ノエビアギャラリーで藤森武「画壇の仙人・熊谷守一の晩年」展

【銀座新聞ニュース=2023年3月29日】国内化粧品業界第7位のノエビアホールディングス(兵庫県神戸市中央区港島中町6-13-1)傘下のノエビア(東京本社・中央区銀座7-6-15、03-5568-0300)が運営するノエビア銀座ギャラリー(中央区銀座7-6-15、ノエビア銀座ビル、0120-401-001)は6月2日まで藤森武さんによる写真展「仙人と呼ばれた画家『熊谷守一』」を開いている。

ノエビア銀座ギャラリーで6月2日まで開かれている藤森武さんの写真展「仙人と呼ばれた画家『熊谷守一』」のフライヤー。藤森武さんが1977年に熊谷守一が亡くなる直前までに撮影した作品が展示されている。

写真家の藤森武さんは白いあご髭を蓄えた風貌や、うっそうと木が茂った自邸で過ごす暮らしぶりから「画壇の仙人」とも「孤高の画家」とも呼ばれた熊谷守一(くまがい・もりかず、1880-1977)を1974年から3年かけてその日常を撮影した。今回は、膨大な枚数から選りすぐった、熊谷守一の晩年の姿を紹介している。

ウイキペディアによると、熊谷守一は絵が描けず、貧困に苦しむ中、1922年に42歳で結婚し、5人の子どもをもうけた。しかし、4歳で肺炎に罹って医者に診せられずに亡くなった次男の陽(よう)を描いたり(「陽の死んだ日」1928年)、戦後すぐに20歳を過ぎて結核で亡くなった長女の万(まん)が自宅の布団の上で息絶えた姿を荒々しい筆遣いで描いたり、野辺の送りの帰りを描いた作品(「ヤキバノカエリ」1948年から1956年)などの後、晩年の30年間、東京都豊島区の自宅から一歩も出なくなり、わずか15坪(約50平方メートル)の小さな庭が作品の世界のすべてになった。

そうして、小さな世界に息づくさまざまな草花や虫、小さな動物たちなど身近な題材を描き、洋画だけでなく日本画も好んで描き、書や墨絵も多く残し、晩年の独特の世界が誕生したといわれている。

愛知県名古屋市の美術品収集家、木村定三(ていぞう、1913-2003)が熊谷守一を支援し、買取の個展を開くなどしたことにより、熊谷守一の名は晩年にかけて広く日本の画壇に知られるようになり、その100点を超えるコレクションは愛知県美術館に所蔵されている。

撮影者の藤森武さん。

熊谷守一は1880年岐阜県中津川市付知町(つけちまち、当時は恵那郡付知村)生まれ、1900年に東京美術学校(現東京芸術大学)に入学、1905年と1906年に樺太(からふと)調査隊に参加、1909年に第3回文展に出展、1913年ころに実家へ戻り、日雇い労働の職につき、1915年に上京し、第2回二科展に出展、1922年に大江秀子と結婚し、1929年に二科技塾の開設に参加、後進の指導に当たり、1932年に「池袋モンパルナス」と称される地域(現豊島区椎名町から千早)の近くに家を建て、生涯を過ごした。

1947年に「二紀会」創立に参加(1951年に退会)、1956年に脳卒中で倒れ、写生旅行を断念、1968年に文化勲章を辞退、1972年に勲3等叙勲を辞退、1976年に「アゲ羽蝶」が絶筆となり、1977年8月1日に肺炎で死去した。1985年に自宅を「熊谷守一美術館」(豊島区千早2-27-6、03-3957-3779)として建て替えた(2007年から豊島区立)。

藤森武さんは1942年東京都生まれ、東京写真短期大学(現東京工芸大学)を卒業、1962年に写真家の土門拳(どもん・けん、1909-1990)に師事、1967年に凸版印刷写真部に入社、1970年に退社し、フリーとして活動、主に人物や生け花、古美術や仏像などをテーマに撮影し、全国の80余館に及ぶ博物館の収蔵品撮影を継続している。現在、日本写真家協会会員、土門拳記念館学芸担当理事を務めている。

開場時間は9時から17時30分まで。入場は無料。