監督が米国の内戦をより難しく描いた「シビル・ウォー」(404)

【ケイシーの映画冗報=2024年10月10日】本作「シビル・ウォー アメリカ最後の日」(原題はivil War)はアメリカ合衆国大統領(演じるのはニック・オファーマン=Nick Offerman)の言葉で幕を開けます。「我々は歴史的勝利に近づいている。アメリカに祝福あれ」

10月4日から一般公開されている「シビル・ウォー アメリカ最後の日」((C)2023 Miller Avenue Rights LLC;IPR.VC Fund II KY. All Rights Reserved.)。 ウイキペディアによると、制作費は5000万ドル(推定、1ドル=140円換算で約70億円)、興行収入がアメリカ(2024年3月14日公開)で6521万4841ドル(約91億3007万円)、世界で1億0807万8757ドル(約151億3102万円)。

強権的な政治を断行する大統領に対し、19の州が連邦政府から離脱し、テキサスとカリフォルニアの両州が西部軍(Western Forces)を結成して、首都ワシントンに進撃しており、現実には現大統領は危機に瀕していたのです。

戦場ジャーナリストの女性リー(演じるのはキルスティン・ダンスト=Kirsten Dunst)は、ニューヨークで仕事仲間のジョエル(演じるのはワグネル・モウラ=Wagner Moura)、ベテラン記者のサミー(演じるのはスティーヴン・マッキンリー・ヘンダーソン=Stephen McKinley Henderson)らと、およそ1400キロを移動してワシントンに行き、「大統領への独占インタビュー」をすることを計画します。

14カ月も姿を見せない大統領に取材できれば、一大スクープとなるためです。一行はリーを慕う若い女性カメラマンであるジェシー(演じるのはケイリー・スピーニー=Cailee
Spaeny)を加えた4人でニューヨークを出発します。その旅のなかで、武装集団や難民のコミュニティ、時には極端な偏見によって裁く人物までが登場し、法と秩序の乱れた世界に直面することになります。

やがて、ワシントンへと進撃する西部軍と行動を共にしたリーたちは、激戦のなか、ワシントン市内にあるホワイトハウスに入りこみ、大統領の姿を探すのですが。

日本では1861年から1865年にかけてアメリカ合衆国で戦われた「南北戦争」という名称で伝わっていますが、アメリカ国内では定冠詞をつけた「the Civil War(ザ・シビル・ウォー)」と表記するのが一般的だそうです。直訳すると「市民戦争」となりますが、意味的には「内戦」ということになります。

このころのアメリカ合衆国の人口は約3000万人と、現在の10分の1ほどですが、戦死者は62万人を超える、アメリカの歴史上、最大の被害をもたらしたのがこの内戦だったのです。

戦地の取材経験の豊富なリーにとって、アメリカは“安全な場所”だったのですが、国内での激しい戦いの結果、荒廃した戦地になったことに衝撃を受けます。

監督・脚本のアレックス・ガーランド(Alex Garland)は、こう語ります。
「内戦だろうと隣国との戦争だろうと、争いが生じている。それが今の戦争です」(パンフレットより)

冒頭でアメリカが内戦状態にあることは示されますが、リーたちジャーナリストが滞在するニューヨークのホテルに、騒乱の影響はあまり出ていません。日中にはデモ隊を巻き込んだ爆発事件があったにもかかわらず、アルコールと会話を楽しんでいるのです。

“不謹慎”という視点もあるのでしょうが、1年以上も戦われていたら、“日常化”してしまうのも理解できます。“慣れ”は適応能力のひとつでもありますから。

ニューヨークを旅立ったリーたちは、徐々に崩壊している社会に触れていくわけですが、突然、戦闘に放りこまれたり、いきなり狙撃されたりと、“報道関係”という攻撃を受けないはずの立場でありながら、幾度も危機に直面していきます。そして、戦いあっているのが同じアメリカ人なので、状況は混沌としているのです。

自分の周囲の見知った人物のほかには信頼できないという、不安や突発自体への警戒心を、登場人物たちと観客は共有することになります。銃声や怒号、爆発音のあと、急におとずれる静寂は、強く印象に残ります。

「この映画は観客に対してアグレッシブになることを厭わずに作ろうとしました。サウンドもそうで、観客に安心感を与えないようにしました」とガーランド監督は語ります。銃声や爆発をリアルに出したので、撮影現場に近い住人から、警察への通報もあったそうです。

「私たちが今抱えている問題は、その点では単純ではありません。それには明確な善悪はありません。複雑な理由による分裂です。ですから、私は『シビル・ウォー』を、より難しいものとして描きたかったのです」(いずれも「映画秘宝」2024年11月号)

筆者も先月おとずれたハワイで、南国の観光地とはおもえない喧騒に遭遇しています。ホテル従業員による、待遇改善のデモとストライキがあり、シュプレヒコールやラッパが鳴り響く、異質な雰囲気を感じたばかりでしたので、本作はより一層、現実感をおぼえた鑑賞体験となりました。次回は「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」を予定しています(敬称略。【ケイシーの映画冗報】は映画通のケイシーさんが映画をテーマにして自由に書きます。時には最新作の紹介になることや、過去の作品に言及することもあります。隔週木曜日に掲載します。また、画像の説明、編集注は著者と関係ありません)。

編集注:ウイキペディアによると、南北戦争は1861年4月12日から1865年4月9日まで北部のアメリカ合衆国と合衆国から分離した南部のアメリカ連合国の間で行われた内戦で、奴隷制存続を主張するミシシッピ州やフロリダ州など南部11州が合衆国を脱退して「アメリカ連合国(Confederate States of America=CSA)」を結成し、合衆国にとどまったその他の北部23州との間で戦争となった。

当時、南部と北部との経済・社会・政治的な相違が拡大し、南部では農業中心のプランテーション経済が盛んで、特に綿花をヨーロッパに輸出していた。プランテーション経済は黒人奴隷の労働により支えられており、農園の所有者が実質的に南部を支配していた。南部の綿花栽培の急速な発展は、英国綿工業の発展に伴って増大した綿花需要に負うもので、英国を中心とした自由貿易圏に属することが南部の利益につながっていた。

一方、北部では米英戦争(1812年から1814年)による英国工業製品の途絶で、急速な工業化が進展しており、新たな流動的労働力を必要とし、奴隷制とは相容れなかった。また、ヨーロッパ製の工業製品に対抗するため保護貿易が求められていた。その結果、奴隷制と貿易に対する認識を異にしていた北部の自由州(奴隷制を認めないという「自由」、奴隷州に対する概念的呼び方)と南部の奴隷州との間で対立が生じていた。

さらに、合衆国が財政難に陥ったフランス(ナポレオン1世=Napoleon Bonaparte、1769 -1821)からルイジアナ・テリトリーを購入(ルイジアナ買収、1812年)、メキシコから「独立」(1835年)したテキサス共和国とカリフォルニア共和国を合衆国に加えたことで領土を拡張した結果、それまで上院で保たれていた自由州派(北部)と奴隷州派(南部)の均衡が崩れることとなった。

この時、カリフォルニア州を自由州として、ニューメキシコ準州、ユタ準州については州に昇格する際に住民自らが奴隷州か自由州かを決定すること(人民主権)となった。この協定によって、南部は奴隷州が少数派となること、すなわち自由州側の方が上院議員数が多くなることに危機感を抱いた。開戦の時点で北部の人口は約2200万人、南部の人口は約900万人だったとされる。しかも南部の人口は、約400万人の奴隷人口を含めている。

こうした対立は徐々に先鋭化し、北部では奴隷制に反対する新政党である共和党が急速に支持を拡大し、一方、与党である民主党は北部と南部の対立が激化して、党が南北に割れる事態となっていた。

1860年11月の大統領選挙では奴隷制が争点のひとつになり、奴隷制の拡大に反対していた共和党のエイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln、1809-1865)が当選した。同年12月にはサウスカロライナ州が合衆国からの脱退を宣言、1861年2月までにミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州も合衆国からの脱退を宣言した。2月4日にはこの7州が参加した「アメリカ連合国」を結成、首都をアラバマ州モンゴメリーにおき、ジェファーソン・デイヴィス(Jefferson Finis Davis、1808-1889)が暫定大統領に指名(同年11月の選挙で正式に当選)された。

3月4日にリンカーンが大統領に就任すると、4月12日に南軍が合衆国のサムター要塞を砲撃して戦端が開かれた。リンカーンは合衆国に残ったすべての州にサムター要塞などの奪回を呼び掛け、軍事的な協力を要請した。しかし、これは連合国への軍事対決を意味し、このときいまだ合衆国に残っていた奴隷州を強く刺激した。

こうして5月までにバージニア州、アーカンソー州、テネシー州、ノースカロライナ州も連合国に合流した。バージニア州はアメリカ有数の有力州であり、このとき連合国の首都もモンゴメリーからバージニア州のリッチモンドへと移された。ただし、奴隷州でもデラウェア州、ケンタッキー州、メリーランド州、ミズーリ州、バージニア州の西部(後にバージニア州から「独立」してウェストバージニア州となる)は合衆国に残った。合衆国に残ったこれらの奴隷州への対応に、リンカーン大統領は非常に苦慮することとなる。

南北戦争が勃発した時点では、北部も南部も戦争の準備はできていなかった。合衆国陸軍に所属していた将兵は1万6000人程度であり、合衆国海軍も将兵7600人と船舶42隻程度しか保有していなかった。それに対して、南部は正規軍と呼べるような兵力は保有しておらず、海軍も存在しなかった。

リンカーン大統領は1862年9月、奴隷解放宣言を発した(本宣言は1863年1月)。この頃からリンカーンは、奴隷制に対する戦いを大義名分として前面に押し出すようになり、その成果もあって連合国がイギリスやフランスから援助を受けようとする努力は失敗に終わった。

1865年3月には北軍の最後の攻勢であるアポマトックス方面作戦が開始され、4月1日のファイブフォークスの戦いで打撃を受けた南軍は4月3日に南部の首都リッチモンドから撤退し、西へと退却した。しかし追いすがる北軍と4月9日にアポマトックス・コートハウスの戦いが起き、南軍が降伏して南北戦争は事実上終了した。

お互いにあらゆる国力を投入したことから、南北戦争は世界で最初の総力戦のひとつとなった。最終的な動員兵力は北軍が156万人、南軍が90万人に達した。両軍合わせて50万人近くの戦死者を出し、民間人死者を合わせると70万人から90万人に上るとされている。これは今日に至るまで、戦争における合衆国史上最大の死者数である。北軍の公式戦死者数は36万4511人であるが、南軍の公式な戦死者数のデータは存在しない。ただ、陸軍憲兵司令官の報告書には13万3821人とある。