【ケイシーの映画冗報=2024年7月18日】日本だけでなく、全世界で“金銭的成功者”の象徴ともいえるモノのひとつが、イタリアの自動車メーカー「フェラーリ」の車であることに異論はないでしょう。

7月5日から一般公開されている「フェラーリ」((C)2023 MOTO PICTURES,LLC.STX FINANCING,LLC.ALL RIGHTS RESERVED.)。作品は「PG12」に指定されており、12歳未満は親または保護者の助言・指導が必要とされる。制作費は9000万ドルから1億1000万ドル(1ドル=150円計算で、135億円から165億円)と推定されている。
本作「フェラーリ」(Ferrari、2023年)は、そのフェラーリ社のオーナーで、ブランド名になったエンツォ・フェラーリ(Enzo Ferrari、1898-1988)の生涯のなかで、もっとも濃密だった4カ月に絞り込んで映画化したものです。
1957年、フェラーリ社の創業者エンツォ・フェラーリ(演じるのはアダム・ドライバー=Adam Driver)は、失意と苦悩の中にいました。前年に愛息ディーノ(アルフレード・フェラーリ=Alfredo Ferrari、1932-1956)を難病で喪い、共同経営者でもある妻のラウラ(Laura Ferrari、1900-1978、演じるのはペネロペ・クルス=Penelope Cruz)との関係は冷えきり(ときには銃を向けられることも!!)、愛人とその息子とも生活を共にする二重生活となっていました。
会社も順調とはいえない状態です。手作業で生み出されるフェラーリの車両は高い評価を受け、オーダーはありながらも、エンツォの“妥協なき自動車製造”のために数を揃えることができず、破産寸前というところまで追い込まれてしまいます。
「レースで好成績を出し、その宣伝効果で車を売る」というシステムを、ライバル・メーカーもこなすようになり、技術面での圧倒的優位さが揺らいでいたのです。
起死回生をはかるエンツォは、イタリア国内を1000マイル(1マイルはおよそ1.6キロ、およそ1600キロ)にわたって駆け抜ける公道レース「ミッレミリア」(Mille Miglia、1927年から1957年までイタリアで行われた自動車レース)での勝利のため、新型マシーンを開発し、そのマシーンを操るレーサーを集めます。
マスコミでの記事の取扱いまでをコントロールするエンツォは、まさに自身と会社の命運をかけてレースに臨むのでした。
監督のマイケル・マン(Michael Mann)は、テレビドラマの脚本や監督をてがけ、1995年には、ロサンゼルス市街で、警察と強盗犯が5分を超える大銃撃戦を繰り広げるアクションシーンでいまでも評価の高い「ヒート」(Heat、アメリカ映画)は現在でも高く評価され、多くの映像作家に影響を与えた良作として知られています。
この作品で警察と犯罪者の銃撃のちがい(警察は1発ずつ狙って撃つのに対し、強盗犯は逃走路をひらくために乱射乱撃する)や、俳優陣への射撃訓練をおこなうといったマン監督の「作品世界を現実に寄せてストーリーを描いていく」作劇術は、本作でもしっかりと踏襲されています。
世界的なスポーツカー・メーカーの創業者を描くということから連想するのは、やはり迫力とスピード感に満ちたレース・シーンだと思われますが、本作ではモーター・スポーツの華やかな部分だけではなく、一大レースに臨んでのさまざまな要素、エンジンの選定やドライバーの選出といったところにも視線が向けられています。
一見、地味な情景とも感じられますが、むしろこうした“静”の要素があることで、“動”のレースがより強く、鮮やかなコントラストとなって、観客に印象づけられるのです。
こうした対比の構図は、キャラクターにも投影されています。エンツォは夭逝した愛息の墓碑にも独りで見舞い、母や妻とは行動を共にしません。一応の規律はあるものの、愛人との家庭と息子を持つ“ふたつの生活”に身を置き、とても平穏とはいえない生活を送っています。
マン監督によれば、「子供に先立たれるほどの悲劇はないが、夫婦が一つになって悲しみを共有できなかった面がある。ラウラは全てが終わってしまった過去を見ている。一方のエンツォは常に現在と未来を見ていた」のであり、「バランスや安定というものがない。人生とは一貫性がなく、混乱にあふれたものだ」という監督の言葉は、本作の根幹となっているように感じます。
派手さや豪快さから一歩引いた感覚で描かれるクライマックスのレースは、設計からパソコンが駆使されたレース・カー、レース中にもコンピュータが関わる現代のサーキットとは違った世界となっています。
半世紀以上も過去のカーレースを再現するにあたり、マン監督いわく、「11台も新たに車を作らなければならず、そのために私も(主演の)アダム(ドライバー)も報酬を削った」(いずれも2024年6月28日付読売新聞夕刊)ということなので、その再現性には最高レベルの熱量が注がれているのです。情念が先行すると過剰になりかねない部分をあえて抑えることで、かえって凄味を際立たせるという、まさに職人芸の良作だといえるでしょう。
次回は、「もしも徳川家康が総理大臣になったら」を予定しています(敬称略。【ケイシーの映画冗報】は映画通のケイシーさんが映画をテーマにして自由に書きます。時には最新作の紹介になることや、過去の作品に言及することもあります。隔週木曜日に掲載します。また、画像の説明、編集注は著者と関係ありません)。