信長の歴史を見、我々は進歩しているのかを問う「レジェンド」(360)

【ケイシーの映画冗報=2023年2月2日】「天下布武」(てんかふぶ=武を以て天下を平ぐ)という印章を織田信長(1534-1582)が用いるのは、美濃(現在の岐阜県)の齋藤氏を討ち滅ぼしたころだとされています。このとき、信長が討った齋藤氏から、同盟関係を築くために嫁入りしたのが濃姫(のうひめ、1535-没年諸説あり)でした。

現在、一般公開されている「レジェンド&バタフライ」(C)2023「THE LEGEND&BUTTERFLY」製作委員会)。

その信長(演じるのは木村拓哉)と濃姫(演じるのは綾瀬はるか)の30年にわたる波乱の生涯を描いたのが本作「レジェンド&バタフライ」です。レジェンド(伝説)が信長で、バタフライ(蝶)は濃姫が「帰蝶(きちょう)」と呼ばれることが由来とのことです。

1549(天文18)年、尾張(現在の愛知県)の織田信長に、美濃から濃姫が嫁いできます。政治的な政略結婚でした。奇抜な(当時の言葉では傾(かぶ)く)振る舞いながら、内面の繊細さも感じられる信長と、勝気で一歩も引くことがない濃姫は、合戦や裏切り、一族のなかでも闘争が絶えない乱世を、支えあって歩んでいきます。

戦って実力を示し、戦国の世に影響力を持ち始める信長に戸惑いながらも支えていく濃姫でしたが、かつての“おおうつけ=ばか”が“第六天魔王”を自称するほど、おそろしく強大な存在となっていくことに耐えられず、信長との別れを決意します。濃姫への思慕を胸にしつつ、戦いに明け暮れ、屍山血河(しざんけつが)を築きなから突き進む信長には、衝撃的な最後が迫っていました。

織田信長という人物は、歴史の授業で触れるほかにも小説やコミック、映画やゲームといったさまざまな媒体で扱われる存在で、
「少年期までは“うつけ”であったが、やがてめきめきと頭角をあらわし、天下統一を目前にして死去した」

「大軍に豪雨をいかして奇襲をかけ、劇的に勝利」

「当時の新兵器である鉄砲を活用して他者を圧倒した」
といった“いくさ上手”“改革者”“乱世の覇者”といったイメージがある一方で、「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」と詠んだという(後世の創作とされる)、短気で粗暴な気性であったり、「降伏すればゆるす」として、くだった敵将を斬り、さらにはその家族や家臣までも討ち果たすような暴君ぶりなども、どこかで見聞しているでしょう。

歴史にあかるい友人によると、こうした残虐さは、大なり小なり、この時代には各地で発生していたそうで、信長だけではなかったのですが、それでも傑出した存在であったとされます。

戦国期、日本の人口はおよそ1000万人だったとされています。そのうちの1%、10万人が信長の命令によって命を断たれたという説もあるとのことで、作中でも描かれる“比叡山焼き討ち”だけでも数千人が犠牲になったとされています。

じつは信長を苦しめたのは戦国大名ではなく、信仰に篤く、徹底的に戦う一向宗(いっこうしゅう。比叡山も同門)でした。仏門より武門に寄った一向宗との戦いで、信長は弟をはじめ、親族を幾人も喪いました。そうした経緯が、影響していたのでしょう。恐ろしい結果となったとしても、決して意味のない行為ではなかったのです。

本作を監督した大友啓史は、こう述べています。
「どういう空間で過ごしていたかとか、その人物の価値観や考え方と結び付く。歴史的な建造物は、僕らとあの時代の違いを埋める、一つの橋渡しになる。できる限り、現存する建築物や歴史的なものの中で撮影するのが大事だと思った」(2023年1月1日付「読売新聞」朝刊)

かつての合戦場や、信長が自身の理想を具現化したとされる安土城などのおおくは消え去り、その痕跡をとどめる程度となっているのが実情です。本作でも過去の情景にはCG技術は活用されており、往時を再現しています。さらには、大友監督の言葉どおり、いくつもの重要文化財や国宝などで撮影されており、映画の撮影は初めてという場所もいくつかあったとのことで、現状で望める再現度としては、充分なのではないでしょうか。

織田信長の研究では第一人者といわれた歴史家の谷口克広(1943-2021)は、「歴史というのは、本来過去を忠実に再現するところからはじまる『科学』であるはずである」と提起していたそうです。映画の歴史研究、一見すると重ならないようですが、意外と近似値の部分もあるということでなのしょう。

現在でも、世界各地で戦いや戦乱、ふつうの人々が苦しめられたり、明日の生存が脅かされる状況が続いています。私たちは過去の人々より、本当に進歩しているのか。鑑賞後、ふと、そんなことを考えてしまいました。次回は「バイオレンス・ナイト」の予定です(敬称略。【ケイシーの映画冗報】は映画通のケイシーさんが映画をテーマにして自由に書きます。時には最新作の紹介になることや、過去の作品に言及することもあります。隔週木曜日に掲載します。また、画像の説明、編集注は著者と関係ありません)。

編集注:ウイキペディアによると、「織田信長」は1534年尾張国(現愛知県)生まれで、父親が織田信秀(1511-1552)、母親が土田御前(花屋夫人、?-1594)、1560(永禄3)年に「桶狭間の戦い」において駿河の戦国大名・今川義元(1519-1560)を討ち取り、三河の領主・徳川家康(松平元康、1543-1616)と同盟を結び、1565(永禄8)年に犬山城の織田信清(生没年不詳)を破り、尾張の統一を達成した。

室町幕府13代将軍の足利義輝(1536-1565)が殺害された(永禄の政変)後、足利将軍家の15代将軍となる足利義昭(1537-1597)から室町幕府再興の呼びかけを受け、信長も1566(永禄9)年には上洛を図ろうとした。美濃の戦国大名・斉藤氏(一色氏)との対立のためこれは実現しなかったが、1567(永禄10)年には斎藤龍興(たつおき、1547-1573)の駆逐に成功し(稲葉山城の戦い)、尾張・美濃の2カ国を領する戦国大名となった。そして、改めて幕府再興を志す意を込めて、「天下布武」の印を使用した。

1568(永禄11)年10月、足利義昭とともに上洛し、「三好三人衆」などを撃破して、室町幕府の再興を果たす。信長は、室町幕府との二重政権(連合政権)を築いて、「天下」(五畿内)の静謐を実現することをめざした。しかし、敵対勢力も多く、1570(元亀元)年6月、越前の朝倉義景(1533-1573)、北近江の浅井長政(1545-1573)を姉川の戦いで破ったものの、三好三人衆や比叡山延暦寺、石山本願寺などに追い詰められる。同年末に、信長と義昭は一部の敵対勢力と講和を結び、ようやく窮地を脱した。

1571(元亀2)年9月、比叡山を焼き討ちするも、その後も苦しい情勢は続き、1571(元亀3)年12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍が武田信玄(1521-1573)に敗れた後、1573(元亀4)年、将軍・足利義昭は信長を見限り、信長は義昭と敵対し、同年中には義昭を京都から追放した(槇島城の戦い)。

将軍不在のまま中央政権を維持しなければならなくなった信長は、天下人への道を進み始め、1575(天正3)年には、長篠の戦いで武田勝頼(1546-1582)に対して勝利するとともに、右近衛大将に就任し、室町幕府に代わる新政権の構築に乗り出した。1576(天正4)年には安土城の築城も開始した。

1580(天正8)年、長きにわたった石山合戦(大坂本願寺戦争)に決着をつけ、1581(天正9)年には京都で大規模な馬揃え(京都御馬揃え)を行い、その勢威を誇示した。その後、信長は長宗我部元親(1539-1599)討伐のために四国攻めを決定し、信長自身も毛利輝元(1553-1625)ら毛利氏討伐のため、中国地方攻略に赴く準備を進めていたが、1582(天正10)年6月2日、重臣の明智光秀(1516-1582)の謀反によって、京の本能寺で自害に追い込まれた(本能寺の変)。

「濃姫(のうひめ、のひめ)」は美濃の戦国大名である斎藤道三(長井秀龍、1494-1556)の娘で、政略結婚で織田信長に嫁ぎ、信長の正室になったとされる。

1544(天文13)年8月、斎藤氏の台頭を嫌う隣国、尾張の織田信秀は”退治”と称して土岐頼芸(1502-1582)を援助して兵5000人を派遣し、越前国の朝倉孝景(1493-1548)の加勢を受けた頼芸の甥・土岐頼純(政頼、1524-1547)が兵7000人と共に南と西より攻め入った。斎藤勢はまず南方の織田勢と交戦したが、過半が討ち取られ、稲葉山城下を焼かれた。同時に西方よりも朝倉勢が接近したため、道三はそれぞれと和睦して事を収めることにした。

織田家との和睦の条件は信秀の嫡男・吉法師丸(信長)と娘とを結婚させるという誓約であり、他方で土岐家とは頼芸を北方城に入れ、頼純を川手城へ入れると約束した。1546(天文15)年、道三は朝倉孝景とも和睦し、土岐頼芸が守護職を頼純に譲るという条件で、新たに和睦の証(人質)として娘を頼純へ輿入れさせ、頼芸と頼純を美濃に入国させた。

主筋の土岐家当主への輿入れであることから相応の身分が必要との推測から、この娘は道三の正室を母とする濃姫であった、とする説がある。この説に従えば、濃姫は数え12歳で、美濃守護、土岐頼純の正室となったことになる。

しかし、土岐頼純は「美濃国諸旧記」では1547(天文16)年8月の大桑城落城の際に討ち死に、または同年11月に突然亡くなったとされる。前出の同一人物説では、濃姫はこの夫の死によって実家に戻ったと推測される。

1547(天文16)年から1548(天文17)年にかけて、道三と信秀は大垣城を巡って再三争ったが、決着が付かず、和睦することになって、先年の縁組の約束が再び持ち上がった。「美濃国諸旧記」によれば、信秀は病気がちとなっていたために誓約の履行を督促したとされ、1549(天文18)年2月24日に濃姫として知られる道三の娘は織田信長に嫁いだ。濃姫は数えで15歳であった。

1553(天文22)年4月には、信長と道三が正徳寺で会見を行っているが、先年の婚儀以後、濃姫についての記載は「美濃国諸旧記」から途絶える。道三の遺言でも一言の言及もない。他方で、「勢州軍記」や「総見記」には、信長の御台所である斎藤道三の娘が、若君(御子)に恵まれなかったので、側室(妾腹)が生んだ奇妙丸(信忠、1557-1582)を養子とし嫡男としたという記述がある。この後、濃姫は歴史の記録から完全に姿を消し、このために濃姫は没年も不明であり、菩提寺も戒名も特定されていない。

これまでに濃姫が「本能寺の変」の際に薙刀を振るって信長とともに敵兵と戦って戦死する場面が描かれてきたが、これは創作物における描写である。本能寺の変の際に濃姫が戦死したという話は、史料で確認されたことはない。

民間伝承としては、岐阜県岐阜市不動町には本能寺の変の際に信長の家臣の一人が濃姫の遺髪を携えて京から逃れて、この地に辿り着き埋葬したという濃姫遺髪塚(西野不動堂)がある。「美濃国諸旧記」によれば濃姫と信長は1歳違いなので、本能寺の変の時に亡くなった場合、享年48となる。