丸善日本橋で濱田窯の「益子焼」展、濱田友緒、大塚雅淑ら

【銀座新聞ニュース=2024年2月19日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は2月21日から27日まで3階ギャラリーで「第5回丸善・益子焼の世界 濱田窯と現代作家展」を開く。

丸善・日本橋店で2月21日から27日まで開かれる「第5回 丸善・益子焼の世界」に出品される濱田庄司の「地釉鉄絵方瓶(じぐすり・てつえ・ほうへい)」。

重要無形文化財保持者(人間国宝)の陶芸家、濱田庄司(1894-1978)が起こした「濱田窯」と現在の益子を拠点に活躍している作家までの益子焼作品約3000点を一堂に展示販売する。

また、植木鉢、観葉植物ポットなどをメインに、食器以外に益子焼で彩りを演出するインテリアアイテムも紹介する。

今回、出品するのは、濱田庄司、濱田庄司の次男、濱田晋作(1929-2023年3月16日)、濱田晋作の次男で「濱田窯」3代目の濱田友緒さん(1967年生まれ)、「加守田窯」の2代目、加守田(かもだ)太郎さん(1963年生まれ)、「清窯(きよしがま)」の2代目の大塚一弘さん(1966年生まれ)。

「萩原製陶所:萩原窯」の5代目、萩原芳典さん(1974年生まれ)、「薄田窯」の2代目、薄田(すすきだ)いとさん(1973年生まれ)、「栗原窯」の栗原節夫さん(1963年生まれ)、「健一窯」の2代目で長男の大塚雅淑(まさよし)さん(1976年生まれ)、陶芸家の小林雄一さん(1982年生まれ)。

その妻で陶芸家の西山奈津さん(1983年生まれ)、陶芸家、向山(むこうやま)文也さんの娘で、陶芸家の向山ひなたさん、「ホソカワ雑貨店」を主宰するホソカワカオリさん(1974年生まれ)、陶芸家の川島郁朗さん(1980年生まれ)の14人。

「KOGEI JAPAN」によると、益子焼は栃木県芳賀郡益子町周辺を産地とする陶器で、江戸時代末期の嘉永年間(1848年から1855年)に常陸国笠間藩(現笠間市)で修行した大塚啓三郎(1828-1876)が益子に窯を築いたことにより始まったとされている。

益子焼の陶土は、豊富にあるものの、肌理が粗く精巧な器を作るには向かなかったため、当初の益子焼は主に水がめ、火鉢、壺などの日用品として制作された。その後、1927年から創作活動を始めた濱田庄司によって花器や茶器などの民芸品が作られるようになり、日本全国に知られた。1959年には、加守田章二(1933-1983)が開いた窯により民芸一辺倒だった益子の作陶に現代的な独創性が加えられた。1979年には通産省(現経産省)から伝統的工芸品に指定された。

益子焼は砂気の多いゴツゴツとした土の質感をもち、材料の性質上割れやすく、重いという欠点がある。益子焼のもっとも基本的な釉薬(ゆうやく)は漆黒(しっこく)や「柿」と呼ばれる赤茶色、飴色(あめいろ)を出す鉄釉(てつゆう、てぐすり)で、石材粉や古鉄粉を釉薬にし、犬毛筆で色づけを行うため、重厚な色合いとぼってりとした肌触りに特徴がある。こうした昔ながらの施釉は土鍋や土瓶、片口といった、肉厚な陶器に使われる。

民藝運動以来、濱田庄司が得意とした杓掛け、流し掛け、掻き落としの技法を使った紋様を施した鉢や皿などが知られる。また、信楽焼流の絵付けを施した山水土瓶や、呉須(コバルト顔料)を使った陶器も多い。

栃木県益子町観光協会によると、現在、窯元は約250、陶器店は50店あり、春(2024年4月27日から5月6日までの予定)と秋に「陶器市」が開かれる。

益子陶器市は1966年から始まり、例年、春のゴールデンウイークと秋の11月3日前後に開かれている。販売店約50店舗の他、約550のテントが立ち並び、伝統的な益子焼からカップや皿などの日用品、美術品まで販売される。焼物だけでなく、地元農産物や特産品の販売も行われ、春秋あわせて約60万人の人出がある。

ウイキペディアによると、濱田庄司は1894(明治27)年神奈川県橘樹郡高津村(現川崎市)溝ノ口の母の実家で生まれ、東京府立一中(現日比谷高校)を経て、1916(大正5)年に東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科を卒業、在学時は板谷波山(1872-1963)に師事し、窯業の基礎科学を学び、卒業後は2年先輩の河井寛次郎(1890-1966)と共に京都市立陶芸試験場にて主に釉薬の研究を行う。この頃、柳宗悦(1889-1961)、富本憲吉(1886-1963)、陶芸家のバーナード・リーチ(Bernard Howell Leach、1887-1979)の知遇を得る。

1920(大正9)年に英国に帰国するリーチに同行、1922(大正11)年に共同してコーンウォール州(Cornwall)セント・アイヴス(St Ives)に「リーチポタリー(Leach Pottery)」を築窯した。1923(大正12)年にロンドンで個展を開き、1924(大正13)年に帰国し、しばらくは沖縄・壺屋窯などで学び、1930(昭和5)年からそれまでも深い関心を寄せていた益子焼の産地、栃木県益子町で作陶をはじめた。

ほとんど手轆轤(ろくろ)のみを使用するシンプルな造形と、釉薬の流描による大胆な模様を得意とした。戦後、1955年2月15日には第1回の重要無形文化財保持者(人間国宝、工芸技術部門陶芸民芸陶器)に認定され、1964年に紫綬褒章、1968年に文化勲章を受章した。

柳宗悦の流れをうけて民藝運動に熱心であり、1961年の柳の没後は日本民藝館の第2代館長に就任した。1970年の大阪万博の日本民芸館パビリオンの名誉館長を経て、1972年に大阪日本民藝館の初代館長に就任した。1977年には自ら蒐集した日本国内外の民芸品を展示する益子参考館を開館した。1978年1月5日に益子にて没。享年83。墓所は川崎市の宗隆寺。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は15時)まで。入場は無料。