億円)となっている。

平野淳子さんは武蔵野美術大学日本画科を卒業、2014年、2015年に上野の森美術館大賞展で入選、2015年に損保ジャパン日本興亜美術賞フェイス(FACE)2015で読売新聞社賞などを受賞している。

開場時間は10時30分から20時30分(最終日は18時)まで。入場は無料。