ホテル・アストラル(短編小説編1)

【モハンティ三智江のフィクションワールド=2023年4月21日】序(プロローグ)  丹塗りの橋が目の前に伸びて、小さな島へと続いている。私は一歩踏み出して、両側に開ける海面の穏やかさに、ここなら絶好だと思った。

花曇りの空を映して、日本海は灰色がかった翡翠色に凪(な)いでいた。渡り切ると、石の鳥居があって、くぐって丘に上がる急な石段を登ると、小さなお社があった。私はわが故郷でもある福井県の、ここ雄島(おしま)に来たいわれを恭しく神様に御報告し、神妙に掌を合わせた。

島は一周できるようで、林の中に道が続いていたが、私は中程の見晴らしのいい岩場まで行って、一望のもとに開ける日本海を感慨深げに眺めた後、引き返した。鳥居を出て、赤い橋まで戻り、しばらく行ったところで立ち止まると、ハンドバッグに忍ばせた小さなパックを取り出した。

袋には、シナモンスティックのようなかけら、小指の爪大の一片が入っていて、慎重に取り出すと、凪いだ海面目掛けて放った。骨は風に押し戻されることもなく、ちゃぽんと海中にめり込んた。

私はしばらく黙祷し、涙がまなじりに滲み出るままに立ち尽くしていた。
「福井にもう一度行きたかった」と夢で無念そうに洩らした夫の悲願をようやく、果たすことができて感無量、肩の荷か降りる思いだった。その一方で、ひしひしと寂しさが湧きあげ、帰路の車中では孤独感が極まった。

私が インド人夫に先立たれたのは2年半前、2019年の11月のことだった。ちょうど一時帰国中で私は最期の対面が叶わなかったばかりか、葬儀にも参列できなかった。

その年の12月に帰印して、伴侶を突然喪くした深い哀しみにかき暮れる中、未知の疫病の世界的流行に巻き込まれた。以来、2年3カ月苛酷な隔離生活を強いられ、ようやく帰国の段取りが整ったのが、2022年3月半ばのことだった。この間、私は福井在住の老母も亡くしていた。夫同様、最期の対面のみならず、葬儀に参列も叶わなかった。

今日は、福井の母の遺骨が納められた足羽山(あすわやま)の西墓地にお参りして、親不孝を詫びた後でのことだったのだ。長いこと気がかりで心に重くのしかかっていた儀式を済ませることができてほっとしたが、かけがえのない家族2人を短期に亡くした痛みは傷となって残っていた。

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私がインドに渡ったのは今を去ること35年前、1年後現地男性と結婚し、夫の故郷であるベンガル湾沿いの聖地プリーでゲストハウスを開業、そのときどきで苦労はあったが、比較的順調な移住生活を送っていた。

7年前には石川県の金沢市に中古マンションを購入し、以後そこをベースに年2度行き来、日印二重生活に踏み出していた。しかし、健康を害した夫が、この日本のベースに足を踏み入れることはついぞなかった。まだ元気だったとき何度も誘ったのだが、なんだかんだと口実をつけて同行せず、そのうち肺をやられ、行きたくても行けない体になってしまった。

それにしても、夫がわがふるさと、福井に対してそれほどまでに深い思い入れを抱いていたとは、意外だった。死後、再訪できなかったことを悔いるまでに、福井という町は彼の中に焼き付いていたのだろうか。訝(いぶか)しみながら、思い当たる節がないでもなかった。それはこういうことだ。

私は38歳のとき、インドを引き払って日本に帰国しようと真剣に考えたことがあった。移住して7年目、日本の物価の10分の1の「後進国」で商売をすることに嫌気が差したのである。折しも、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒間の抗争が勃発し、同じ国民同士で殺し合う異常さが私には信じられず、インドという国とインド人に不信感を拭いきれず、深く落胆していた。 夫は、そんな私に引きずられた形で、多分に実験的な日本生活に踏み切らされる羽目に陥ったのである。

さて、仕事はどうしたものかと考えて、移住後もフリーライターを続けていた私には、東京の方が好都合だったが、外国人である夫のことを考慮すると、故郷の福井に頼るしかなかった。実家が長年、自動車整備の同族会社を営んでいたせいで、そこに頼み込めば、何とかなりそうな気がしたからである。

実際、私の思惑通り、夫は福井市内の本社ではなかったが、敦賀支所の見習いとして受け入れてもらえることになった。そして、同僚3人と、敦賀市内のアパートで同居することとなったのである。私は週末、福井市内から電車で敦賀に出向き、慣れない仕事に従事する夫を労(ねぎら)った。

夫の仕事はもっぱら雑用で、高カースト出身の彼には本意でなかったかしれないが、上辺上は順応し、異国からの見習い社員を何彼となく面倒を見てくれる年長の先輩社員を慕うようになった。

結局、このときの日本生活は3カ月で一旦終止符、翌年再開してまた3カ月、計半年で完全に絶たれた。私の実験は失敗に終わったのである。

しかし、この短期の日本体験は意外に、夫の深いところで残っていたのかもしれなかった。でなければ、「もう一度、福井に行きたかった」と、死後夢の中で訴えたりしない。敦賀体験はその2度きりだったが、以後帰国のたびに夫を同伴していたので、福井での短期滞在経験は積み重なっていったわけだが、夫は一度も福井がいいとか好きだと洩らしたことはなかった。

熱帯暮らしのインド人は情緒に乏しく、何を見ても感動することがない。桜や紅葉に対しても、淡々としていた。どこに連れて行っても、特に感動したり喜んだりしないので、案内する側は物足りない。ただひとつ、夫が喜々とするのは、居酒屋だけだった。居酒屋に行くと言うと、ほかのどんなときより、わくわくとうれしそうな顔をした。

(「フィクションワールド」はモハンティ三智江さんがインドで隔離生活を送る中、創作活動にも広げている続きで、「インドからの帰国記」とは別に、短編など小説に限定して掲載します。本人の希望で画像は使いません)