【銀座新聞ニュース=2023年9月15日】ギャルリーためなが(中央区銀座7-5-4、03-3573-5368)は9月16日から10月15日まで「デュフィとローランサンーモードに触れた二人」を開く。
20世紀初頭に流行した革新的なパリのモードとラウル・デュフィ(Raoul Dufy、1877-1953)とマリー・ローランサン(Marie Laurencin、1883-1956)の2人の画家の関連性に着目し、2人の作品約30点を展示する。
20世紀初頭のパリを舞台に活躍した「色彩の魔術師」と呼ばれたラウル・デュフィと淡く繊細な線と色使いで女性を優美に描いたマリー・ローランサン。
美術、音楽、文学、ファッション、それぞれが互いに影響し合いながら新たな価値の創造を強く求めた時代にあって、1903年にファッション・デザイナーのポール・ポワレ(Paul Poiret、1879-1944)が女性をコルセットから解放し、ラウル・デュフィがデザインした明るく洒脱な布地を用いて優雅なドレスを生み出しモード界を席巻した。
また、女性美を追求するローランサンは、シャネルを纏った社交界の婦人の肖像画を柔らかなパステルトーンで描き人気を博した。ギャルリーためながでは、ファッションの芸術性が追及された時代に生き、自由かつ多様に表現を深めていった2人の画家の作品を紹介する。
ウイキペディアなどによると、ラウル・デュフィの陽気な透明感のある色彩と、リズム感のある線描の油絵と水彩絵は画面から音楽が聞こえるような感覚をもたらし、画題は多くの場合、音楽や海、馬やバラをモチーフとしてヨットのシーンやフランスのリビエラのきらめく眺め、シックな関係者と音楽のイベントを描いている。また、ラウル・デュフィは女性誌「VOGUE(ボーグ)」の表紙なども手がけている。
ラウル・デュフィは1877年北フランス・ノルマンディーのル・アーヴル生まれ、14歳でスイス人が経営するコーヒーを輸入する貿易会社で働き、その後、ル・アーヴルとニューヨークを結ぶ太平洋定期船で秘書を務め、1895年に美術学校ル・アーヴル市立美術学校の夜間講座へ通う。
1898年から1899年に兵役につき、戦争から戻ると、病身でヴォージュ地方のヴァル・ダジョルに滞在した。1900年にル・アーブル市から1200フランの奨学金を得て、23歳のときにパリの国立美術学校エコール・デ・ボザールへ入学、モンマルトルのコルトー街で暮らす。
1903年にアンデパンダン展に出品、1905年にサロン・デ・ザンデパンダンで若い画家の作品を見て、フォービズムに関心をもち、リアリズムに興味を失う。1907年に34歳で結婚、木版画の制作をはじめ、1908年にセザンヌ風様式を採用し、フォービズムから離れる。1909年にドイツ・ミュンヘンを旅行、1911年に豪華王と呼ばれたファッション・デザイナーのポール・ポワレと知り合い、彼の仕事で木版刷りで布地のテキスタイルデザインをプティット・ユジーヌ工場でつくり、詩人のギヨーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire、1880-1918)の動物誌の木版挿絵も制作した。
1912年にフランスのシルク製造業を率いたリヨンのビアンキーニ・フェリエ商会とデザイナー契約を結び、1914年に起こった第1次世界大戦(1914年7月28日から1918年11月11日まで)により、陸軍郵便事業に従事、1917年から1918年まで戦争博物館の図書室員、1918年にジャン・コクトー(Jean M.E.C.Cocteau、1889-1963)の舞台デザインを手がけた。
1920年にフランス・パリ・モンマルトルのジョルジュ・ブラック(Georges Braque、1882-1963)の近所に居を構え、1922年にフィレンツェ、ローマ、シチリアを旅行、1925年に「シャトー・ドゥ・フランス」シリーズが国際装飾美術展で金賞、1936年にロンドンを旅行、1938年にパリ電気供給会社の社長の依頼で、パリ万国博覧会電気館の装飾に、叙事詩をフレスコ画の巨大壁画「電気の精」として描く。
1943年から1944年の第2次世界大戦(1939年9月1日から1945年9月2日まで)中は、スペイン国境に近い村に逃れて友人と共に暮らし、1945年にヴァンスに滞在、1950年から1952年にリューマチのコーチゾン療法を受けるためにアメリカ・ボストンへ、1952年にベネチア・ビエンナーレの国際大賞を受賞、1953年3月23日にフランス、フォルカルキエにて消化管出血のため死去した。享年75歳。ニース市の郊外にあるシミエ修道院墓地に埋葬される。
マリー・ローランサンは1883年パリ10区生まれ、レズビアンのアメリカ人駐在員ナタリー・クロフォード(Natalie Crawford)のサロンと関係があり、ローランサンは男性とも女性とも関係を持った。パリ9区のリセ・ラマルティーヌ (lycee Lamartine、後期中等教育機関) に学び、画家を志し、アカデミー・アンベールで絵を勉強した。
ここでジョルジュ・ブラックと知り合い、キュビスムの影響を受けた。1907年にサロン・ド・アンデパンダンに初出展、このころ、ブラックを介して、モンマルトルにあったバトー・ラヴォワール(洗濯船)という安アトリエで、パブロ・ピカソ(Pablo Ruiz Picasso、1881-1973)や詩人で美術評論家のギヨーム・アポリネールと知り合い、1908年から1909年にかけて「アポリネールとその友人たち」と題した2作を残した。
アポリネールとローランサンは恋に落ちたが、1911年にアポリネールがモナリザ盗難事件の容疑者として警察に拘留された頃には(彼は無罪だった)、ローランサンのアポリネールへの恋愛感情も冷めてしまった。しかし、アポリネールはローランサンを忘れられず、その想いを歌った詩が彼の代表作「ミラボー橋」とされている。
1914年にドイツ人男爵の画家、オットー・フォン・ヴェッチェン(Otto Christian Heinrich von Waetjen、1881-1942)と結婚、これによりドイツ国籍となったため、第1次世界大戦が始まると、はじめスペイン・マドリード、次にバルセロナへの亡命生活を余儀なくされ、戦後の1920年に離婚して単身パリに戻った。
その後、パリの上流婦人の間ではローランサンに肖像画を注文することが流行となり、ココ・シャネル(Coco Chanel、1883-1971)が頼んだ絵はオランジュリー美術館が所蔵している。舞台装置や舞台衣装のデザインでも成功し、1954年に1925年から一緒に暮らしている家政婦のシュザンヌ・モロー(Suzanne Moreau、1905-1976)を正式に養女とし、1956年に72歳で死去した。
開場時間は11時から19時(日曜日、祝日は17時)。