能登地震から半年、復興の祈り込めたあばれ祭に圧倒される(153-3)

(インドへの一時帰国から日本に戻ってきましたので、タイトルはそのままです)
【モハンティ三智江のインドからの帰国記=2024年9月3日】前回は、セク明子さんの能登半島地震で被災した別宅(能登町松波)を訪ねがてらの、現地視察ルポをお届けした(https://ginzanews.net/?page_id=68331)。

夕刻に宇出津の町に入ると、キリコが3基出ていて、法被姿の若衆に引かれ、通りを練り歩いていた。

今回は、3回シリーズの最終回、「あばれ祭」(別名・キリコ祭、いやさか祭り、約350年の歴史があり、疫病退治に始まる)の見学記である。以下、復興への祈りのこもった迫力満点の名物祭のレポートをどうぞ。

7月6日、石川県能登町の宇出津(うしつ)のキリコ祭の第2日目、セク一家の案内で現地に入った私は、お祭りが本格的に始まるのを今か今かと待っていた。夕闇が迫り、宇出津の目抜き通りに出ていた大小さまざまの切子燈籠(高さ4メートルから6メートル、最大15メートル)に灯がともった。

キリコの立つ山車の枡座(ますざ)に乗せてもらったセク家の幼い次男、颯(りく)君は、ご機嫌だった。ほかの子どもたちと共に鉦(かね)や太鼓を叩き、長旅の疲れでぐずっていたのがどこへやら、祖父ゆかりの郷土愛に溢れた古来のお祭に生き生きと、楽しそうだった。兄の透快(すかい)君も、ワクワクと夜祭の本番を待ち焦がれている。

夜の祭本番まで時間があるので、いまだ隆起やひび割れなど震災の爪痕が残る修復路を歩いて、宇出津の漁港に出てみた。岸に繋がれた小型漁船も幟(のぼり)を立てて、華やかな祭りモードだった。

母親の明子さんは子どもの頃、夏の休暇を祖父宅で過ごしながら、キリコ祭を堪能した思い出があるという。おじいさんは、キリコ人形(毎年7月の第4土曜に催されるお祭りで、キリコの前面に人形を飾り、競い合う)や、ミニチュアのキリコ作りの名人だったそうだ。

ご主人のセク・ラジさん(東インド・オディシャ州=Odisha=出身のイスラム教徒)は、座布団を肩にキリコを担がせてもらう真似をし、なかなか様になっていた。そろそろ、別地区のキリコが路上を練り歩き出していたが、目の前のキリコは未だ大勢の若衆に担がれて、動き出す気配はなかった。

まだ、陽が落ちないうちから待ちかねているだけに、さすがにくたびれたが、突然担ぎ手のリーダー格の男性が、こっちこっちと手招きした。奥の細い路地から、何かがどっと繰り出す気配がある。

威勢のいい掛け声とともに飛び出したのは、神輿だった。
「危ない、下がって、下がって」
の声に寄り集った群集がざーっと潮を退くように後退る。とてつもない気迫のこもった塊があわやぶつかりそうな勢いで迫ってくるのに威嚇を覚える。

「チョウサ、チョウサ」(末尾の脚注を参照)と、白い腰巻姿の氏子衆が威勢のいい掛け声とともに神輿を担ぎながら狂喜乱舞、驚愕することには、突然地に神輿をバーンと叩き落とし、横に転がし、乱暴に壊し始めるではないか。

夜になってキリコに灯が入り、枡座に乗せて貰った颯(りく)君はご満悦、ピースサインでパチリ。

これは一体?半信半疑の私、あらくれ若衆は地に転がした神輿の上に乗っかり、ぐるぐる回転させ、また担いで巡幸、途上立寄った詰所で神主が祝詞を唱えお祓いするのに跪拝(きはい)、その後、また同じ繰り返しで、神輿を壊しながら町内を駆け抜けていく。練り歩くなんて悠長なもんじゃない、力任せに叩き壊し、あばれまくって、川まで運んでいくのだ。

ものすごい迫力である。突進せんばかりの勢いに、子どもならずとも恐怖を覚え、思わず後退る。黒山の群集が取り囲み、隙を縫って一瞥した、あばれ神輿の途方もない迫力には、度肝を抜かれた。

屈強な若衆は酒が入っていてトランス状態、でなければ、こんなやばくて危ない芸当はできまい。神輿を力任せに地に叩きつけ、壊しまくり(壊せば壊すほど神様が喜ぶとか)、目抜き通りを駆け抜ける狂気の爆発、桁外れの熱量には息を呑むばかりだった。

すごい!私は圧倒されて、「あばれ祭」と命名された真の意味を知った。大小37基の切子燈籠に灯がともされ、「イヤサカヤッサイ」の掛け声ともに練り歩く様も、ノスタルジックで美しかったが、第2日目の目玉はなんと言っても、このあばれ神輿だったのだ。

キリコが大勢の若衆に引かれて、目抜き通りを練り歩き出した。灯がともると、郷愁をかもし、美しい夏祭りの風物詩になる。

舞台はいよいよクライマックスへ。神輿を橋のたもとから川に投げ入れ、自らも飛び込んだ勇壮な若衆は、川中でも神輿を転がし、岸壁に叩きつけて壊しまくり、最後に松明の火中に投げ入れるのである。

神輿は2基あり(白山神社と酒垂神社)、あと1基は宮入りして(元旦の震災で八坂神社はじめの3鳥居は全壊、竹製で代用された)、置き松明に放たれるのだ。キリコも同じく、火中に放たれ闇に火の粉を飛ばしながら燃え落ちていく。

残念ながら、火の粉を浴びるとご利益(りやく)があるというフィナーレまでは目撃できず、22時過ぎに現場を去ったが、復興祈願が込められた、いつも以上の気迫がこもった江戸古来の奇祭は圧巻の一言に尽きた。日本全国、祭り多しと言えども、狂暴ぶりでは群を抜く日本一だろう。怪我や火傷もものともせず、無頼の限りを尽くすスペクタクルに、雑踏に混じる外国人観光客も目を剥いていた。

帰りは下道を通って4時間余、金沢市内の自宅に辿り着いたのは午前2時過ぎだったが、希少な奥能登の奇祭に遥々ご案内いただいたセク一家のご厚意には感謝するばかりだった。

セク・ラジさん(中央)が、座布団を肩にキリコ山車を担ぐ真似事、なかなか様になっていた。

セクさん一家が被災問題を一刻も早く解決し、金沢市唯一の食の禁忌に応じたハラール(halal)対応インド料理店、「オリッサ(Orissa)」の復活に向けて踏み出すことを、心から祈らざるを得なかった。

※元旦の地震では宇出津も被災、津波被害にも見舞われただけに、祭り開催を危ぶむ声も多かったというが、活気を取り戻すためにも必要と敢行、それだけに復興祈願のこもった今回のお祭は住民に元気を与える材料となったようだ。

未だ1400人超が避難生活を余儀なくされ、倒壊家屋の撤去も進まぬ現状、7カ月たった今こそ、行政・民間共の継続的支援が望まれる。

脚注
「チョウサチョウサ」とは、「すべてを超越されたとてつもない強烈な神様が、朝鎮まられた」という意味の「超在朝座」が訛って「チョウサチョウサ」になったと言われる。ほかにも諸説あり、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての能登の地頭、長谷部信連(はせべ・のぶつら、生年不詳-1218)公が地方を巡見された折、「長(ちょう)さま長さま」と囃したてたのが起源とも言われる。

あばれ神輿を担ぐあらくれ衆は、お神酒がかけられ、トランス状態。一休みした後、また担いで地に叩きつけ、転がし、上に乗っかり、回転の繰り返しで川まで運ぶ。

(「インド発コロナ観戦記」は、92回から「インドからの帰国記」にしています。インドに在住する作家で「ホテル・ラブ&ライフ」を経営しているモハンティ三智江さんが現地の新型コロナウイルスの実情について書いてきましたが、92回からはインドからの「帰国記」として随時、掲載しています。

モハンティ三智江さんは福井県福井市生まれ、1987年にインドに移住し、翌1988年に現地男性(2019年秋に病死)と結婚、その後ホテルをオープン、文筆業との二足のわらじで、著書に「お気をつけてよい旅を!」(双葉社)、「インド人には、ご用心!」(三五館)などを刊行している。編集注は筆者と関係ありません)