(インドへの一時帰国から日本に戻ってきましたので、タイトルはそのままです)
【モハンティ三智江のインドからの帰国記=2025年1月21日】年が明けた。2023年は11月に渡印しそのまま現地で年越しをしたが、2024年は金沢(石川県)で新年を迎えることになった。

アリタオ村1番のリゾートホテル、「Nelli’s Place(ネリーズ・プレイス)」(3つ星)に、1泊1200ペソ(1ペソ=2.6円)に値切って2泊、高台にある建物の前面からは美しい山並みが一望のもとに見渡せた。
およそ50年ぶりに「紅白歌合戦」を観たが、あまりの往時との様変わりにガク然として、つまらないので、裏のBS-TBS「酒場放浪記」に変えた。ちょうど年末スペシャル版の台湾編で、同地に行きたいと思っていたところでもあり、情報面からも紅白よりよほど面白かった。
はすかいの小さなお寺から聞こえてくる除夜の鐘の音に耳を澄ましながら、目は「ゆく年来る年」の画面に釘付け、そのうちにやおら立ち上がって年越しそばを作りだし、新年を祝って食べた。
2024年を改めて振り返るに、旅に始まり、旅に終わった1年だった。海外は年初のインド、ベトナム(ハノイ)、11月のフィリピン(渡航情報の詳細は末尾参照)、特筆すべきは、1945年6月10日、フィリピンのルソン島のアリタオ兵站(へいたん)病院で戦死した伯父(亡父の兄、享年28歳)の慰霊の旅が実現したことだ。
普通の観光客ならまず行かない知名度の低いアリタオへの行き方が調べてもわからず、困っていたが、バギオ(マニラから243キロ、バスで7時間の有名避暑地)の宿の女将さんから教えてもらって、早朝シェアバンに乗り込んで、4時間半(111キロ)で到着、ジャンクションからはトライシクル(サイドカー付きバイク)でめざすホテルへ。予約しておらず、ネットで調べて名前と住所だけ書き出したものだったが、降りる地点を間違えたものか、30分近くかかってたどり着いた。
小高い丘の上にあるまだ新しいリゾートホテルで、ロビーも兼ねた広々したガーデンテラスからは、真正面に美しいエメラルド色の山並みが見渡せる。伯父の最期の地がこんなにも美しいところであったことに、私は感動していた。
オープンまもないホテルのツインルームは、小綺麗で清潔、設備も近代的で、日本円にして3000円ちょっと(1200ペソ、1ペソ=2.6円)の安値。ガーデンの脇にはプールもあり、伯父が村1番のホテルを日本からはるばる訪ねた姪のために特別に貸切りで取っておいてくれたような気がして、手放しで歓待しているように思えた。
夕刻、庭に咲き乱れる白いブーゲンビリアを摘んで、暮れなずむ峰々に向かって、天空へと散らし、数珠を潜らせた手を合わせて黙祷、少なくともこんな美しい山中で息絶えたのであれば、伯父の霊もいくらかは浮かばれただろうと、遺族としては慰められる心地だった。アリタオがかくも美しい土地とは予想だにしなかった私だけに、感激もひとしお、国境を越えてはるばる来た甲斐があったと感慨深かった。
生き残り兵の手記によると、アリタオは1945年6月2日頃から空襲が激しくなったとあったから、衛生兵だった伯父も敵機の爆撃(機銃掃射か?)に殺られたものと思われる。病院といっても、草むらに天幕を張っただけのお粗末なもので、アメリカ軍は赤十字マークを無視してガンガン攻撃してきたらしいから(人道無視は戦時下の常)、まさに修羅場だったろう。
負傷兵の手当に走る中での容赦ない空襲、爆撃が止まぬさなか、暴力的な死を強いられた28歳の若者の恐怖を思うと、戦慄する心地だ。
どんなにか無念で、祖国日本に帰りたかったろう。郷里福井で待つ新妻や父母、弟妹のもとにどんなにか戻りたかったろう。望まぬ異国の戦地で果てる辛さ、悲しさ、寂しさ、戦争を知らない世代であっても、血の繋がった親族だけに、感情移入して胸が詰まる思いだった。
もちろん、79年後の今も遺骨は見つかっていない。あの山のどこかに伯父の骨が埋まっていると思うと、まなじりが濡れた。過去に、末弟(私の叔父)と義兄(私の伯母の夫)が遺骨を探しにルソン島まで遠征したらしいが、手がかりはつかめなかったようだ。
そして、79年後の今、姪が慰霊に現地を訪ねた奇縁、伯父が生前会ったことのない、死後9年を経て生まれた下の弟の娘が不自由しないようにと、村1番のリゾートホテルを特別に貸し切って用意してくれていたように思え、感謝の気持ちが込み上げてきた。室内のライトまでもが赤と緑に点滅して、歓迎してくれているように見えた。
以上、2024年のハイライト、である。もうひとつ、フィリピンから帰国して10日後、古希記念に与論島に飛んだのだが、それについてはまた次号、回を改めて述べたい。
〇渡航情報(フィリピン)
東京(成田)ーマニラ間(4時間から5時間、時差1時間)の航空運賃は2万6600円と格安(私は行きはエアアジア、帰りはセブパシフィックを利用)、また現地は物も安いので、アクセスはいいし、旅しやすい。ただし、渡航前にフィリピン政府のE Travelページで個人情報や滞在ホテル、帰路の便など詳細を明示した申告をして(かなりのページ数にわたる)、QRコードを得て入国時提示する必要がある。
※著者注
ルソン島の戦いは、1945年1月6日から日本の敗戦までフィリピン・ルソン島で行われた、日本軍(第14方面軍:司令官は山下奉文大将)とアメリカ軍の陸上戦闘のことを言う。首都マニラは3月にアメリカ軍が制圧したが、その後も日本の敗戦まで戦闘が続いた。日本軍に機甲師団が配属されていたため、太平洋戦線では珍しく多くの戦車戦(日本兵の敵戦車に激突する斬り込み隊)が発生した。
日本軍の戦死・戦病死は21万7000人、対するアメリカ軍は8310人。日本兵は実戦よりも栄養失調やマラリアなどの伝染病で亡くなる者の方が圧倒的に多かった。実際にルソン山岳ツアーを試みて山の険しさ、深さに圧倒された。山中にこもっての持久戦で、食料(塩・水含)も弾薬も乏しく、亜熱帯の密林が生い茂るジャングルの奥深く分け入って(雨季は最悪)、1日20キロの道なき道を行軍した凄絶さは、生き残り兵の手記(阿部莫二「ルソン島ー死の谷」=岩波新書、矢野正美「ルソン島敗残実記」=三樹書房ほか)によって、生々しく描かれている。
(「インド発コロナ観戦記」は、92回から「インドからの帰国記」にしています。インドに在住する作家で「ホテル・ラブ&ライフ」を経営しているモハンティ三智江さんが現地の新型コロナウイルスの実情について書いてきましたが、92回からはインドからの「帰国記」として随時、掲載しています。

アリタオは何もないところで、レストランはトライシクルで15分の町中に2、3軒ある程度。3食とも、徒歩10分の食料雑貨店で買ったパンやジュースで済ませた。写真は途上見つけた小さな教会(フィリピン人はキリスト教徒が多い)。
モハンティ三智江さんは福井県福井市生まれ、1987年にインドに移住し、翌1988年に現地男性(2019年秋に病死)と結婚、その後ホテルをオープン、文筆業との二足のわらじで、著書に「お気をつけてよい旅を!」(双葉社)、「インド人には、ご用心!」(三五館)などを刊行している。編集注は筆者と関係ありません)
編集注:ウイキペディアによると、ルソン島(Luzon)は、フィリピン諸島のうちでもっとも面積の大きな島で、面積は約10万4688キロ平方メートル、人口は約4622万人で、フィリピンの総面積の35%、総人口(2020年現在、フィリピンの人口は約1億960万人)の52%を占める。世界で17番目に大きな島で、世界で5番目に人口が多い島でもある。
首都マニラやフィリピンでもっとも人口が多いケソン、及びそれらを包括する首都圏メトロ・マニラが同島に所在しており、フィリピンの政治・経済で特に重要な位置を占めている。