【モハンティ三智江のフィクションワールド=2022年10月21日】1 新しい図書館の4階の空中回廊の本棚と本棚の間に設けられた小スペースが私の秘密のお気に入りの読書空間だった。人ひとりがやっと入れるくらいの隙間に机と椅子が組み込まれたように配置され、一旦中に入り込んでしまうと、棚の死角もあって、外からは妨害されず、読書に没頭できた。
その日も、海外の絵本をいくつか手に、お気に入りのスペースに潜り込んだ。アジアの風土色豊かな絵柄をめくりつつ、素朴な土地の民話を辿るのは楽しかった。
中に、古い絵本があって、それは第2次世界大戦(1939年から1945年)中、ルソン島に派兵された日本兵と、村人の友情を綴ったものだった。敵兵を避けて山にこもり、持久戦へと持ち込んだ日本軍、その中に実戦には携わらず、負傷兵の手当をする衛生兵がいて、名を新一郎と言った。心優しき若者はたまたま、山道で行きあった村人が、腹痛に苦しむのを手持ちの薬を分けたことで、友情が芽生えた。
おばあさんはお礼にと、頭陀袋の食糧を分けてくれた。常に飢えていた新一郎にとって、貴重でありがたいものだった。独り占めせずに、陣地に帰って、仲間と分けあって、ぼそぼその外米や辛い煮芋を貪るように食べた。
以来、おばあさんは、彼に食べ物を分け与えてくれるようになり、孫と祖母ほどにも歳の違う、2人の間に、国籍や言語を超えての友情が育まれるという心温まる物語だった。明日の生死をも知れぬ異郷の激戦区で、日本兵と、言葉の通じない村人の間に芽生えた人間愛、私は感動して、どうやら実話を基に描かれたらしい古い絵本にのめり込んた。
どれほどの時が、たったろうか。
「もしもし」
私は棚の外から声をかけられて、はっとうつ伏せの姿勢から起き上がった。いつのまにか、うとうととまどろみに落ちたようだ。ぼんやり起き抜けの目で見上げると、警帽を被り、制服に身を固めた、あたかも絵本から抜け出したと見えなくもない兵士紛いのがっしりした体格の男がこちらを気遣わしげに窺っていた。
「閉館時間を過ぎていますよ」
と警告され、私はどうやら図書館の警備らしいと悟った。年齢不詳の、角度によっては壮年のように見えて、別のアングルからは老境に差し掛かった高齢者にも見える不思議な雰囲気を醸している。そのくせ、存在感が曖昧な、どこか茫洋とした感じ、見つめていると、今にもすーっと視界から消えてしまいそうな危うさに揺らいでいた。
それから、はっと我に返った私はとっさに携帯ディスプレイの時刻を確かめた。21時を回っていた。入館したのは夕刻と遅かったが、かれこれ3時間余りもいたとは、意外だった。隠れ家的空間の居心地のよさに、うたた寝して、気がついたら、閉館時刻を上回っていたわけだ。
「すみません」
私は恐縮して、本を小脇に抱えて立ち上がった。あわてたため、そのうちの1冊が床に落ちた。私が拾い上げるより先に、警備員がすかさず、手を伸ばし、拾い上げてくれた。
「ほう、これを読んでくださっていたか」
警備員は、感慨深げに言った。壮年のように見えた顔が急に老成して、眦(まなじり)や口辺に相応の年輪が刻まれ、一気に老いた風貌に変わった。
「あの島のおばばはな、本当に親切じゃった」
私は意表をつかれ、まじまじと警備を見た。何か懐かしげな雰囲気、どこかで会ったことがあるような。警帽と制服が、日本兵の軍服に思えてきて、私は目の錯覚かと、まぶたをぱちぱちさせた。
「失礼ですが、あなたもルソン島に出征した過去をお持ちなのですか」
それには答えず、意味深な笑みを浮かべて、警備は私を非常口に誘導した。
「本は返しておきますから、お気をつけてお帰りください」
私はすっかり暗くなった夜道に、見送られて出た。振り返ると、警備が青白い光に包まれて、ぼうっと立っていた。
2
新しい図書館が気に入った私はそれから、何回となく訪ねたが、あの警備に会うことは一度としてなかった。もしかして辞めてしまったのか。なんとも不思議な人だった。前にどこかで会ったことがあるような、郷愁を醸す存在、まるで絵本から抜け出してきたかのような。ルソン島の日本兵、激戦地を潜り抜け、九死に一生を得たのだろうか。警備服は、汗と埃にまみれた鶯色の軍服のように見えた。蛍光色の光の輪の中に佇んでいた、懐かしき人。
不思議なことに、日本兵と外地の村人の友情を綴ったあの年季の入った絵本も同様に消えていた。題名がうろ覚えの私は、館員に内容を話して、該当する絵本はないかと訊いたが、見つからなかった。
あの夜、警備に委ねた何冊かの絵本の中で、それだけが忽然と消えていた。絵本の主人公である本人が引き上げた、戻るべき主に返ったのだと思った。多分、作者だったのだろう。
私に読ませるためにだけ、見えない世界からもたらされた稀覯本のように思えた。
読者はたったひとり、でも、私に読ませたかったのはなぜだろう?私はまもなく、その理由を知ることになる。
お盆に帰郷し、墓参りに行った私は、3基並んだ墓石のひとつに、「**新一郎」と銘打たれているのに、愕然となった。ああ、私は思い当たった。亡父の長兄、新一郎が衛生兵として、ルソン島に出征、還らぬ人となった過去を。結婚してまもなかったはずで、婚家を出た新妻がその後、どうなったかはわからない。
どんなにか、国恋しかったろうか。望郷の念に駆られながら、妻や親兄弟を恋しく思い、戦地に果てた無念さが今さらながら、ひしひしと伝わってきた。
警備の姿を借りて、ひととき姪に伝えたかった、決して暗いことばかりでなかった、絶望の中の一筋の光、地元民との心温まる交流、分け与えてくれる食糧で生き延びたこと、異郷の老女の慈悲に情けに、国の母や妻の面影を見ていたのかもしれない。
私は白百合を手向けながら、ろうそくと線香を点し、改めて遠き日の伯父の冥福を祈った。
(「フィクションワールド」はモハンティ三智江さんがインドで隔離生活を送る中、創作活動にも広げている続きで、「インドからの帰国記」とは別に、短編など小説に限定して掲載します。本人の希望で画像は使いません)