丸善日本橋で山本長左・篤「九谷焼」展、本人ら来場も

【銀座新聞ニュース=2024年11月24日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は11月27日から12月3日まで3階ギャラリーで「第4回山本長左・篤作陶展」を開く。

丸善・日本橋店で11月27日から12月3日まで開かれる「第4回山本長左・篤作陶展」に出品される2人の作品。

宮内庁御用達の「妙泉陶房」(石川県加賀市伊切町ワ163-1、0761-74-5471)を主宰する山本長左(ちょうざ)さんと山本篤さんの兄弟展で、2021年から続いて4回目になる。明朝時代(1368年から1644年)の染付を現代の藍九谷に昇華させた兄の山本長左さん、高貴なギョク(勾玉)の色を現す黄磁釉(おうじゆう)を自在に操る弟の山本篤さん、独自のスタイルを貫く2人の技を紹介する。

山本長左さんは元加賀九谷陶磁器協同組合理事長で、石川県九谷陶磁器商工業協同組合連合会副理事長を務めており、山本篤さんは加賀九谷陶磁器協同組合理事長、九谷焼伝統工芸士会会長、日本伝統工芸士会副会長を務めている。

ウイキペディアなどによると、九谷焼は石川県南部の金沢市、小松市、加賀市、能美市で生産される色絵の磁器で、大聖寺藩領の九谷村(現石川県加賀市)で、良質の陶石が発見されたのを機に、加賀藩の命により、藩士の後藤才次郎(1634-1704)を佐賀・有田へ技能の習得に赴かせ、帰藩後の明暦初期(1655年ころ)、藩の殖産政策として、江沼郡九谷村で開窯したのが始まりとされる。

しかし、約50年後(18世紀初頭頃)突然、廃窯となり、窯跡は加賀市山中温泉九谷町にあり、1号窯、2号窯と呼ばれる2つの連房式登窯と、19世紀に再興された吉田屋窯の跡が残っており、この間に焼かれたものは、現在「古九谷(こくたに)」と呼ばれている。

古九谷の廃窯から、約1世紀後の1807(文化4)年に加賀藩が京都から青木木米(もくべい、1767-1833)を招き、金沢の春日山(現金沢市山の上町)に春日山窯を開かせたのを皮切りに、数々の窯が加賀地方一帯に立った。これらの窯の製品を「再興九谷」という。 同じ頃、能美郡の花坂山(現小松市八幡)で、新たな陶石が発見され、今日まで主要な採石場となった。これらの隆盛を受け、それまで陶磁器を他国から買い入れていた加賀藩では、1819(文政2)年に磁器を、1820(文政3)年に陶器を、それぞれ移入禁止にした。

1832(天保3)年ころに小野窯に陶匠として招かれる、寺井村(現能美市寺井町)生まれの九谷庄三(しょうざ、1816-1883)は能登の火打谷(現志賀町)で、能登呉須と呼ばれる顔料を発見し、後の九谷焼に多大な影響を与え、1840(天保11)年ころに故郷に戻り、寺井窯を開いた。ヨーロッパから入った顔料を早い時期から取り入れ、「彩色金欄手(さいしき・きんらんで)」を確立し、庄三風と呼ばれる画風は後にヨーロッパに輸出される九谷焼の大半に取り入れられることになる。

明治時代に入り、九谷焼は主要な輸出品となり、1873(明治6)年のオーストリア・ウィーン万国博覧会などの博覧会に出品されると同時にヨーロッパの技法も入り込んだ。1872(明治5)年ころから型押しの技術が九谷焼にも取り入れられ、1892年ころから、獅子を始めとする置物の制作が盛んとなり、大正時代になると型が石膏で作られるようになり量産化が進んだ。

また、明治維新による失業士族の授産施設として1872年に誕生した金沢区方開拓所製陶部は、砂子吉平(すなこ・きちへい、生没年不詳)、初代諏訪蘇山(すわ・そざん、1851-1922)らの参加を得て成果を上げ、1876(明治9)年には「石川県勧業場」と名を改めた。1887(明治20)年に金沢工業学校(現石川県立工業高校)が開校し、次代の陶芸家が育成されるようになった。

現在、九谷焼は陶器と磁器があり、上絵付けを九谷でしたものを「九谷焼」と呼んでいる。陶器は原料が陶土(粘土)で、温かみがあり、全体に厚くぽってりした感じで、指ではじくと、鈍い音がする。一方の磁器は原料が陶石(石の一種)で、白く堅い感じがあり、薄くて軽くて丈夫で、指ではじくと「チン」と金属質の音がする。

また、茶わんの「わん」の漢字は「于」と「皿」を合わせる、「石」と「宛」を合わせる、「土」と「宛」を合わせる、「木」と「宛」を合わせるの4種類があり、「于」のわんは基本的にフタがない茶碗をさし(後世にはフタ付もある)、「抹茶わん」などに使われている。「石」の茶わんはフタ付の磁器、「土」の茶わんは素焼きでフタ付の器、「木」は木製のフタ付の漆器をさしている。

山本長左さんは1953年石川県小松市生まれ、1972年に上出長右衛門(かみで・ちょうえもん)さんに染付、藤原繁雄さんに写生を学び、1974年に松本佐吉(1905-1988)に運筆模写上絵付を学び、1976年に京都・手塚玉堂(1896-1977)に祥瑞手、茶陶を学び、1978年に嶋田寿楽さんに伊万里手、古染付を学び、1981年に独立した。この間、1975年に「妙泉陶房」を開窯している。

1990年に宮内庁より依頼を受け、天皇皇后両陛下(当時)のご紋入器を制作、同年に即位の礼「饗宴の儀」に使用される漆器を含む、全和食器の菊花をデザインした食器7品目を制作、1991年に立太式に使用されるご紋入器を制作、同年に宮内庁「饗宴の儀」の和食器11品目を納入、1992年に秋篠宮眞子内親王(1991年生まれ、現在、小室眞子さん)の内祝菓子器を制作、1993年に皇太子と皇太子妃(当時)のご成婚「饗宴の儀」に使用するオードブル皿を制作、同年に皇太子妃(当時)のご紋入器を制作、同年に通産大臣(現経産大臣)より九谷焼伝統工芸士に認定される。

1995年に秋篠宮佳子内親王(1994年生まれ)の内祝菓子器を制作、2000年に政府より依頼を受け、国際度量衡局に、メートル条約125周年記念の白磁金欄手大皿を制作、2007年に秋篠宮悠仁(ひさひと)親王(2006年生まれ)の内祝菓子器を制作、2002年に加賀九谷陶磁器協同組合の組合長に就任(2011年まで)、2010年に石川デザイン大賞、2013年に宮内庁より依頼を受け、家鶏図盆栽鉢を制作、2014年に天皇皇后両陛下(当時)のご成婚55周年、天皇即位25周年を記念して「染付金彩磁器三作選」を制作した。

2014年に宮内庁より依頼を受け、松竹梅盆栽鉢を制作、2015年に宮内庁より依頼を受け、金襴手蘭鉢を制作、2016年に宮内庁より依頼を受け、青華鶴に七宝紋蘭鉢を制作、2017年に宮内庁より依頼を受け、青華金彩鳳凰の図蘭鉢を制作、同年に第20回日本伝統工芸士会作品展で最高賞の衆議院議長賞、同年に平成29年度全国伝統的工芸品公募展に最高賞の内閣総理大臣賞を受賞している。

2019年に天皇皇后のご紋入器を息子と共に制作し、同年に即位の礼「饗宴の儀」に和食器6品目が平成に続いて使用され、2018年に第2回三井ゴールデン匠賞を受賞、2019年に宮内庁より依頼を受け、天皇皇后両陛下の御紋入器を制作、2020年に秋篠宮文仁親王と文仁親王妃の神事用器を制作、2022年に春の叙勲にて瑞宝単光章を受章している。

山本篤さんは1956年石川県小松市生まれ、1972年に松永広宣さんに師事 花生を主体にロクロ成形基礎を学び、1974年に九谷青窯にて食器制作の全般を学び、1976年に東野伸三さんに師事、型打成形を中心に茶陶(懐石食器)を学び、1981年に独立した。この間、1975年に兄の山本長左さんと「妙泉陶房」を開窯している。

1990年から山本長左さんとともに、宮内庁より依頼を受けて、共同で天皇皇后陛下のご紋入器などを制作している。1993年に通産大臣より九谷焼伝統工芸士に認定される。

2010年に石川デザイン大賞を受賞、2014年に九谷焼伝統工芸士会会長に就任、2016年に加賀九谷陶磁器協同組合理事長に就任、同年に経産大臣功労者表彰を受け、2017年度に全国伝統的工芸品公募展で内閣総理大臣賞、2018年に第2回三井ゴールデン匠賞を受賞、2020年に秋篠宮文仁親王と文仁親王妃の神事用器を制作、2021年に日本伝統工芸士会副会長に就任している。

11月27日から30日は山本篤さんが来場する。

30日午後と12月1日は山本長左さんが来場する。

12月2日と3日は山本篤さんの息子で九谷焼伝統工芸士の山本高寛さんが来場する。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は15時)、入場は無料。