丸善日本橋で沖縄の染織と民具展、鈴木隆太、是枝麻紗美ら

【銀座新聞ニュース=2022年6月21日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は6月22日から28日まで3階ギャラリーで「沖縄本土復帰50周年記念 めぐり逢う沖縄の染め織り」展と「みんなの沖縄民具」展を開く。

丸善・日本橋店で6月22日から28日まで開かれる「めぐり逢う沖縄の染め織り」展に出品される作品。

「めぐり逢う沖縄の染め織り」に出品するのは「鈴木芭蕉布工房(芭蕉布)」(沖縄県国頭郡宜野座村漢那1721ー4、090-9781-7639)の鈴木隆太さん、起田(おきた)奈津子さん(首里織)、「アトリエ Kei Fleur」(沖縄県那覇市首里石嶺町2-92、プラザ石嶺Ⅱ、070-5698-2187)の玉城由紀さん、「TEORI WORKS OKINAWA(テオリ・ワークス・沖縄、南風原花織=はえばるはなおり)」(沖縄県島尻郡南風原町兼城294-2、090-9787-4128)の宮城麻里江さん。

工房「花藍舍(琉球藍織物)」(沖縄県うるま市勝連南風原152)を主宰する宮良千加さん、「城間びんがた工房(琉球びんがた)」(沖縄県那覇市首里山川町1-113、098-885-9761)を主宰する城間栄順さんと城間栄市さん、「紅型工房べにきち(琉球びんがた)」(沖縄県国頭郡本部町瀬底94、0980-47-4451)を主宰する吉田誠子さん、「カタチキ(琉球びんがた)」(沖縄県那覇市首里崎山町4-1、098-911-8604)の染色担当の姉、崎枝(さきえだ)由美子さんとデザイン、パターン、縫製担当の妹、比嘉裕子さん。

「紅型工房ひがしや(琉球びんがた)」(沖縄県那覇市、090-1179-6198)の道家(どうけ)良典さんと道家由利子さん、「琉衣(りゅうい、琉装)」を主宰するドゥジン(胴衣)作家の砂川恵子さん。

「みんなの沖縄民具」展に出品するのは、「陶芸こまがた(やちむん)」を主宰する駒形爽飛さん、「金細工まつ(琉球錫器=りゅうきゅうすずき)」(098-914-4228)を主宰する上原俊展(としのり)さん、「シーサー陶房大海(やちむん)」(沖縄県国頭郡大宜味村津波1971-678、0980-44-2424)を主宰する大海陽一さん、「種水土花(しゅみどか、草編細工)」(沖縄県伊平屋村字我喜屋2135-63、090-1944-6702)の是枝麻紗美さん、「再生ガラス工房てとてと(琉球ガラス)」を主宰する松本栄さん。

ウイキペディアによると、沖縄は1879(明治12)年4月5日に琉球藩を廃止して沖縄県を設置した。1951年に第2次世界大戦の講和条約(サンフランシスコ講和条約)で、アメリカの施政権下に置かれるものとされ、同条約は1952年4月28日に発効し、沖縄は日本本土から切り離された。

アメリカは、「行政主席」を行政の長とする琉球政府を置き、公選の議員で構成される立法機関「立法院」を設けるなど一定の自治を認めたが、最終的な意思決定権はアメリカが握ったままであった。

琉球諸島への出入りは厳しく管理され、渡航にはパスポートが必要であった。1950年6月25日に北朝鮮が韓国に軍事侵攻したことにより朝鮮戦争が、1960年12月に南ベトナム解放民族戦線が南ベトナム政府軍に対する武力攻撃を開始したことでベトナム戦争がおこるなど、1950年代から1960年代にかけて東西冷戦が過熱する中で、アメリカの沖縄の扱いは施政権下においての自治から、ソ連や中国、北朝鮮などの東側諸国に対しての抑止力を持った軍事基地、そしてフィリピンやタイの基地と並ぶベトナム戦争の爆撃機拠点および後方支援基地としての重要性を重視する方向に変わった。

1969年に行われた佐藤栄作首相(1901-1975)とニクソン大統領(Richard M.Nixon、1913-1994)との日米首脳会談で、ベトナム戦争の近年中の終結を考えて、繊維製品の輸出自主規制と引き換えに沖縄返還を約束し、アメリカ軍基地を県内に維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還が決定し、1971年沖縄返還協定に調印、1972年5月15日に日本へ復帰した。1973年3月29日にアメリカ軍がベトナムから全面撤退した。しかし、2020年でも米軍専用施設面積の約70%が沖縄県に集中し、沖縄本島の14.5%が基地に占められる(県全体の基地の割合は8.1%)。

「芭蕉布」はバショウ科の多年草イトバショウから採取した繊維を使って織られた布(織物)で、沖縄県および奄美群島の特産品とされている。薄くて軽く、張りのある感触から、汗をかきやすい高温多湿な南西諸島や日本本土の夏においても、肌にまとわりつきにくく、涼感を得られる。このため着物、蚊帳、座布団など幅広く利用されている。

1974年に沖縄県大宜味村喜如嘉の芭蕉布が国の重要無形文化財に指定されており、俳諧においては、夏の季語となっている。

Galleryはらいそによると、「紅型染」は琉球王朝時代、王族や士族の衣装として染められていたとされ、長い歴史の中で幾度となく存続の危機があり、大東亜戦争では多くの型紙や道具が消失した。

しかし、戦後、王朝時代から紅型染めに従事してきた城間家の尽力により、紅型が復興へと向かい、現在の紅型は江戸時代の頃の作品が多く、ほとんどの図案は中国の吉祥文様をベースとしている。図案を考え、型を刀で掘り、糊を置いて、顔料や藍などで染める。作品としては、着物の生地や帯、額絵などから、コースターやカードケース、髪飾りなどまである。

「琉球ガラス」は沖縄本島を中心に作られる、吹きガラスなどの「ホットワーク」と呼ばれる作業で作られる工芸品のことで、沖縄で作られるガラス工芸品のことを「琉球ガラス」と呼ぶ。赤、オレンジ、青、緑など、南国の色を使用した作品や、泡盛やビール瓶などを再利用して、再生ガラスとして作る琉球ガラスがある。

warakuwebによると、「やちむん」は琉球と呼ばれた時代に、清や東南アジアの国々と貿易を行い、14世紀後半から、酒甕(さけがめ)や碗など多くの陶器を輸入し、1429年に「琉球王国」が誕生してからも継続された。ところが、1609年に薩摩の島津藩が琉球を支配下に置くと、1616年に薩摩から招いた朝鮮人陶工が、琉球の湧田村(わくたむら)で製陶技法を伝えたのが、沖縄の陶器生産の始まりとされている。

1682年には点在していた窯場が那覇中西部にある牧志村(まきしむら)の壺屋(つぼや、焼き物産地の意)に集められ、ここで焼かれた陶器は「壺屋焼」と呼ばれた。

「おきなわ物語」によると、明治時代に入ると、琉球王朝は幕を閉じ、焼物に対する王府の庇護もなくなり自由競争へ突入し、本土から安価で丈夫な磁器製品が大量に流入し、、壺屋焼は危機を迎えた。しかし、日用工芸品の美を発掘する民藝運動を率いた柳宗悦(1889-1961)をはじめ、濱田庄司(1894-1978)、河井寛次郎(1890-1966)ら陶芸作家が高く評価し、本土に紹介したことで、多くの人々に認められた。

戦後に入ると、生活必需品である食器や壺などが不足したため、各地に散っていた陶工たちが壺屋に集められ、ここから那覇の復興が始まったが、周辺地域の都市化が進むにつれ、登り窯から出る煙が公害として問題視された。昔ながらの製法にこだわり新たな窯場として読谷村に移る人も現れ、現在は壺屋、読谷村を筆頭に、県内各地でさまざまなやちむんが作られている。

沖縄で神聖な植物として扱われてきた「クバ」(ヤシの仲間)や月桃など沖縄の植物を使って民具をデザインした「草あみ細工」、琉球王朝時代に盛んだった錫の金細工を復元させたのが「琉球錫器」。

「琉装」は、昔の琉球王国における民族衣装のことであり、沖縄県の伝統的な地方衣装をいう。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は15時)。