【銀座新聞ニュース=2025年5月10日】東京新橋組合「東をどり実行委員会」(中央区銀座8-6-3、新橋会館、03-3571-0012)は5月21日から27日まで新橋演舞場(中央区銀座6-18-2)で全国の19花街の芸者衆による「百回記念公演 第100回東をどり」を開く。
東京新橋組合に所属する料理茶屋と新橋芸者が毎年、この時期に新橋演舞場を料亭に見立て、文化を遊ぶというもので、通常は新橋芸者の踊りと、料亭の味を楽しむ場となっている。1925(大正14)年に新橋演舞場のこけら落とし公演として「東(あずま)をどり」が初演されてから、今回が100回目になる。
この100回目を記念して、今回は京都5花街(祇園甲部、宮川町、先斗町、上七軒、祇園東)、東京5花街(赤坂、浅草、神楽坂、向島、芳町)のほかに、全国9花街(札幌、新潟、金沢三茶屋街=ひがし・にし・主計町(かずえまち)=、名古屋、岐阜、博多、長崎)が参加して、7日間で14公演を開催する。
新橋芸者は「花柳流」(家元は5代目花柳壽輔=はなやぎ・じゅすけ=さん)、「西川流」(家元は西川左近さん)、「尾上流」(家元は尾上菊之丞=きくのじょう=さん)の3つの流派の家元に指導を受けており、東をどりの総合演出も年ごとにひとつの家元に委ね、今年は尾上流の尾上菊之丞さんが総合構成演出を担当している。
また、宴席で披露する芸能(踊り)は、立方(たちかた、踊り手)と地方(じかた、演奏者)で構成されている。
今回は100回記念で、序幕、2幕、3幕の3部構成になっている。序幕は清元の「青海波」が4日間を2組、長唄は「百年三番叟」で1組が3日間。楽曲は交互に、主役は3組の日替りとなる。序幕は21日、23日、25日、27日が清元「青海波」、22日、24日、26日が長唄「百年三番叟」。
2幕から各花街の芸者衆が演舞を披露する。また、序幕と2幕目には休憩を入れない。3幕目は100年来、「東をおどり」を支えてきた新橋の芸者衆が踊りを披露する。
21日は序幕が「新橋 清元」、2幕が「祇園甲部、赤坂」、3幕が「新橋」、22日は序幕が「新橋 長唄」、2幕が「浅草、上七軒、神楽坂」、3幕が「新橋」、23日が序幕が「新橋 清元」、2幕が「名古屋、祇園東、岐阜」、3幕が「新橋」。
24日が序幕「新橋 長唄」、2幕が「金沢(ひがし、 にし、主計町)、長崎」、3幕が「新橋」、25日が序幕「新橋 清元」、2幕が「博多、宮川町、新潟」、3幕が「新橋」、26日は序幕が「新橋 長唄」、2幕が「札幌 向島 先斗町」、3幕が「新橋」、27日は序幕が「新橋 清元」、2幕が「東京五花街ー赤坂 浅草 神楽坂 向島 芳町」、3幕が「新橋」。
現存するおもな「新橋」の料亭としては、「金田中」(中央区銀座7-18-17)、「東京吉兆本店」(中央区銀座8-17-4)、「新喜楽」(中央区築地4-6-7)、「松山」(中央区銀座7-16-18)、「米村」(中央区銀座7-17-18)、「わのふ(wanofu)」(中央区築地4-2-10)などがある。
また、今回の「第100回東をどり」では、「陶箱弁当」(税込8000円)は東京吉兆、新喜楽、金田中、米村の4軒が日替わりで味を競う。「酒肴の折詰」(3000円)は東京吉兆、新喜楽、金田中、松山、米村、わのふの6軒が販売する。
そのほか、各料亭が年ごとに競う自慢の酒を持ち寄る日本酒競べや、今回は「ドン ペリニヨンブース」もある。
東京新橋組合によると、「東(あずま)をどり」とは、明治の頃、芸能を街の色に決めた新ばし芸者が一流の師匠を迎えて踊りと邦楽、技芸をみがき、やがて「芸の新橋」といわれるようになり、1925(大正14)年に新橋演舞場で第1回の東をどりを公演し、大東亜戦争(1941年から1945年)でレンガの壁を残して焼けた演舞場は戦後の復興の中で、「東をどり」の舞踊劇の脚本として、吉川英治(1892-1962)、川端康成(1899-1972)、谷崎潤一郎(1886-1965)、井上靖(1907-1991)、川口松太郎(1899-1985)らが書いた。
女だけの舞踊劇、台詞の稽古などしたことのない芸者衆の舞台は大きな挑戦で、そうした中でまり千代(1908-1996)というスターが現れる。1948年に戦後復活の東をどりで、男役を務め、凛々しい踊りの名手として「まり千代ブーム」を巻き起こし、東をどりは春秋のふた月の興行となった。
ウイキペディアによると、花街としての「新橋」は、現在の中央区銀座における花街で、昔から「芸の新橋」と呼ばれ、日本各地の花柳界からも一目置かれている。1857(安政4)年に現在の銀座8丁目付近に三味線の師匠が開業した料理茶屋が始まりといわれている。
当時、新橋の芸者(芸妓)の「能楽太夫(のうがくだゆう)」(芸妓の最高位)の名にちなみ「金春芸者」(こんばるげいしゃ)と呼ばれ、「金春新道」沿いに粋な家屋が明治初年まで並んでいた。
明治に入り、江戸期からの花街柳橋とともに「新柳二橋(しんりゅう・にきょう)」と称し、人気の花街となり、明治期に新政府高官が新橋をひいきにして集い、伊藤博文(ひろふみ、1841-1909)の愛人「マダム貞奴(さだやっこ、1871-1946)」、板垣退助(1837-1919)の愛人「小清(こせい、後に板垣清子、1856-1874)」、桂太郎(1848-1913)の愛人「お鯉(1880-1948)」らが知られている。また、殺人事件で知られた「お梅(1863-1916)」は金春芸者の中ではもっとも有名だった。
大正期になると芸者の技芸の向上に取り組み、1925(大正14)年に新橋演舞場のこけら落とし公演として「東をどり」を初演した。1926(大正15)年度の花柳名鑑によると、今の中央区(当時の京橋区、日本橋区)に組合の事務所を置く芸妓屋は、新橋(当時は京橋区竹川町)、柳橋(日本橋区吉川町)、葭町(日本橋区住吉町)、新富町(日本橋区新富町)、日本橋(日本橋区数寄屋町)、霊岸島(京橋区富島町)と5つあった。
昭和中期には最盛期を迎え、芸者約400人を擁し、高度経済成長期、石油ショック以後には料亭、芸者数が減り、2007年には料亭12軒、芸者70人に減っている。2015年12月17日の読売新聞によると、花街別の芸者の数は新橋約60人、赤坂22人、芳町(中央区日本橋人形町)7人、神楽坂20人、浅草26人、向島約90人となっている。
また、東京花柳界情報舎(https://www.tokyo-geisha.com/html/article/number_of_geisha2015.php)によると、2007年から2015年のデータを集計したところ、京都では20歳前後までの修業中の存在の舞妓(まいこ)とそれ以上の1人前の芸妓(げいこ)別で、祇園甲部が芸妓86人、舞妓28人、宮川町が芸妓40人、舞妓27人、先斗町が芸妓41人、舞妓10人、上七軒が芸妓18人、舞妓7人、祇園東が芸妓11人、舞妓5人で計芸妓196人、舞妓77人としている。
2015年の石川県金沢市の芸者の数もひがし茶屋街が14人、にし茶屋街が22人、主計町茶屋街が12人。2009年の新潟県の古町芸妓が在籍20人、実働10人。
新橋演舞場は1922(大正11)年に当時の「新橋芸妓協会」が中心となり、新橋演舞場株式会社を設立し、1925年に大阪にある演舞場や京都の歌舞練場を手本に新橋芸者の技芸向上を披露する場として建設され、3階建て、客席数1679席、こけら落しとして「第1回東をどり」が開かれた。銀座にありながら「新橋」と名付けられたのは、新橋芸者の技芸向上を披露する場とされたためという。
また、東京新橋組合の頭取で「金田中」の社長の岡副真吾さん(1961年生まれ)が4月9日に覚醒剤と大麻を所持した疑いで向島警察署に逮捕されたことから、4月14日の組合の緊急臨時総会を開いて、岡副真吾さんの解任と新喜楽取締役の蒲田智さん(1961年生まれ)が新しい頭取就任を決めている。
開始時間は昼の回が12時30分から14時10分、夕の回が16時から17時40分。料金は桟敷席1万2000円、雪席(1階、2階前方)が1万円、月席(2階後方、2階左右)が6000円、花席(3階自由席)が2000円。ただし、学生は学生証を提示すると、新橋演舞場で販売する当日券に限り半額になる。また、就学前の子どもの同伴、入場はできない。