国立映画で円谷英二生誕120年展、「かぐや姫」の上映も

【銀座新聞ニュース=2021年8月17日】独立行政法人「国立美術館」が運営する国立の映画機関、国立映画アーカイブ(旧東京国立近代美術館フィルムセンター、中央区京橋3-7-6、050-5541-8600)は8月17日から11月23日まで7階展示室で「生誕120年 円谷英二展<特撮の父>ーその黎明から階下へ」を開いている。

国立映画アーカイブで8月17日から11月23日まで開かれる「生誕120年 円谷英二展<特撮の父>ーその黎明から階下へ」のフライヤー。

「特撮の父(神様)」といわれた円谷英二(つぶらや・えいじ、1901-1970)は、2021年に生誕120年を迎えた。福島県須賀川市(すかがわし)に生まれ、若き日は飛行機の操縦士をめざし、1919年に東京で映画界に入り、松竹の時代劇のキャメラマンとして頭角を表した。

アメリカ映画「キング・コング」(1933年)に魅入られて特撮の研究を始め、東宝撮影所の航空映画に貢献し、戦争映画「ハワイ・マレー沖海戦」(1942年)で日本映画界に特撮の意義を知らしめたという。

日本初の「特技監督」として数々の特撮映画・怪獣映画を送り出し、1963年には「円谷特技プロダクション(現・円谷プロダクション)」を興してテレビ特撮の礎を築き、後進の育成にも努めた。

今回は、円谷英二の生誕120年を記念して、須賀川市との共催により実現し、英国で新たに発掘された円谷英二撮影の初期作品「かぐや姫」(1935年)も含めて、若き日の功績にも注目しながらその生涯を紹介する。

とくに、映画界入りしてからキャメラマンとして時代劇映画の撮影で独自の地位を築いた前半生のキャリアに注目し、デビュー作とされる「延命院の傴僂男(せむしおとこ)」(1924年)上映館のプログラム(複製)や、松竹下加茂撮影所在籍時代の貴重な写真、円谷英二が1932年の設立に参加した日本カメラマン協会発行の機関誌「カメラワーク」など、これまで知られていなかった貴重な資料を展示する。

また、英国の英国映画協会(BFI)で見つかった円谷英二撮影作品「かぐや姫」(1935年)の一部を展示室内のモニターで見ることができる。

ほかに、国立映画アーカイブ所蔵の特撮映画・怪獣映画ポスターの中から、8枚組の「モスラ」(1961年)、3枚組の「世界大戦争」(1961年)や「キングコング対ゴジラ」(1962年)など公開当時のポスターを展示する。

須賀川特撮アーカイブセンターからは、お馴染みの東宝マークを撮影するための機材や「青島要塞爆撃命令」(1963年)に使われた輸送列車ミニチュアの貨車の台車などを出品する。

展覧会の構成としては、第1章「若き映画キャメラマンとして」で、日本映画草創期のキャメラマン枝正義郎(えだまさ・よしろう、1888-1944)の下で修業し、1923年の関東大震災後にキャメラマンとして一本立ちし、京都に移り、松竹下加茂撮影所で本格的にキャメラマンとして活動を開始した。

第1章では松竹下加茂時代を中心に、数々の貴重な写真やポスター、台本、雑誌などから、円谷英二がその撮影技術の基礎を作り、特撮という次のステップに進むまでの時代をたどる。

第2章「特撮への志」では、「キング・コング」に衝撃を受け、現在の東宝の前身会社のひとつであるJ.O.スタヂオへの入社を転機に、合成技術やスクリーン・プロセスといった撮影技術を深化させた。

第2章では、円谷英二がそれまでに築き上げたキャメラマンのキャリアから特撮というフィールドに踏み出して、その地位を確立した時代をたどる。

第3章「東宝特撮の時代」では、円谷英二は1954年の「ゴジラ」(本多猪四郎=1911-1993=監督)第1作によって日本映画に特撮映画・怪獣映画という新しいジャンルを開いた。

第3章では「ゴジラ」に始まるさまざまな作品のポスターと並んで、2020年11月に故郷に設立された須賀川市アーカイブセンターの保存資料も展示し、もっとも知られている時代の足跡をたどる。

第4章「円谷プロの創設」では、1963年に円谷特技プロダクション(現・円谷プロダクション)を設立してから1970年に亡くなるまでの間、円谷英二は多くの後進を育てながら、1966年1月放映開始の「ウルトラQ」をはじめとするテレビの特撮番組という新たな路線を確立した。

怪獣が人気を集める一方で、円谷英二は若き日に憧れた日本の初期のパイロットたちを描く「ニッポン・ヒコーキ野郎」という企画を長年温めていた。第4章では円谷英二の晩年の活動をたどる。

ウイキペディアによると、円谷英二は1901年7月7日福島県須賀川町生まれ、生家は大束屋(おおつかや)という糀業を営む商家だった。1904(明治37)年に母セイ(1885-1904)が次男出産後に病死(享年19)、婿養子だった父の白石勇は離縁され、円谷英二は祖母ナツに育てられる。1910(明治43)年に東京の代々木錬兵場で徳川好敏(1884-1963)、日野熊蔵(1878-1946)両大尉が飛行機により日本初の公式飛行に成功し、これに強く感銘を受け、操縦士に憧れを持ち、模型飛行機の制作に没頭した。

1916(大正5)年11月、操縦士を夢見て、玉井清太郎(1892-1917)の紹介で、東京航空輸送社が8月に開校したばかりの日本飛行学校に第1期生として入学、入学金は当時で600円したが、叔父の一郎が工面してくれた。1917(大正6)年、日本飛行学校が帝都訪問飛行に失敗し、1機しかない飛行機が墜落し、この事故により唯一の教官であった玉井清太郎が死亡し、同校は活動停止、閉鎖され、退学した。

1917年、東京・神田の電機学校(現東京電機大学)に入学、同時に内海玩具製作所というおもちゃ会社の考案係嘱託となり、1919(大正8)年、電機学校を修了後、新案の玩具「自動スケート」や「玩具電話」などが当たって「500円(当時)」という多額の特許料が入った。その祝いに玩具会社の職工たちを引き連れて飛鳥山に花見に繰り出した際、職工たちが隣席の者たちと喧嘩を始め、円谷英二が仲裁した。その際に、喧嘩相手だった映画会社の天然色活動写真株式会社の枝正義郎に認められ、同社に入社し、キャメラマンをめざして映画界に入った。同社は1919年、国際活映(国活)に吸収合併された。

1920(大正9)年に会社合併に伴い、国活巣鴨撮影所に入社した。国活ではキャメラマン助手であったが、飛行機による空中撮影を誰も怖がって引き受けなかったところ、円谷英二が名乗り出て、見事やり遂げ、短期間でカメラマンに昇進した。

1921年(大正10)年、20歳で兵役に就き、会津若松歩兵連隊で通信班所属となった。1923(大正12)年に除隊後、国活に復帰して「延命院の傴僂男」を撮影、この作品は1924年翌年元旦より浅草大東京館にて公開された。1924(大正13)年に震災後、各映画撮影所が京都へ移転したため、円谷英二も京都に居を移し、小笠原プロダクションに所属した。
1926(大正15)年、衣笠映画聯盟を設立(松竹傘下)とともに、連盟に所属、「狂った一頁」の撮影助手を担当した。

1927(昭和2)年に林長二郎(長谷川一夫、1908-1984)の初主演作「稚児の剣法」(監督:犬塚稔=1901-2007)でカメラマンを担当、林を何重にもオーバーラップさせる特撮手法などの特殊撮影の開発を採り入れ、映画は大成功となった。1928(昭和3)年に松竹京都下加茂撮影所に入社、「怪盗沙弥磨」が入社第1作となり、「十字路」(監督:衣笠貞之助)を撮影するものの、その進歩的な撮影手法はリアリティ重視だったため、旧来の俳優からの反発を受けた。

1930(昭和5)年に自費を投入して、移動撮影車や木製のクレーンを制作するが、このクレーンで俯瞰撮影中に転落事故を起こし、その看病をしてくれた縁で知り合った荒木マサノ(当時19歳)と結婚した。1932(昭和7)年に杉山公平(1899-1960)の音頭取りの下、京都の映画人らと「日本カメラマン協会」を結成し、犬塚稔とともに日活太秦撮影所に引き抜かれて移籍した。1933(昭和8)年に日活入社初作品として、大河内傳次郎(1898-1962)の「長脇差風景」を撮影、同年に公開された映画「キング・コング」を試写で鑑賞し、特撮に衝撃を受け、フィルムを独自に取り寄せ、一コマ一コマを分析し研究した。

1934(昭和9)年に市川百々之助(1906-1978)の顔に「ローキー照明(キーライト)」で影を作り、その撮影手法を巡って日活の幹部と対立、同社を退社し、撮影技術研究所主任として、東宝の前身である「JOトーキー」(1937年9月10日、冩眞化学研究所、P.C.L.映画製作所、東宝映画配給の3社とJOトーキーが合併し、「東宝映画株式会社」が設立)に移った。1935(昭和10)年に2月から8月にかけ連合艦隊の練習艦「浅間」に乗艦、ハワイからフィリピン、オーストラリア、ニュージーランドを回り、練習生の実習風景の長編記録映画「赤道を越えて」を撮影、監督第1作となった。政岡憲三(1898-1988)と組み、「かぐや姫」(監督:田中喜次=1907-1982)を撮影した。

1936(昭和11)年にナチス・ドイツとの合作映画「新しき土」で、日本で初めてスクリーン・プロセスの技術を使用した。「日本スキー発達史」(澤蘭子=1903-2003=主演)をアーノルド・ファンク(Arnold Fanck、1889-1974)監督のスタッフとともに撮影するも、未編集のままお蔵入りした。同年、人気芸者・市丸の主演2作目となる「小唄磯 鳥追いお市」で、監督、撮影、編集すべてを手掛けた。

1939(昭和14)年、陸軍航空本部の依頼により、嘱託として埼玉県の熊谷陸軍飛行学校で飛行機操縦の教材映画「文化映画」を演出兼任で撮影、「飛行理論」の空中撮影を、1人で操縦しながら撮影、アクロバット飛行も披露してみせた。この空撮部分は「飛行機は何故飛ぶか」や「グライダー」にも活用され、「嗚呼南郷少佐」を監督(撮影兼任)した。

1940(昭和15)年5月に「皇道日本」で撮影を担当、「海軍爆撃隊」では、初めてミニチュアの飛行機による爆撃シーンを撮影、初めて「特殊技術撮影」のクレジットがついた。
同年9月に「燃ゆる大空」で特撮を担当、日本カメラマン協会特殊技術賞を受賞した。1941(昭和16)年12月8日、大東亜戦争突入し、東宝は軍の要請による戦争映画を中心とした戦意高揚映画を制作し、特技課が以後、特撮が重要な役目を果たす戦争映画すべてを担当した。

1941年に「上海の月」で上海湾内を襲う台風の大がかりなミニチュア特撮を担当、1942(昭和17)年に「南海の花束」で本格的なミニチュアワークによる特撮シーンを演出した。1942年12月8日、「ハワイ・マレー沖海戦」が公開され、大ヒットした。とくにフルスケールのハワイ・真珠湾の特撮セットが話題となり、「日本映画撮影者協会技術研究賞」を受賞し、製作部特殊技術課長兼特殊撮影主任に就任した。

1944(昭和19)年、「加藤隼戦闘隊」をはじめ、「雷撃隊出動」、「あの旗を撃て」、「かくて神風は吹く」といったすべての特撮を担当し、東宝は創立記念日に山本嘉次郎と、円谷英二を功労者表彰した。1945(昭和20)年も「勝利の日まで」、「間諜海の薔薇」、「北の三人」の特撮を担当、大映京都で「生ける椅子」を担当した。同年8月1日、召集令状を受け、仙台連隊に入隊するも敗戦、除隊後、「東京五人男」(斎藤寅次郎監督)の特撮を担当した。1946年に東宝がこの年製作した18本の映画のうち8本の特撮を担当した。

1947年に撮影所は前年3月からこの年10月まで東宝争議に突入し、東宝は映画製作どころではなくなり、円谷英二も「『東宝千一夜」と「九十九人目の花嫁」の2本の特撮を担当したのみだった。しかし、政治闘争の場と化していく撮影所内部に嫌気がさし、東宝を離れ独立した。1948年3月に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の公職追放の指定によって「戦時中に教材映画、戦意高揚映画に加担した」として、公的な立場での仕事が続けられなくなり、重役陣ともども東宝を追放され、正式に東宝を依願退職した。

1948年、フリーとなり、東京・祖師谷の自宅の庭にプレハブを建て、「円谷特殊技術研究所」を設立、外部スタッフとして「富士山頂」(新東宝)、「肉体の門」(吉本プロ)、「颱風圏の女」(松竹大船)の特撮技術パートを担当した。1949年に大映京都撮影所で「透明人間現わる」と「幽霊列車」の特撮シーンを担当した。1950年に「日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声」の特撮を担当、同時に東宝撮影所内に「円谷特殊技術研究所」を移設した。

このころから東宝の本編のタイトルや予告編を制作するようになり、主に合成処理を請け負い、1950年から1954年までの東宝すべての本編・予告編のタイトルを撮影、東宝映画の東宝マークを作ったのもこの時期である。1950年の「佐々木小次郎」での特撮が東宝作品の復帰第1作となった。1952年に公職追放解除を受け、「港へ来た男」の特殊技術を担当し、正式な作品契約としての東宝復帰作となる。

1953年に東映で「ひめゆりの塔」、重宗プロ他で「雲ながるる果てに」を担当、戦記大作「太平洋の鷲」が公開され、特技監督を担当した。さらに日本初の立体映画(トービジョン)作品「飛び出した日曜日」や「私は狙われている」で立体撮影を担当した。1954年11月3日に日本初の本格的特撮怪獣映画「ゴジラ」が公開され、空前の大ヒットとなり、「日本映画技術賞」を受賞した。1955年に「ゴジラの逆襲」で特技監督の役職を与えられた。

その後、怪獣・SF映画において特撮技術を監督し、これらは東宝のドル箱シリーズとなった。1957年に「地球防衛軍」で「日本映画技術賞」を受賞、1958年に日米合作企画「大怪獣バラン」を担当、1959年に6200万円(当時)の予算を投じた国産初のカラー・シネスコ用合成機「トーホー・バーサタイル・プロセス」を「日本誕生」で日本初使用し、「日本映画技術賞」を受賞した。1960年公開の「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」を撮影し、1961年公開の「モスラ」の特技監督を務め、1962年に韓国との合作映画「大沈清伝」の特撮を担当した。

1963年に東宝との専属契約解除し、東宝の出資とフジテレビの後押しを受け、「株式会社円谷特技プロダクション」を設立、初仕事として日活・石原プロ提携映画「太平洋ひとりぼっち」の嵐の特撮シーンを担当した。1965年に「太平洋奇跡の作戦 キスカ」と「怪獣大戦争」で「日本映画技術賞」を受賞、1966年に1月2日より、円谷特技プロが1年かけて映画並みの製作費と体制で製作したテレビ特撮番組「ウルトラQ」がTBSで放映開始され、日本全国に一大「怪獣ブーム」を巻き起こした。

1966年7月より、円谷特技プロのテレビ特撮番組第2弾「ウルトラマン」の放映を開始、1967年に「キングコングの逆襲」を公開、同年に公開した「怪獣島の決戦 ゴジラの息子」で「ゴジラシリーズ」から身を引いた。1969年に公開した「緯度0大作戦」と「日本海大海戦」が最後の特撮劇場作品となった。1970年1月25日、静岡県伊東市の浮山別荘にて静養中、気管支喘息の発作に伴う狭心症により死去した(68歳)。最後まで映画「ニッポン・ヒコーキ野郎」と長編特撮映画「かぐや姫」の企画を練っていた。1月30日に政府より勲四等瑞宝章を授与された。

9月4日の13時30分、15時45分、19時15分、5日の11時30分、14時15分、17時15分に地下1階の小ホールで「かぐや姫」(33分、白黒)を上映する。

開場時間は11時から18時30分まで。入場料は一般250円、大学生130円、65歳以上、高校生以下、18歳未満、障がい者(付添者は原則1人まで)、国立映画アーカイブのキャンパスメンバーズは無料。月曜日および9月7日から10日、9月26日から10月3日、10月12日から15日は休み。

「かぐや姫」の上映は一般520円、高校生、大学生、65歳以上310円、小中学生100円、障がい者(付添者は原則1人まで)、国立映画アーカイブのキャンパスメンバーズは無料。8月27日10時よりチケットぴあにて全上映回の前売指定席券(全席指定席、入替制)を販売する。