インドへの郷愁募る中、福井再訪を切望した亡夫の写真(103)

(著者がインドから帰国したので、タイトルを「インドからの帰国記」としています。連載の回数はそのまま継続しています)
【モハンティ三智江のインドからの帰国記=2022年7月29日】あれほどまでに焦がれた日本に戻ったのに、私は今ひとつ浮かなかった。あまりに長く向こうにとどまりすぎたせいで、インドに対する郷愁はひとしおだ。何故?あんなに辟易して、ここには自由がない、早く母国に帰って自由を取り戻したいと希求していたのに。インドを後にしたら、どんなにかせいせいするかと思ったのに。

偶然見つかった亡夫(2019年11月死去)のミニ写真と、2021年10月に他界した母の遺影を窓辺に飾り、毎日祈りを欠かさない。左端の黒い小ケースには、散骨前に一部取り置きした夫の遺骨が納まる。

私は意外な自分の心の動きに戸惑っていた。日本は、終息モードのインドに比べ、コロナ禍が高止まりのまま推移しているだけに、友人知人とも電話のみで当面会合を避けざるを得ない事情もあったかもしれない。

帰って2週間以上が経ち3月も終わろうとしているのに、顔を合わせたのは長弟のみ、私は若い頃、東京勤務だったため、都内に友人が多かったが、その誰一人として会えずに金沢に直帰していた。3回に及ぶ検査で陰性だったものの、万が一濃厚接触者になったときのことを考慮して、会合は控えたのである。

帰国しても、友達と前みたいにおおっぴらに会って、飲食を楽しめるわけでもないとは、因果な時代だ。未接種者なため、敬遠されることもあろうし、とりあえずもう少し収まるまでは慎重にいった方がいいとの制限を自然、己に課してしまった。

いつもインドから日本に戻ってきてしばらくは、新しい環境に馴染めず、プリー(Puri)や現地の家族恋しさに悩まされるのだが、今度ばかりは、あぁ、インドの独房からやっと解放されてせいせいしたと、かの地のことなど、露恋しく思わないはずだと予想していたのに。

が、私はいつものように、去ってきた環境と、家族に執着していた。漠然と、ベンガル(Bengal)海は恋しくなるかもしれないと思っていたけど、ここまでとは。やっぱり、インドが見切れないんだな、当たり前と言えば、当たり前だ、34年も暮らしてきた第2の祖国だもの。一朝一夕に割り切れるはずがない。私は、自分でも思いがけない感情の動きに揺らいでいた。

そんな折、生々しい夢を見た。久々に亡夫が現れる夢だった。夫は、飛行機に乗りたがっていた。乗りたいあまり、地団駄踏んで顔面蒼白に、発作を起こして気を失った。息子が必死に抱き留めて、介抱している。

金沢市の繁華街・香林坊の109ビルの4階に入っているプチシアター、「シネモンド」。過去に、大ヒットしたインド映画「ムトゥ踊るマハラジャ」(1995年、日本では1998年渋谷のシネマライズで公開、25万人観客動員)が上映されたこともあった。コロナ禍で存続が危ぶまれていたようだが、クラウドファンディングで持ちこたえたようで、スクリーンの最後には感謝の意とともに寄付者一覧の氏名があった。

目覚めて、はっと思い知った。誰よりも、私に同行したがっていたのは他ならぬ、夫だったと。息子を連れて帰ることばかり考えていたけど、誰よりも私と同伴帰国したがったのは、夫の方だった。ヒー・イズ・ノーモア、この世にいないからと、私はまたしても、夫を無視してしまった。眼中にまるでなかった。

2年以上前のこと、インドに戻ってしばらくして見た夢で、亡夫は、もう一度福井に行きたかったと訴えてきたものだったのに。歳月が過ぎて、ころりと彼のその悲願を忘れていた、いや、忘れていたわけでなく、遺灰の一部は当初から持ち帰るつもりでいたし、日本海に撒布するつもりで用意していたのだが、遺影をどうしようかと考えて、息子も私もいなくなる家を守ってもらわねばならず、置いていくことにしたのである。

レセプションには、大判の遺影、在りし日の夫が愛用の椅子に座って受付に常駐しているドンピシャの写真が飾ってあったので、ホテルは守ってもらえそうだっだが、空になる私邸にも守り主が欲しく、普通サイズの写真を盾に納め、毎日祈りを捧げていたものを、残して行くことにしたのである。

死人に口なし、私の独断で決めてしまったわけだが、経済的な事情から10年間単身帰国して留守番役を押し付けてきた夫に、またしても不在の間の守役を強要してしまったというわけだ。

息子も私もいない本宅の守(も)りなんか、夫だってしたくなかったろう。遺影を持って帰るべきだったと、後悔した。一緒に連れて帰るべきは、息子ではなかった、誰よりも何よりも、夫だった。まだ、あの家には、夫のエネルギー体が住み着いているのかもしれない。

改めて祈りを捧げ、あなたは私の胸の中に永遠(とわ)に生き続けている、だから、一緒に帰ってきたも同然と宥めすかし、慰霊した。

それからしばらくして、財布の整理をしていた私の手に、夫の証明写真がひらりと落ちてきた。私は唖然とした。いつ仕舞ったものだろう、すっかり忘れていた。2葉ある写真の1枚はそのまま財布の奥に戻して、1枚を既存の三十三間堂の千手観音像の盾写真の下部に納め、仮の遺影ができた。

私はインド本宅で、夫の写真を偶然コンピュータルーム(元トラベルエージェンシー)の引き出しに見つけたときのことを思い出していた。

夫が急死して39日目の2019年大晦日、大掃除をしていたとき、思いがけず見つけたのである。過去日本人旅行者が撮影してくれたと思われる夫は、ふっくらして幸福そうな笑みを浮かべていた。毎日泣き暮らしていた私は、はっとして、夫に幸せだから心配しないでくれとメッセージをもらった気がして、慰められたものだ。

私邸用の遺影写真を欲していただけに、ちょうどよかったと、かつて日本で購入し、インドに持ち帰っていた卓上盾を持参し、そこに収めたものだった。

今また夫の写真が手元にもたらされたことは、偶然じゃない気がした。ミニ写真の夫は、本宅の遺影と違って、いかめしい顔をしていたが、十分代用でき、夫も満足しているような気がした。

〇映画評/マイ・ニューヨーク・ダイアリー

6月24日、金沢市の繁華街・香林坊の109(東急スクエア)の4階に入っているシアター「シネモンド」で、久々に洋画を観た。

邦題は「マイ・ニューヨーク・ダイアリー」(原題・My Sailing Year、フィリップ・ファラルドー=Philippe Falardeau=監督)は2020年公開のアイルランド・カナダ合作のドラマで、滅多に劇場映画を観ない私があえて、1300円(シニア料金、一般1800円)という金額を払ってまで鑑賞する気になったのは、かの有名なレジェンドのアメリカ作家、J.D.サリンジャー(Jerome David Salinger、1919-2010)ゆかりの内容だったからだ。原作は、2014年にジョアンナ・ラコフ(Joanna Rakoff)が上梓した自叙伝「サリンジャーと過ごした日々」(柏書房)だ。

舞台は1995年のニューヨーク。憧れの大都会に降り立った作家志望の若い女性・ジョアンナ(マーガレット・クアリー=Margaret Qualley)は、物見遊山の旅のつもりがニューヨークが気に入って居着く羽目になる。ロンドンで英文学を学んだジョアンナは、隠遁中の大御所作家、J.D.サリンジャーの老舗出版エージェントで助手としての職を得る。

ジョアンナの仕事はもっぱら、世界中から届くおびただしいファンレターを一読後、作家は手紙を読まないので悪しからずとの紋切り型の返事を古いタイプライターで打って返すことだった。

サリンジャーを読んだことがなかったジョアンナだが、世界的ベストセラー書「ライ麦畑でつかまえて」(原題・The Catcher in the Rye、1951年、1964年野崎孝訳「ライ麦畑でつかまえて」白水社)の感想を綿々と綴る何人かのファンの熱意に打たれて感情移入して、個人的に返信したりするようになる。

そのうちサリンジャー本人から電話がかかってきて、代理で受け取ったジョアンナは、初めて自己紹介のあいさつを交わす。何度か電話でやり取りするうちに、ジョアンナが物書き志望と知った大御所作家は鼓舞するようになる。

主人公が職場の人間関係や、私生活に悩みながら、自立成長していく過程が描かれるが、東京の出版社に勤務していたわが青春と重なるところもあり、面白かった。サリンジャー担当の厳格な女性上司・マーガレットを演じるのは、ベテランのシガニー・ウィーヴァー(Sigourney Weaver)だが、渋い演技で光る。

やがて、同棲中の恋人に別れを告げ、仕事も辞めて筆で立つ覚悟を決めたジョアンナの前に、最後にご褒美のようにサリンジャー本人が姿を見せる。ラストの見せ場はなかなか効果的に締めくくられている。

しかし、肝心の作家が画面に登場するのは2度のみ、それも遠目の横顔や姿態だけで、象徴的存在を狙ったつもりだろうが、声の出演が主だ。ジョアンナと作家の関係が淡く、今ひとつ物足りなさが残る。が、27年前の古き良きニューヨークの描写、作家の登竜門ともいうべき有名雑誌「ザ・ニューヨーカー」(The New Yorker、1925年創刊)本社のシーンなど、憧れの出版社の受付に立ってワクワクドキドキするジョアンナの気持ちは、若い頃作家志望だった自分だけによくわかった。

※余談だが、サリンジャー関連のスキャンダラスな自伝というなら、ジョイス・メイナード(Joyce Maynard)の「ライ麦畑の迷路を抜けて」(東京創元社、2000年)が超お薦めである。18歳のイエール大生が53歳の作家のニューハンプシャーの隠れ家で同棲、処女だったジョイスが膣の筋肉が緊張する膣痙という奇病のせいで結局肉体関係には至らなかったが、26年後に3児の母となって老作家と再会したとき、「回想記を書いていると聞いた、私を利用するんだろう」と、怒気を含んだ声で痛罵され、冷遇を受ける。拙ブログ(インドで作家業)に11年前アップした書評が我ながら面白いので、サリンジャーと女子大生の愛憎に興味がある人は、一読をお薦めする。
「サリンジャーとの恋の暴露記」(2011.8月)
https://blog.goo.ne.jp/michiemohanty/e/6fa327867f136d51337b4df9bfea5bdc
(「インド発コロナ観戦記」は、92回から「インドからの帰国記」にしています。インドに在住する作家で「ホテル・ラブ&ライフ」を経営しているモハンティ三智江さんが現地の新型コロナウイルスの実情について書いてきましたが、92回からインドからの「脱出記」で随時、掲載します。

モハンティ三智江さんは福井県福井市生まれ、1987年にインドに移住し、翌1988年に現地男性(2019年秋に病死)と結婚、その後ホテルをオープン、文筆業との二足のわらじで、著書に「お気をつけてよい旅を!」(双葉社)、「インド人には、ご用心!」(三五館)などを刊行しており、コロナウイルスには感染していません。また、息子はラッパーとしては、インドを代表するスターです。

2022年6月27日現在、世界の感染者数は5億4360万3557人、死者は632万9064人(回復者は未公表)です。インドは感染者数が4340万7046人、死亡者数が52万5020人(回復者は未公表)、アメリカに次いで2位になっています。編集注は筆者と関係ありません)。