緋色の花神(中)-亡き母への挽歌<母の生い立ち>

【モハンティ三智江の異国の地から母に捧げる記=2021年11月2日】私の母、荒木(旧姓・斎藤)幸(ゆき)子は1929(昭和4)年12月18日、福井県坂井郡春江町江留中で7人きょうだいの長女として生を授かった。地主の旧家で「蝶よ花よ」と育てられた利発な美少女は、学童期に入っても、級友にちやほやされ、教師に可愛がられた。女学生時代は、S(当時流行った同性愛的友情)が流行り、下駄箱を開けると、「憧れの君、幸子様」宛てのラブレターがどっさり落ちてきたそうだ。

福井地震は1948年6月28日16時13分頃、福井県嶺北地方北部(現在の坂井市丸岡町付近)を震源として発生、マグニチュード7.1と、当時の震度階級としては最大の震度6を記録した。写真は倒壊した大和百貨店だが、母の生まれ育った春江町江留中の広壮な屋敷も全壊、逃げ遅れた11歳の末妹が犠牲になった(画像はウィキペディア)。

が、11歳の多感な少女のとき、1941(昭和16)年12月8日に大東亜戦争が勃発、希望に満ちた青春は暗く塗り替えられる。年ごとに戦局が悪化し、大好きな学業もままならず、女学校に上がってからは勤労奉仕で軍服の縫製工場に動員された。暗いご時世の中、文学少女だった母は、親に隠れてこっそり納屋で読書に耽(ふけ)った。中でも、宮本百合子(1899-1951)の「伸子」は、早熟な乙女の愛読書だった。

1945(昭和20)年7月19日、福井市を大空襲が襲う。実家の屋根から赤く燃え上がる市街を目撃、明日の命はわからないと15歳の母は恐怖に駆られた。

同年8月15日終戦、が、戦後の農地解放で、大地主だった生家は没落、3年後の1948(昭和23)年6月28日に追い打ちをかけるように福井地震(震度6)が直撃、広壮な屋敷は全壊、柱の下敷きになって11歳の末妹が亡くなった(著者注:私の名前はこの地震で犠牲になった叔母・三智子の頭文字を取ったもの)。

5年後、知人の紹介で見合い結婚、相手は自動車整備工場を起ち上げたばかりのひとつ年上の青年だった。当時にしては、背も高くすらりとした美人だった母にやや不釣り合いな、背の低い眼鏡顔の不細工な男だった。が、父に見所ある若者だと、意気込みを買われたのである。婿候補となる適齢期の若者が多数戦死したこともあって、嫁(ゆ)き遅れていた母だけに、家長の絶対命令には逆らえなかった。

長女として、常にきょうだいの模範となることを強いられ、本来のわがままなお嬢様ぶりは影を潜めていた。才色兼備で親の期待も人一倍、長女としてしっかりしなければとの思いが常について回った。

福井市勝見町に、役場勤めだった義父が新婚夫婦のため一軒家をプレゼント、表に工場がある職住近接の生活が始まった。私こと長女の三智江が産まれるまでは、夫婦仲はすこぶるよかったらしい。母がお産で実家に帰っているうちに夫の浮気が発覚、信頼していた配偶者の早すぎる裏切りに、乳児を抱えた母はショックに打ちのめされる。

以後、嫁姑問題も加わり、夫婦仲はますますこじれ、修復不能となった。事業が成功した父は、浮気は男の甲斐性とばかり、まだ家族が移り住む前の新居に玄人女を連れ込んだり、女事務員と深い関係になって、別宅に囲ったりと、財力を盾に放蕩の限りを尽くした。

一方、4児を抱え、経済的自立手段を持たぬ母は、離婚に踏み出す勇気もなく、気持ちを抑圧し続けた結果、精神的に破綻する。上辺は気丈に見せても、内面はもろかった。

1979(昭和54)年、父は全身転移ガンで壮絶死、享年51、母は49歳の若さで未亡人になった。死の直前、不仲の夫の病床に子連れで駆けつけた母には、父が虫の息で心配せんなやと最期の思いやりを示してくれたことだけが、せめてもの救いだったかしれない。

私は、父方の叔父に母のためにも帰郷して父が創立した同族会社に勤めないかと勧められ、母もそれを希んでいるのを知りながらも、葬儀後東京にとんぼ帰りした。家の犠牲になりたくなかったのである。将来、物書きになりたいとの夢を持っていた私は、若くエゴイスティックで、母の窮状を顧みない、親不孝で冷たい娘だった。

以後も、紆余曲折があり、母の人生は苦労の連続だったが、父の遺産のおかげで経済的には恵まれた生活を送ることができた。ホームに移る前の15年間は比較的穏やかで、精神の病に苦しめられながらも、独り暮らしを満喫、気分のいいときはショッピングを楽しんだり、各種展示会を見に行ったりと、自由気ままな暮らしをできる範囲で堪能したようだ。

ホームに移る前、マンションの整理に行ったら、衣装道楽らしく、たくさんのピラピラした服が出てきて、取捨選別するのに苦労したものだ。お洒落な母らしく、随分溜め込んだものだと、舌を巻いた。昔から高級化粧品嗜好てもあり、お肌の手入れを怠らなかったせいか、高齢になってもあまりしわがなく、白髪はさておき、容貌は比較的保たれていた。

美しい女(ひと)、だった。若い頃は、着物も着こなし、よく似合っていたし、子ども心にも綺麗だと思ったし、友達からも褒められたりして、鼻高々だった。年老いてからは、あくが抜けて童女のような放縦できかんきな可愛らしさが増し、ピュアなひたむきさが際立った。

●時代に押しつぶされた母の夢

母の女学生時代の写真。清楚で理知的な美人で、同級生の人気は高く、憧れの存在として慕われた。

母はよく女学生時代の思い出話を問わず語りにしてくれたものだが、中でも、先達の卒業生に草分けの婦人記者として活躍している女(ひと)がいることを、羨ましそうに話していたことを思い出す。女学生時代、勉学優秀だった母は、担任から進学を勧められながらも、因習的な時代ゆえ、女に学問は不要と親の許可が出なかったのだ。後年、祖母はこんなことなら、京都の女子大にやって教師にしとけばよかったと悔やんでいた。

文学好きだった母は、物書きに憧れ、東京に出ることを夢見ていたようだ。国語が得意だった母の女学生時代の作文を読んだことがあるが、年の離れた末弟との何気ない日常を綴った、字も美しい、大人びた文章だった。

母は、古い因習にとらわれる田舎町の縛りから外れ、もっと自由に職業婦人として活躍したかったようだ。祖母の言うように、物書きは難しくても、国語の先生になっていたら、その後の人生は随分違ったものになっていたろう。

激動の時代に思春期を通過した母は、才色兼備と恵まれながら、活かし切れなかった、時代の犠牲になったと、私は思っている。もし、もう少し後の世に産まれていたら、女性の進学、自立はずっとたやすくなっていたはずだ。娘の私としては、そのことを口惜しく思う。4人の子どもの犠牲になって埋もれる人ではなかった。容姿端麗で頭のよかった母だけに、10の才能が0になってしまったことが残念でならない。

母は、昔の良妻賢母型のしつけ教育で、人並みに料理もでき(煮物などの田舎料理がうまかった)、洋裁は特に上手だったし、花好きで生け花も習ったりしたが、掃除・整頓が苦手で、決して家庭的な人ではなかった。むしろ、男勝りで勝気、手に職を持って社会で活躍するタイプだった。

向田邦子(1929-1981)が母と同い年だったことに最近、気がついたが、脚本家・直木賞作家として華々しく活躍していた彼女(前身は映画雑誌記者だった)の存在を母が知らなかったはずがなく、内心うらやんでいたと思う。片や、キャリアの頂点に立ち華やかなスポットライトを浴びたスター作家、自分は4人の子どもにがんじがらめで身動きが取れない不幸のどん詰まりの主婦。進学を許してもらえなかったことを、どんなにか恨んだことだろう。

いっそ別れて再出発をと思っても、親が世間体や子どものためにもよくないと許さず、不仲の夫の経済力に頼らざるを得ず、八方立ち塞がりで追い詰められた挙句、ノイローゼになった。

夢の中で、鮮やかな緋色の花に埋もれていた母、彼女はきっと、真っ赤な花のように華麗で目立つ人生を送りたかったに違いない。華々しくスポットライトを浴びて、颯爽と生きる美しくパワフルな女性、来世に生まれ変わったら、埋め合わせとしてきっとそうなると信じたい。

負のカルマはすべて払い終わった、今頃、天国で伸び伸びと軽やかに、不自由な肉体の縛りから解かれて、本来の魂の輝きを取り戻し、至福の境地にあるに違いない。若返った母のまぶしく美しい笑顔が目に浮かぶようだ(「緋色の花神」はインドにいて帰国もできない状況の中で、著者が最近亡くなった母に対する想いを書いています。3回の予定です)。