日本橋三越が「神田祭と日本橋」展、神輿や山車、日本橋擬宝珠も

【銀座新聞ニュース=2025年5月6日】国内最大手の百貨店グループ、三越伊勢丹ホールディングス(新宿区新宿5-16-10)傘下の三越伊勢丹(新宿区新宿3-14-1)が運営する日本橋三越(中央区日本橋室町1-4-1、03-3241-3311)は5月7日から19日まで本館1階中央ホールで特別展「神田祭と日本橋ー氏神・明神さまと氏子・室町一丁目會」を開く。

日本橋三越で5月7日から19日まで開かれる特別展「神田祭と日本橋ー氏神・明神さまと氏子・室町一丁目會」のフライヤー。

2年に一度斎行される、江戸時代から続く「日本三大祭り」の一つである神田明神(神田神社、千代田区外神田2-16-2)の例大祭「神田祭」の日程(5月8日から15日)にあわせて、日本橋三越で神田明神が所蔵する絵巻物や錦絵などの作品や、12日から18日まで氏子である室町一丁目會が有する大神輿(おおみこし)、小神輿(こみこし)、加茂能人形山車(かものうにんぎょうだし)、精巧な「魚河岸水神社加茂能人形山車 巡行模型」(中央区民有形文化財)も展示する。2023年の「神田祭」の際にも「神田祭と日本橋」を開いており、2年ぶりとなる。

また、江戸時代の1658(万治元)年に設置された「日本橋擬宝珠(ぎぼし)」(三井記念美術館蔵)も特別に展示し、擬宝珠が描かれた浮世絵作品も併せて紹介する。葛飾北斎(1760-1849)の「冨嶽三十六景 江戸日本橋」、初代歌川広重(1797-1858)の「東都名所 日本橋魚市」や2代歌川広重(1826-1869)の「東都三十六景 日本橋」、歌川芳虎(1836-1880)の「東京日本橋馬車通行図」、渓斎英泉(けいさい・えいせん、1790-1848)の「木曾街道續ノ壱 日本橋雪之曙」、 昇斎一景(生没年不詳)の「東京名所四十八景 日本はし夕けし紀」など(いずれも神田明神所蔵)。

このほか、「神田明神祭礼図巻」(上巻の一部)は5月7日から12日までと、5月13日から19日で展示品を変える。

ウイキペディアによると、「神田祭」は山王祭、(江東区)深川八幡祭と並んで「江戸三大祭」の一つとされており、京都の祇園祭、大阪の天神祭と共に「日本の三大祭り」の一つにも数えられる。祭礼の時期は現在は5月の中旬だが、以前は旧暦の9月15日に行われていた。

「神田祭と日本橋」展に出品される実物の「日本橋擬宝珠」。

神田祭の起源については記録文書などがほとんど残ってなく、詳細は不明で、大祭になったのは江戸時代以降とされている。江戸時代の「神田大明神御由緒書」によると、江戸幕府開府以前の1600(慶長5)年に徳川家康(1543-1616)が会津征伐において上杉景勝(1556-1623)との合戦に臨んだ時や、関ヶ原の合戦(1600年)においても神田大明神に戦勝の祈祷を命じた。

神社では徳川家康の命によって毎日祈祷を行っていたところ、9月15日の祭礼の日に徳川家康が合戦に勝利し天下統一を果たした。これにより徳川家康の特に崇敬するところとなり、社殿、神輿、祭器を寄進し、神田祭は徳川家縁起の祭として以後盛大に執り行われることになったという。

江戸三大祭について「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様」と謳われたように、神田祭も元々は山車の出る祭りだったが、1868年10月23日の明治以降、路面電車の開業や電信柱の敷設で山車の通行に支障を来すようになり、次第に曳行しなくなった。さらに関東大震災(1923年)や戦災によって山車がすべて焼失した(但し山車に飾られていた人形や、明治期に売却されたという山車が関東各地に伝存する)。現在は山車に代って町御輿が主流となっている。

大祭は隔年(西暦奇数年)に行われる。主な行事としては、神幸祭、御輿宮入、太鼓フェスティバル、例大祭がある。神幸祭は5月15日に近い土曜日に行われる神社の行事で、8時に神社を出発し、一の宮・大己貴命(おおあなむちのみこと、大国主神=おおくにぬしのかみ=の別名、だいこく様)、二の宮・少名彦命(すくなひこなのみこと、えびす様)、三の宮・平将門(903-940)の鳳輦(ほうれん)や宮神輿が平安装束をまとった人々に付き添われ粛々と行進し、巫女(巫女装束)と乙女(壺装束)役の若い女性4人ずつが花を添える。13時頃に両国旧御仮屋(東日本橋駅付近)で休憩し神事を行う。16時頃に三越本店に到着、ここから御輿、山車、武者行列などの付け祭りが追加され、19時頃に神社に戻る。

葛飾北斎の「冨嶽三十六景 江戸日本橋」(1830年から1832年ころの作品)でも中央に日本橋擬宝珠が描かれている。

御輿宮入は神幸祭の翌日に行われる各町内の行事で、町内毎に町神輿による御輿連合を設立し、各地区を巡行する他、ある程度時間を決めて神社に練り込む。太鼓フェスティバルは神幸祭と御輿宮入の当日に神社の隣の宮本公園の特設ステージで開催される行事で、各日9時から19時頃まで、関東をはじめとした各地の和太鼓集団が数多く出演する。この中で、稚児舞(少女の巫女による浦安の舞)も行う。番組表は当日、現地で配布される。例大祭は毎年5月15日固定で行われる行事で、神社の巫女が正装の浦安の舞も行う。ただし、5月15日が日曜日の際は御輿宮入を優先し、例大祭の日程はずらす。

三越は1673(延宝元)年に伊勢松坂の商人、三井高利(たかとし、1622-1694)が、江戸本町1丁目(現在の日本銀行辺り)に、呉服店「越後屋」を開業(間口9尺=約2.7メートル=の小さな借り店舗)したのがはじまりで、「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」や「現銀掛値無し(げんきんかけねなし)」、さらに「小裂何程(こぎれなにほど)にても売ります(切り売り)」など、当時では画期的な商法を打ち出した。

当時、正札販売を世界で初めて実現し、当時の富裕層だけのものだった呉服を、広く一般市民のものにした。1683(天和3)年に大火にあい、本町から駿河町に移転し、両替店(現在の三井住友銀行)を併置し、1872(明治4)年に三井大元方(三井家全事業の統括機関)から分離して、新たに名目上の一家「三越家」名義で経営し、三井得右衛門(三井高信、1871-1922)が「三越得右衛門」と改姓し、大隈重信(1838-1922)や渋沢栄一(1840-1931)らから呉服店の分離を迫られ、「三越家」を設立した。

1875(明治8)年に糸店と売込店を三越から切り離し、大元方直轄の国産方(三井物産の前身)に移管した。1888(明治21)年に駿河町に「三越洋服店」を開店、1893(明治26)年に越後屋を「合名会社三井呉服店」に改組し、1904(明治37)年に「株式会社三越呉服店」を設立し、顧客や取引先に三井・三越の連名で、三越呉服店が三井呉服店の営業をすべて引き継いだ案内と、今後の方針として「デパートメントストアズ宣言」を行い、日本初の百貨店となった。

1928(昭和3)年に「株式会社三越」に改め、1929(昭和4)年に新宿店を開店、1930(昭和5)年に銀座店を開店、1932(昭和7)年に三越が建設資金を負担し、東京地下鉄道「三越前駅」が開業している。

2003年に子会社4社(千葉三越、名古屋三越、福岡三越、鹿児島三越)と合併(新設合併)により、(2代目)「株式会社三越」が誕生した。2008年に伊勢丹との共同持株会社「三越伊勢丹ホールディングス」を設立し、同社の完全子会社となっている。

開場時間は10時から19時。