【銀座新聞ニュース=2025年2月5日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は2月5日から11日まで3階ギャラリーで「小さな命・豊かな心 熊谷守一版画展」を開く。
今回は、熊谷守一と同時代に活躍した近代巨匠版画展も併催する。富や名誉にとらわれず、鳥や虫や花に深い愛情を通わせ近代洋画史に特異な足跡を残し、「画壇の仙人」と呼ばれた熊谷守一(1880-1977)が生前に発表した版画作品を展示販売している
また、近代巨匠版画展では、ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術や琳派、南画といった日本の伝統的な美術を取り入れ、装飾的な世界で知られた洋画家の梅原龍三郎(1888-1986)、点描画法により、幻想的な風景画で知られる洋画家の岡鹿之助(1898-1978)、バラの絵で知られる洋画家、中川一政(1893-1991)、フランス・パリを中心とするヨーロッパの歴史が刻まれた街並みを描き続けた洋画家で「世界のオギス(Oguiss)」として知られた荻須高徳(1901-1986)。
日本の風景画家で「国民的画家」として知られる東山魁夷(1908-1999)、女性画や静物を生き生きと描いた小倉遊亀(1895-2000)、日本画家で「帝展」や「院展」にたびたび落選し、「落選の神様」とまでいわれたが、1939年の第26回院展からは毎回入選するようになり、女性画家として3人目の文化勲章受賞者となった片岡球子(1905-2008)、シルクロードの画家で、東京藝術大学学長(1989年から1995年、2001年から2005年)を務めた平山郁夫(1930-2009)らの版画も展示する。
ウイキペディアによると、熊谷守一は絵が描けず、貧困に苦しむ中、1922年に42歳で結婚し、5人の子どもをもうけた。しかし、4歳で肺炎に罹って医者に診せられずに亡くなった次男の陽(よう)を描いたり(「陽の死んだ日」1928年)、戦後すぐに20歳を過ぎて結核で亡くなった長女の万(まん)が自宅の布団の上で息絶えた姿を荒々しい筆遣いで描いたり、野辺の送りの帰りを描いた作品(「ヤキバノカエリ」1948年から1956年)などの後、晩年の30年間、東京都豊島区の自宅から一歩も出なくなり、わずか15坪(約50平方メートル)の小さな庭が作品の世界のすべてになった。
そうして、小さな世界に息づくさまざまな草花や虫、小さな動物たちなど身近な題材を描き、洋画だけでなく日本画も好んで描き、書や墨絵も多く残し、晩年の独特の世界が誕生したといわれている。
愛知県名古屋市の美術品収集家、木村定三(1913-2003)が熊谷守一を支援し、買取の個展を開くなどしたことにより、熊谷守一の名は晩年にかけて広く日本の画壇に知られるようになり、その100点を超えるコレクションは愛知県美術館に所蔵されている。
熊谷守一は1880年岐阜県中津川市付知町生まれ、1900年に東京美術学校(現東京芸術大学)に入学、1905年と1906年に樺太(からふと)調査隊に参加、1909年に第3回文展に出展、1913年ころに実家へ戻り、日雇い労働の職につき、1915年に上京し、第2回二科展に出展、1922年に大江秀子と結婚し、1929年に二科技塾の開設に参加、後進の指導に当たり、1932年に「池袋モンパルナス」と称される地域(現豊島区椎名町から千早)の近くに家を建て、生涯を過ごした。
1947年に「二紀会」創立に参加(1951年に退会)、1956年に脳卒中で倒れ、写生旅行を断念、1968年に文化勲章を辞退、1972年に勲3等叙勲を辞退、1976年に「アゲ羽蝶」が絶筆となり、1977年8月1日に肺炎で死去した。1985年に自宅を「熊谷守一美術館」(豊島区千早2-27-6、03-3957-3779)として建て替えた(2007年から豊島区立)。
開場時間は9時30分から20時30分(最終日は15時)まで。