(展示場所は小平市ですが、展示内容は銀座の発展の歴史なので、掲載します)
【銀座新聞ニュース=2024年10月11日】東京ガス(港区海岸1-5-20、03-5722-0111)は12月25日までガスミュージアム(小平市大沼町4-31-25、042-342-1715)のガス灯館2階のギャラリーで「明治のガス燈から現代の輝きー銀座クロニクル」を開いている。
1874(明治7)年12月18日に銀座煉瓦街で初めてガス燈が灯り、この出来事から東京でのガス事業が150年を迎える。銀座は1872(明治5)年に後に「銀座大火」と呼ばれる大火災に襲われ、一帯を焼き尽くしたが、これが新しい銀座が誕生する契機となった。
この地は当時の鉄道の起点であり、明治東京の表玄関である新橋に近いため、政府はこの地を煉瓦造りの西洋風の不燃都市として復興することを決定した。明治5年8月より、京橋側から大通りに沿って煉瓦造りの漆喰仕上げの建物の建設が始まり、通りは車道と歩道が分離され、街路樹も整備された。明治7年12月18日にガス街灯が設置されたことで、銀座煉瓦街の街並みが整った。
この西洋風の都市風景は、工事が進むにつれて計画が見直され、1877(明治10)年に街全体が完成した。当初は払い下げ価格が高く、空きスペースも多く見られたが、やがて新聞各社の建物や時計、輸入品を扱う商店、開化文物を製造販売する店舗が次々と並び、銀座は情報や文化の発信地として、文明開化のショーウィンドウとなった。
関東大震災(1923年)や戦争の被害を乗り越えた銀座は、日本を代表する繁華街として知られる。
今回の「銀座クロニクル」展では、“明治のガス燈から現代の輝き”をテーマに、明治時代の銀座の様子を描いた錦絵と現在の風景を対比して紹介している。
ウイキペディアによると、銀座は江戸時代(1603年から1868年まで)に銀貨の鋳造所である銀座が置かれたことが地名の由来となっている。北側より銀座1丁目から銀座8丁目まであり、江戸城外堀を埋め立てた東京高速道路の1・2階部分は商店街となっているが、行政区画が未確定な部分もあり、俗に「銀座9丁目・銀座西◎丁目地先」などと呼ばれる。こうした事情から、銀座は4丁目と5丁目を除き、1番地が存在しない。
こうした未整理区域があることを利用し、銀座8丁目と新橋の間には銀座9丁目を示す「銀座ナイン」と呼ばれる商業施設が3棟ある。
街路網は北東から南西に向かう中央通り(銀座の部分だけ特に「銀座通り」と呼ばれる)を中軸として設計されており、銀座における中央通りの軸線は、京橋、日本橋、神田における軸線と異なる方向を向いている。これは、徳川家康(1543-1616)による当初の都市計画の際、江戸前島以来の微高地の尾根筋沿いに、地形に沿った主軸線として通町筋(とおりちょうすじ、現在の中央通り)を設定し、そこから両側に向かう道路を設けることにより、効率的な排水の便を図ったものといわれる。
近代になってからの都市計画に基づきさらに整備が加えられている。1923(大正12)年の関東大震災後、後藤新平(1857-1929、当時は内務大臣兼帝都復興院総裁)による震災復興の都市計画における目玉として、中央通りの東側に、新たな北東と南西軸(東京全体の南北軸の一部)として「昭和通り」が設けられた。また、数寄屋橋から銀座4丁目交差点、歌舞伎座前を経て勝どき橋方面へ至る、北西から南東方向の主要な直交街路として「晴海通り」が大通りとして整備され、銀座街区の西側には「外堀通り」が整備された。
南東側を現在の首都高速都心環状線、その他を東京高速道路に囲まれた地域で、かつては、東を三十間堀川、西を江戸城外堀、南を汐留川、北を京橋川に囲まれた人工の島であった。昭和通りの南東に位置する地域は、かつて木挽町と呼ばれる地域だったが、三十間堀川の埋め立てにより銀座と地続きとなったことから「銀座東」と改名し、1960年代後半に銀座西と共に銀座に統合された。首都高速都心環状線を挟んだ地域も含めて東銀座駅を最寄りとする一帯は、一般的に東銀座と呼ばれている。
一方、数寄屋橋を中心とする地域はかつて銀座西という町名だったが、地下鉄丸ノ内線の西銀座駅(現在の銀座駅)があったことなどから、町名が銀座となった今でも西銀座の名を冠した施設も散在する(例:西銀座デパート・西銀座チャンスセンター・西銀座通り)。
江戸時代以前、現在の丸の内から日比谷にかけては日比谷入江と呼ばれ、海になっており、その東には隅田川の運んできた砂によって江戸前島という砂州が形成されていた。その先端が現在の銀座に当たる。
1603(慶長8)年に徳川家康が江戸幕府を樹立すると、第1回目の天下普請が行われ、日比谷入江の埋め立てと京橋地区の整備が進められた。1604(慶長9)年には東海道が整備されたが、銀座の都市基盤の整備は1612(慶長17)年の第2回目の天下普請まで待つことになる。整備は、京間10間とした東海道(銀座通り)を中心にグリッド状に設計され、それぞれの街区の中央には会所地が設けられた。町割りは金座御金改役で家康の側近でもあった後藤庄三郎光次(1571-1625)を中心に行われた。
町人地として整備が行われた銀座には、1612年に駿府にあった銀座役所(現在の静岡市葵区両替町1丁目)が移転し、銀貨の鋳造が行われた。当時、通町京橋より南1丁目から4丁目までを拝領して新両替町と称し、銀座人らが住居を構え、新両替町2丁目東側南角に常是役所(じょうぜやくしょ)、この北隣に銀座役所が設けられた。
常是役所は現在の第一三共ビル付近、銀座役所は現在のティファニー銀座ビルの位置に相当する。ビルの前には「銀座発祥の地」の石碑がある。1715年には大判座の後藤屋敷が一丁目に移転してきた。これらの場所は現在の銀座1丁目から4丁目に当たる。
銀を特権的に扱う銀座は相当な利益があり、銀座役人の不正事件が多発したことから、銀座そのものは1800年に蛎殻町(現在の日本橋人形町1丁目付近)に移転させられるが、呼び名としての銀座は当地の通称としてそのまま残った。
現在の5丁目から8丁目は、尾張町、竹川町、出雲町と呼ばれていた。現在の銀座7丁目付近には朱座(朱及び朱墨などの関連商品を扱う商人による座)が設けられた。また、徳川家康に親しまれ、幕府の式楽となった能の4座のうち3座も銀座に置かれた。このほかにも、槍や鍋といったものを供給する職人たちが多く居を構えた。
1657(明暦3)年の「明暦の大火」により江戸は大半を焼失し、銀座も大きな被害を出した。これを機に江戸の大規模な都市改造が試みられ、銀座でも三十間堀川沿いの河岸の増設や、道路の新設による街区再編などが行われた。
江戸時代の銀座は、御用達町人地として発展したものの「職人の町」としての側面が強かった。江戸研究家の三田村鳶魚(えんぎょ、1870-1952)も、京橋や日本橋よりも街の賑わいは劣っていたと、自著「銀座」内で語っている。
銀座に転機が訪れたのは、明治維新後の1869(明治2)年と1872(明治5)年に起こった2度の大火だった。特に、1872年の銀座大火は和田倉門内の兵部省添屋敷から出火し、銀座一円が焼失するという大規模なものであった。
そこで、東京府知事・由利公正(1829-1909)の主導により、大規模な区画整理と、イギリスの土木技術者、トーマス・ウォートルス(Thomas James Waters、1842-1898)設計によるジョージアン様式の銀座煉瓦街の建設が行われた。この政策は、火事の多かった東京を不燃都市化すること、また、同年秋に開業予定だった横浜と東京間を結ぶ鉄道の終点・新橋駅と、当時の東日本経済の中心地であった日本橋の間に位置する銀座を文明開化の象徴的な街にしたい、との思惑があったとされる。
ロンドンのリージェント・ストリートに倣って、街路樹(当初は松・桜・もみじ)やガス燈、アーケードなどが造られた。煉瓦街はまず1873(明治6)年、銀座通り沿いに完成し、1877(明治10)年に全街区の建設が完了した。
こうして新しく出発した銀座には2つの特色があった。まず、実用品の小売を中心とした町であったこと。京橋区という下町にありながら、顧客は主に山の手(番町、市谷、赤坂、麻布など)に住む華族や財閥といった特権階級(上流階級)や、中流階級、ホワイトカラーの人々だったということである。
当時の下町の人々の盛り場は、古くから栄えた浅草・上野だった。一方、明治維新後に東京へ出てきた人々は、同じく明治に入って急速な発展を遂げた銀座に集うようになり、こうした地方出身者と中流階級の増加に伴って、銀座も発展をしていった。
「ガスミュージアム」は、日本の都市ガス事業に関する資料を展示・収蔵するために1967年に小平市に開設された。2棟の赤レンガの展示棟は、1909(明治42)年に建てられた東京ガス本郷出張所を移設復元した「ガス灯館」と、1912(明治45)年に建てられた東京ガス千住工場計量器室を移設復元した「くらし館」から構成されている。
日本のガス事業の起源を展示・紹介する「ガス灯館」1階展示では、鹿鳴館(1883年に建設、1890年に「華族会館」となり、1941年に閉鎖、取り壊される)で使用されたガス灯をはじめ、さまざまなデザインのガス灯が見られる。2階にはテーマに沿って定期的に企画展を開催する「ギャラリー」がある。
「くらし館」1階には、1904(明治37)年に発行されたガス器具カタログに掲載されている器具を展示した「瓦斯器具立体型録(がすきぐりったいかたろく)」、150年にわたるガス事業の歩みを紹介した「ガスとくらしのヒストリー」、日本の都市ガス事業を育てた渋沢栄一(1840-1931、1873年、東京府の瓦斯掛(現東京ガス)の委員となり、ガス事業を計画)の足跡を紹介する「渋沢栄一ギャラリー」などのコーナーがある。
また、2階では石炭からはじまったガス製造の歩みを、工場の模型や映像、パネルで紹介している。このほか明治時代に実際に使われていたガス管をはじめ、ガスメーターやガス栓など、都市ガスの供給防災の変遷についても紹介している。2棟のレンガ造りの展示棟に囲まれた中庭には、東京を中心に国内外で当時使われた灯柱を使用し、再現したガス灯が灯る様子を見ることができる。
開場時間は10時から17時。入場は無料。、月曜日が休み、ただし、祝日の場合は開館し、翌日が休み。