丸善日本橋でシャガール、ピカソ、ミュシャら「パリの画家」展

【銀座新聞ニュース=2024年9月29日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は10月2日から8日まで3階ギャラリーで「パリを彩った画家たち展」を開く。

丸善・日本橋店で10月2日から8日まで開かれる「パリを彩った画家たち展」に出品されるモーリス・ユトリロの「ノルヴァン通り』(エッチング、1952年作)。

フランス・パリは芸術の都として、多くの人々をその魅力と美しさで虜にしてきたが、今回はそんな芸術の都に魅了され、20世紀のパリで活躍したロシア(現ベラルーシ)出身のユダヤ系フランス人画家で、妻のベラ・ローゼンフェルト(Bella Rosenfeld、1895-1944)を深く愛し、「愛の画家」と呼ばれたマルク・シャガール(Marc Chagall、1887-1985)、20世紀を代表するスペインの画家、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso、1881-1973)。

フランス人画家、モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo、1883-1955)、フランスの画家で「色彩の魔術師」と呼ばれ、フォーヴィスム(Fauvisme、野獣派)のリーダ-的存在だったアンリ・マティス(Henri Matisse、1869-1954)ら「エコール・ド・パリ(Ecole de Paris)」の画家たちの版画作品と19世紀のパリで活躍したるチェコ(当時はオーストリア=ハンガリー帝国領モラビア)出身のグラフィックデザイナー、アルフォンス・ミュシャ(Alfons Maria Mucha、1860-1939)らの「アール・ヌーヴォー(Art Nouveau、フランス語で「新しい芸術」の意)」の画家の作品も併せて紹介する。

ウイキペディアによると、「エコール・ド・パリ(パリ派)」は20世紀前半、各地からパリのモンマルトル((Montmartre)やモンパルナス地区( Quartier du Montparnasse)に集まり、ボヘミアン的な生活をしていた画家たちをさす。厳密な定義ではないが、1920年代を中心にパリで活動し、出身国も画風もさまざまな画家たちを総称した表現で、1928年にパリのある画廊で開かれた「エコール・ド・パリ展」が語源といわれている。

印象派のようにグループ展を開いたり、キュビスムのようにある芸術理論を掲げて制作したわけではなく、「パリ派」とはいっても、一般に言う「流派」や「画派」ではない。狭義のエコール・ド・パリは、パリのセーヌ川左岸のモンパルナス(詩人の山)につくられた共同アトリエ「ラ・リューシュ(蜂の巣)」に集った画家たちをさす。

一方、セーヌ河右岸のモンマルトルには、ピカソが住んでいた「バトー・ラヴォワール(洗濯船)」があり、キュビスムの画家が多かった。狭義のエコール・ド・パリはキュビスムなどの理論に収まらない画家のことで、広義のエコール・ド・パリは、キュビストも含めてこの時代のパリで活躍した外国人画家(異邦人的なフランス人画家も含む)すべてをさす。

国籍は違えども、ユダヤ系の画家が多く、「エコール・ド・ジュイフ(ユダヤ人派)」と呼ばれることもある。

「アール・ヌーヴォー」は、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動で、花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式にとらわれない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などが特徴とされている。分野としては建築、工芸品、グラフィックデザインなど多岐にわたった。

第1次世界大戦(1914年から1918年)を境に、装飾を否定する低コストなモダンデザインが普及するようになると、「アール・デコ(Art Deco)」(1920年から1940年)への移行が起き、アール・ヌーヴォーは世紀末の退廃的なデザインとして、美術史上もほとんど顧みられなくなった。

1960年代にアメリカでアール・ヌーヴォーのリバイバルが起こり、その豊かな装飾性、個性的な造形への再評価が進み、新古典主義とモダニズムの架け橋と考えられるようになり、ベルギー・ブリュッセルやラトビアの首都・リガ歴史地区のアール・ヌーヴォー建築群は世界遺産に指定されている。

アール・ヌーヴォーという言葉はパリの美術商、サミュエル・ビング(Samuel Bing、1838-1905)の店の名前「アール・ヌーヴォーの店」(Maison de l’Art Nouveau)から一般化した。アール・ヌーヴォーの理論的先駆はビクトリア朝(1837年から1901年)英国の「アーツ・アンド・クラフツ運動(美術工芸運動)」に求められる。

フランスのアール・ヌーヴォーは2つの派に分かれ、サミュエル・ビングとその店を中心としたパリ、他方がエミール・ガレ(Charles Martin Emile Galle、1846-1904)に率いられたナンシー派(L’Ecole de Nancy)で、中心となったのはナンシー派とされている。

1870年のアルザスとモゼルの併合の後、ドイツの支配の下に留まることを望まなかった多くの併合ロレーヌ地方の住民は仏領ロレーヌに移住した。ここでアール・ヌーヴォーは地方主義要求の表明手段となり、エミール・ガレ、オーギュスト・ドーム(Auguste Daum、1853-1909)とアントナン・ドーム(Antonin Daum、1864-1930)のドーム兄弟らがナンシー派を形成した。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は15時)まで。